映画には、グランド・ホテル方式という手法がある。1932年のハリウッド映画「グランド・ホテル」で効果的に使用されたためにその名が付いている。グランド・ホテル方式では、共通の場所や事件を巡って複数の独立したストーリーが同時進行する。それぞれのストーリーや、その中に登場するキャラクターは、完全に独立していることもあれば、お互いに微妙に交錯したり影響を与え合ったりもする。最後にそれらのストーリーがまとまることもあれば、独立したエンディングを迎えることもあるが、巧みに構成することで、全体としてひとつの作品に仕上がる。この手法はインド映画でも多用される。グランド・ホテル方式を採用したヒンディー語映画の中で近年もっとも完成度が高かったのは「Life In A… Metro」(2007年)だが、それを凌駕する作品が登場した。2008年8月22日より公開の「Mumbai Meri Jaan」である。2006年7月11日にムンバイーで発生し、200人以上の死者を出した同時爆破テロを主題にした、事実に基づくフィクション映画だ。
監督:ニシカーント・カーマト
制作:ロニー・スクリューワーラー
音楽:サミール・パテールペーカル
歌詞:ヨーゲーシュ、ヴィナーヤク・ジョーシー
出演:パレーシュ・ラーワル、イルファーン・カーン、マーダヴァン、ケー・ケー・メーナン、ソーハー・アリー・カーン、ヴィジャイ・マウリヤなど
備考:PVRナーラーイナーで鑑賞。満席。
ムンバイー、2006年7月11日。まず、ムンバイー在住ながら様々な階層やコミュニティーに属する5人が紹介される。 スレーシュ(ケー・ケー・メーナン)はコンピューターのセールスマンだが、実質的には失業者で、1万ルピーの借金を抱えながら無為な毎日を送っていた。彼はイスラーム教徒を毛嫌いしていた。 ルーパーリー・ジョーシー(ソーハー・アリー・カーン)は大手ニュース番組の看板レポーターで、もうすぐ結婚予定だった。だが、フィアンセは、不幸な人間に無理矢理インタビューを迫るニュース番組のやり方に批判的であった。 トーマス(イルファーン・カーン)はコーヒーを売って生計を立てる貧しいタミル人であった。ムンバイーの富裕層に対する言い知れない憤りを感じながらも、自転車でムンバイーを徘徊し、細々と暮らしていた。 トゥカーラーム・パーティール(パレーシュ・ラーワル)は定年間近の老警察官であった。彼は今まで誰とも争わず、中道主義を貫いて来た。だが、彼の指導下にある若手警官スニール・カダム(ヴィジャイ・マウリヤ)は、事なかれ主義を取るトゥカーラームのやり方に疑問を感じていた。スニールは妻とハネムーンに行くため、休暇を申請していた。 ニキル・アガルワール(マーダヴァン)はIT企業に勤めており、ある程度裕福な生活を送っていたが、環境保護のために自動車を買わず、列車で通勤していた。彼の妻は妊娠しており、もうすぐ出産予定だった。 この日、ムンバイーの市内鉄道で1等車両のみを狙った連続爆破テロが発生する。7ヶ所で次々に列車が爆破された。 ニキルは通常は1等車両で通勤していたが、その日はたまたま2等車両にいた。だが、1等車両にいた友人は、命は助かったものの、右手を失ってしまう。ニキルは家族にはテロに遭った列車に乗っていたことは黙っていたが、惨劇が脳裏から離れず、ノイローゼ気味になってしまう。列車に乗ることに恐怖を覚えるようになり、悪夢にうなされるようになる。ニキルは米国へ移住することを考え始める。 スレーシュもテロの現場に居合わせる。彼はイスラーム教徒の犯行だと決め付け、行きつけの食堂によく来ているユースフという若者が犯人ではないかと考え始める。ユースフはテロの直後から行方不明であった。あるとき、街でユースフを見かけ尾行する。だが、彼はガールフレンドと一緒にデートをしているだけだった。 ルーパーリーはテロ現場に駆けつけてレポートをしていたが、彼女のフィアンセがテロ直後から行方不明であることが分かり、病院を駆け巡る。やはりフィアンセはテロに巻き込まれて死んでいた。しかし、TV局はそれを特ダネと考え、ルーパーリーをインタビューし、報道する。かつて犠牲者のインタビューをしていたルーパーリーは、いざ自分がインタビューされる立場になり、初めてその気持ちを思い知る。 トゥカーラームは、休暇がキャンセルになって憤るスニールをなだめながらパトロールをしていた。強い正義感と共に警察に入ったスニールは、警察のシステムの中にいても何もできないことを思い知り、自殺を図る。だが、勇気が出ずに自殺は失敗する。 トーマスは、モールから追い出されたことを根に持っていた。トーマスは「爆弾を仕掛けた」という電話1本で人々を大混乱に陥らせることができることを知り、モールに悪戯電話をかけるようになる。だが、ある日、悪戯電話によってパニックになったモールで、心臓発作を起こした老人を目にし、罪悪感を感じる。 トゥカーラームの警官最後の日が来た。以前、深夜の道ばたでイスラーム教徒の老人をいじめていた若者スレーシュを見かけ、パトロールカーに招いて話をする。トゥカーラームはスレーシュに、宗教間の対立や、復讐に次ぐ復讐が何も生み出さないことを穏やかな調子で説く。そのおかげでスレーシュの心に変化が訪れる。 今までイスラーム教徒と仕事をしない方針を貫いて来たスレーシュであったが、それをやめて、イスラーム教徒の顧客とコンピューターの売買の話をする。まとまったお金が入ったスレーシュは、行きつけの食堂に行って、今まで付けていたお金を支払う。そのとき偶然ユースフと相席になる。話してみるとユースフはとてもいい人柄で、サーイーバーバーの信者でもあった。すぐにスレーシュとユースフは仲良くなる。 トーマスは、心臓発作を起こした老人が入院した病院で、老人が退院するのを待つ。病院を出て来た老人にトーマスは1輪のバラの花を渡す。 ニキルの妻が陣痛を訴えて病院へ運ばれた。ニキルはすぐに病院へ向かおうとするが、道路が渋滞していた。タクシー運転手は数時間はかかると言う。だが、病院は列車で行けばすぐに着く場所にあった。テロ以来、恐怖で列車に乗れなかったニキルだが、背に腹は代えられず、勇気を出して列車に乗り込む。 そのとき、ムンバイーでは、テロの犠牲者のために2分間の黙祷が行われた。ムンバイー全域が静寂に包まれた。ニキルも列車の中で黙祷し、涙を流す。
映画「C.I.D.」(1956年)の挿入歌で、ムハンマド・ラフィーとギーター・ダットが歌う名曲「Yeh Hai Bombay Meri Jaan」がエンディングで流れる。この曲の歌詞では、「全てが手に入るが、心だけは手に入らない都市、それがボンベイだ」と歌われる。だが、テロの犠牲者のためにムンバイーの全市民が2分間の黙祷を捧げるシーンでこの曲が流れることで、「ムンバイー市民に心がないことはない、むしろ心ある人々が住む都市なのだ」という主張が感じられた。
よって、ムンバイー賛歌とも呼べる映画なのだが、そこで取り上げられていた問題は、ムンバイーのみならず、インド全体に共通する問題である。例えばルーパーリーが主人公のストーリーでは、犠牲者の傷ついた心に塩をすり込む報道関係者の残酷さが浮き彫りにされていた。インドにはニュース専門番組がいくつもあるが、彼らは視聴率至上主義に毒されており、事件をなるべく劇的に脚色して伝えようとする。その過程で、犠牲者の心情を全く無視した大袈裟で悪趣味な報道になってしまうことが多い。このマスコミ批判は、映画中もっとも鮮烈なメッセージとなっていた。
スレーシュのストーリーでは、コミュナルな感情がどれだけの誤解を生み、しかも自分の人生をも台無しにしているかが描かれていた。トーマスのストーリーでは拡大する貧富の差が生む危険性が指摘されていたし、ニキルのストーリーではテロが目撃者に与える精神的ダメージの深さに光が当てられていた。トゥカーラームのストーリーでは、インドの警察の汚職やシステムの問題に触れながらも、頭ごなしにそれを批判したり、ラディカルな変革を求めるのではなく、「柔よく剛を制す」という知恵の大切さが全ての解決の鍵となりうることが暗示されており、もっともハートフルな展開となっていた。また、全体のストーリーをまとめる役割も担っていた。
グランド・ホテル方式の映画は、それぞれのストーリーを面白くし、相互に関連を持たせて相乗効果や統一性を付加し、しかもそれを最後で映画的にまとめるのに多大な才能と試行錯誤を要するが、「Mumbai Meri Jaan」はそれらを巧みにこなしていた。特に老警官トゥカーラームと新人警官スニールのやりとりは、映画の最大の魅力となっていた。
今ヒンディー語映画界でもっとも確かな演技力を持つ俳優が揃い踏みであった。コメディアンとして定評のあるパレーシュ・ラーワルは、今回は全くコメディー色を抑え、落ち着いた素晴らしい演技を見せていた。ケー・ケー・メーナンやイルファーン・カーンも高い演技力を持っている俳優で、今回もそれぞれ渋い演技をしていた。タミル映画界の名優マーダヴァンも良かった。唯一、ソーハー・アリー・カーンだけは、まだ地位を確立し切れていない俳優である。「Rang De Basanti」(2006年)の成功以来、いい作品に恵まれなかったが、この「Mumbai Meri Jaan」でシリアスな演技を披露する機会を与えられ、そつなくこなしていた。彼女は通常のヒロイン女優よりも、クロスオーバー映画系の女優になって行きそうだ。
「Mumbai Meri Jaan」は、ヒンディー語映画界におけるグランド・ホテル方式の完成形のひとつと言える。典型的な娯楽映画ではないが、とても心に響くいい映画である。テロのシーンなどではグロテスクな映像もあるが、それも映画のメッセージを強めるのに一役買っている。最近はテロを題材にした映画が多すぎて食傷気味になってしまうが、この映画は観て損はない。