Ikka

3.5
Ikka
「Ikka」

 2026年7月10日からNetflixで配信開始された「Ikka」は、善と悪、使命と家族の狭間で何とか正義を貫こうとする敏腕弁護士を主人公にした硬派な法廷劇である。題名の「Ikka」とはトランプのエースのこと、「切り札」と訳すことができる。日本語字幕付きで配信されており、邦題は「IKKA/イッカ」である。日本語字幕の質はとても良かった。

 監督は「Maharaj」(2024年)のスィッダールト・P・マロートラー。俳優のスィッダールト・マロートラーとは別人である。音楽はミトゥン。

 キャストは、サニー・デーオール、アクシャイ・カンナー、ディーヤー・ミルザー、ティロッタマー・ショーム、サンジーダー・シェーク、ダリヤー・ベーディー、シシル・シャルマー、ヴィジャイ・ヴィクラム・スィン、ジョーティ・ムカルジー、アカーンシャー・ランジャン・カプールなど。

 ムンバイーに住む無敗の敏腕弁護士アルジュン・メヘラー(サニー・デーオール)は、かつての部下シャウリヤマーン・ガウル(アクシャイ・カンナー)の弁護人を務めることになる。シャウリヤマーンは実業家・政治家ハルシュヴァルダン(シシル・シャルマー)の息子であり、アルジュンとは過去に因縁があった。かつてシャウリヤマーンは弁護士で、アルジュンの部下でもあったが、アルジュンは彼の弁護士資格を剥奪し法曹界から追放していた。また、アルジュンの妻アヴァンティカー(ディーヤー・ミルザー)はシャウリヤマーンの元恋人だった。シャウリヤマーンは、ソーマー・ミッタル(アカーンシャー・ランジャン・カプール)という女性を殺人未遂した容疑で逮捕されていた。選挙が近づいており、立候補予定のハルシュヴァルダンは何としてでも息子の無罪を勝ち取りたかった。政治的な圧力もあり、検察官にはまだ経験の浅いマドゥラー・バナルジー(ティロッタマー・ショーム)が任命された。

 普段ならばアルジュンは決してシャウリヤマーンの弁護人を務めなかった。だが、娘サマイラー(ダリヤー・ベーディー)が白血病になり、骨髄移植が必要だった。実はサマイラーは生物学的にはアルジュンではなくシャウリヤマーンの娘であり、シャウリヤマーンはドナーとして完全マッチした。娘の血縁ドナーになることを条件にアルジュンはシャウリヤマーンの弁護を引き受けたのだった。アルジュンは今まで数々の無実の容疑者の無罪を勝ち取ってきており、彼がシャウリヤマーンの弁護を引き受けたことで、世間ではシャウリヤマーンは無罪ではないかという憶測が飛び交った。

 アルジュンは、第一証人としていきなりシャウリヤマーンを呼ぶなど、奇抜な戦略によってマドゥラーを翻弄する。裁判はおおむねアルジュンの計画通りに進むが、結審直前に、事件があった夜シャウリヤマーンを目撃した人物が現れ、マドゥラーに有利になる。また、昏睡状態にあった被害者ソーマーが死亡し、シャウリヤマーンに掛けられていた殺人未遂容疑が殺人容疑に切り替わった。アルジュンはシャウリヤマーンがソーマーを殺していないことを前提に弁護をしてきたが、シャウリヤマーンは実は自分が殺したと明かす。だが、アルジュンは娘の命を救うためにシャウリヤマーンの弁護を続ける。

 事件のあった時刻にシャウリヤマーンのアリバイを確立すれば彼の無罪を勝ち取ることができるのだが、弁護側は彼の妻ガウリー(サンジーダー・シェーク)を証人にすることができなかった。そこでアルジュンはマドゥラーを罠に掛け、彼女がガウリーを証人にするように仕向ける。引っ掛かったマドゥラーは、ガウリーが証言を翻したと勘違いし、彼女を証言台に立たせる。アルジュンはガウリーの証言への反証となる証拠を提示し、シャウリヤマーンのアリバイを確立させることに成功する。カムラー裁判長(ヴィジャイ・ヴィクラム・スィン)は証拠不十分でシャウリヤマーンを無罪とする。

 シャウリヤマーンは約束通り血縁ドナーとなってスマイラーに骨髄を提供する。おかげでスマイラーの白血病は完治する。その後、アルジュンはシャウリヤマーンが行った目撃者抹殺をマドゥラーに垂れ込み、彼を再び逮捕させる。

 主人公の弁護士アルジュンは、弱者に正義をもたらすことをモットーとしており、常に無実の側に立って無罪を勝ち取ってきたことでムンバイーの法曹界では一目置かれる存在だった。その彼が、娘の命を救うために、無実かどうか怪しいシャウリヤマーンの弁護人を引き受けるという筋書きである。

 インド映画はしばしば「勧善懲悪」というキーワードと共に語れる。確かに大衆娯楽映画は、物語を単純化するために、完全な善と完全な悪を設定し、最後に善が勝つような筋書きにすることが多い。だが、「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」をひもといてみればすぐに分かるように、インド社会で綿々と語り継がれてきた説話では善と悪は必ずしもきれいに分かれていない。善玉にも後ろめたさがあるし、悪にも正当性があり、世の中は善と悪の二元論ではないことを教えている。

 アルジュンの行動も、善悪の二元論で評価しがたいものだ。アルジュンの理念は、法はそれ自体が正義ではなく、正義のための手段であるというものであった。杓子定規に法律を適用して人を裁くのではなく、正義を実現するために法律を活用すべきだと主張していた。よって、彼は決して罪を犯した者の弁護をせず、罪を犯していないのに裁かれようとしている弱者のために戦っていた。その彼がシャウリヤマーンの弁護を引き受けた。序盤ではシャウリヤマーンが本当に犯人なのかは不明瞭であったが、その不遜な態度から、彼が犯人であることは十分にほのめかされていた。しかもアルジュンはシャウリヤマーンと旧知の仲であり、彼のことをよく知っていた。無実だとは思えなかったが、娘を救うために日頃のモットーを曲げることになる。果たしてそれは彼の堕落を意味するだろうか。家族のために魂を売ることは、インドでは正当化されることがある。

 では、なぜ娘の命を救うためにシャウリヤマーンの助けが必要だったのか。この仕掛けはかなり手が込んでいた。アルジュンの娘サマイラーは、生物学的にはシャウリヤマーンの娘であった。シャウリヤマーンはかつてアルジュンの妻アヴァンティカーと付き合っており、そのときに身籠もった子がサマイラーだったのだ。サマイラーの生物学的親の特定はこれまでなされていなかったようだが、今回彼女が白血病と診断されたことで、骨髄移植のための血縁ドナーが必要になり、DNA検査をしたところ、生物学的な親が確定したのである。しかも、シャウリヤマーンはサマイラーの骨髄ドナーとして100%マッチした。シャウリヤマーンは、自分の無罪を勝ち取ることを条件にドナーになることを承諾する。

 実の子だと思って育ててきた娘の生物学的な親が別人だったことが分かったら、男性としては天地がひっくり返るほどの衝撃だと思うのだが、寛大なアルジュンはそこには執着していなかった。たとえ生物学的にはサマイラーの父親でないとしても、彼女を育ててきたのは自分であり、彼女の父親であると信じて疑わなかった。そして、シャウリヤマーンがサマイラーを「俺の娘」と呼ぶことを許さなかった。サマイラーの命を救うことが最優先で、シャウリヤマーンに頭を下げることもいとわなかった。また、かつてシャウリヤマーンはアルジュンの下で働く弁護士だったこともポイントだ。何があったのか詳しいことは分からないが、おそらくシャウリヤマーンは何かをしでかして、アルジュンは彼の弁護士資格を剥奪する申請を行ったのだと思われる。

 こういうわけで、アルジュンはシャウリヤマーンの弁護人になった。検察に任命されたマドゥラーが未熟だったこともあって裁判は弁護側に有利に進むが、途中で新しい証人が現れるなどしてひっくり返るなどしてドラマがある。それは法廷劇として一般的なストーリーラインだといえる。最終的にアルジュンはマドゥラーを罠に掛けるという姦計に頼ってシャウリヤマーンのために無罪を勝ち取る。

 正義の弁護士だったはずのアルジュンが、たとえ一刻も早く娘の手術をしなければならないという切迫した状況にあったとはいえ、非道徳的な手段に頼って強引に無罪を勝ち取りに行くのは、観ていて決して気持ちの良いものではない。むしろ心がざわめく。名前はアルジュンだが、彼の人物像には、「マハーバーラタ」に登場するユディシュティラと重なるところが多い。「嘘を付かない」ことで知られていた「正義の子」ユディシュティラは、要所で嘘を付いてマハーバーラタ戦争を有利に進める。その嘘はユディシュティラを「正義の子」から「ただの人の子」におとしめてしまった。アルジュンも、裁判に勝った後、マドゥラーから「シャウリヤマーンは勝ったかもしれないが、あなたは負けた」と見下されてしまう。

 ここで終わっていれば、この世には絶対的な正義もなければ絶対的な悪もないというメッセージが込められた哲学的な映画になっていたことだろう。だが、やはりカタルシスが欲しかったようで、最後にどんでん返しが用意されていた。アルジュンは、ソーマー殺人事件においてシャウリヤマーンに無罪をもたらしたが、シャウリヤマーンは目撃者を抹殺しており、アルジュンはそれに気付いていた。だが、あえてソーマー殺人事件でその新事実を取り上げず、彼をいったん無罪放免として、娘の骨髄移植手術を行った。そして、一件落着と思われたときに「切り札」を出し、シャウリヤマーンを目撃者殺人の容疑で逮捕させたのである。これにてアルジュンは父親としての使命も果たし、弁護士としての義務も果たしたことになる。確かにすっきりする終わり方だが、「この世の物事は善悪のどちらかで判断できない」という哲学的なメッセージは薄まってしまっていた。

 娘のために戦う親という構図は、サマイラーのためにシャウリヤマーンを弁護することを決めたアルジュンの決断にもっとも顕著に表れているが、殺されたソーマーのために正義を求めるその母親もその相似形になっている。シャウリヤマーンの無罪は、父親として無理を通してでも実現しなければならなかったが、そうすることで、ソーマーのために裁判を戦う母親の気持ちを蔑ろにするものでもあった。アルジュンにとっては深刻な葛藤だったに違いない。

 よく注目すると、マドゥラーにも娘がいた。もしかしたらマドゥラーも娘のために戦っていたのかもしれない。マドゥラーの夫がコロナ禍以来失業状態にあったことには言及されるが、彼女の娘については詳しいことが分からない。もしマドゥラーが何らかの形で娘を念頭に置いて検察をしていたという設定があったとしたら、よりきれいな構造になっていたことだろう。

 近年、1990年代から2000年代に掛けて最盛期だった往年のスターたちの復活が相次いでいる。「Ikka」のメインキャラクターを演じたサニー・デーオールとアクシャイ・カンナーはその筆頭だ。どちらも2010年代には低迷していたのだが、サニーは「Gadar 2」(2023年)、アクシャイは「Chhaava」(2025年)や「Dhurandhar」シリーズ(2025年/邦題:ドゥランダル作戦・2026年)の大ヒットで再評価され、仕事が増えている。「Ikka」での演技もさすがの一言だ。映画中、マドゥルが左腕にギブスをしているシーンがあったが、それについて問われた彼女は「2.5kmの腕」と表現していた。これはサニー・デーオールの代表作「Damini」(1993年)中に彼が発する有名なセリフの引用であり、筋肉で売っているサニーの代名詞だ。ただ、彼はアクション映画だけでなく、「Ikka」のようなドラマ映画でも実力を発揮しており、もっと評価されていい俳優である。また、終幕直前の背景に、「Dhurandhar」の「Fa9la」にてアクシャイがアドリブで踊ったという独特な踊りによく似た動きをしている人がいたのを見逃さなかった。

 ちなみに、サニーとアクシャイが共演したのは「Border」(1997年)以来だという。確かにこの二人がスクリーンを頻繁にシェアしていた印象はない。彼らを起用して法廷で激突させたのはキャスティングの妙であった。また、その二人に、「Monsoon Wedding」(2001年/邦題:モンスーン・ウェディング)や「Sir」(2019年/邦題:あなたの名前を呼べたなら)などで有名な実力派女優ティロッタマー・ショームを混ぜたというのも意外性のあるキャスティングだ。ディーヤー・ミルザーも限られた出番をものにしていたし、サマイラー役の子役俳優ダリヤー・ベーディーも愛らしかった。

 「Ikka」は、近年になって再評価が進み2度目の春を経験しているサニー・デーオールとアクシャイ・カンナーが約30年振りに共演する、重厚な法廷劇である。なにが正しく何が間違っているのか、その境界線を攻める筋書きは非常にスリリングであるが、最後にはカタルシスを優先し、凡庸な終わり方に落ち着いてしまっていたのが残念だった。「Dhurandhar」でアクシャイ・カンナーのファンになった人には、同じ雰囲気の演技をしているので、おすすめできる。