The Last Tenant

3.0
「The Last Tenant」

 イルファーン・カーンは、ヒンディー語映画界でもっとも尊敬を集めてきた実力派俳優の一人である。国立演劇学校(NSD)卒業生であり、ミーラー・ナーイル監督「Salaam Bombay!」(1988年/邦題:サラーム・ボンベイ!)で端役出演するなど既に1980年代に足跡を残してはいるが基本的には苦労人であり、ヒンディー語映画界で注目を集めるのようになったのは「Maqbool」(2004年)以降である。国際プロジェクトにも声が掛かることが多く、「The Namesake」(2007年/邦題:その名にちなんで)、「Slumdog Millionaire」(2009年/邦題:スラムドッグ$ミリオネア)、「アメイジング・スパイダーマン」(2012年)、「Life of Pi」(2012年/邦題:ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日)、「ジュラシック・ワールド」(2015年)などに出演してきた。間違いなくインドを代表する俳優であったが、神経内分泌腫瘍を患い、2020年4月29日に53歳で急逝した。インド映画界にとっては大きな痛手だった。

 2026年2月29日、イルファーンの6周忌に突如としてYouTubeに、未公開のイルファーン・カーン主演作がアップロードされた。「The Last Tenant」と題した44分ほどのこの短編映画は、2000年に撮影されたものの公開されずに長らくお蔵入りし、四半世紀の歳月を経てようやく日の目を浴びた。監督は「The Great Indian Butterfly」(2007年)や「Music Teacher」(2018年)のサールタク・ダースグプター監督。低予算のインディーズ作品として製作されたが、ポストプロダクションの段階でオリジナルの映像データが行方不明になり、公開されずに終わってしまったという。だが、最近ダースグプター監督が引っ越しした際にこの映画が収められたVHSビデオが発見され、修復・デジタル化が行われ、こうしてYouTubeで公開されることになったのだった。

 イルファーン・カーンの他にはヴィディヤー・バーラン、サウラブ・アガルワール、アンヌー・カンデールワールなど。ヴィディヤーがブレイクしたのは「Parineeta」(2005年)なので、イルファーンとヴィディヤー共にまだ売れていない時代に出演した作品ということになる。

 舞台はムンバイー。ヴァイオリン奏者のサーガル(イルファーン・カーン)は、恋人マーンヴィー(ヴィディヤー・バーラン)と別れた後、自暴自棄になっていた。気分転換のために米国に音楽留学を計画しており、入学許可が下りるのを待っていた。家賃を滞納していたため、住んでいた家を明け渡すことになり、友人のマンディー(サウラブ・アガルワール)の紹介で、ビーチ近くにあるコテージに引っ越す。そのコテージには幽霊が出るとの噂で、誰も寄りつかず、安価に住むことができた。

 サーガルが新居でヴァイオリンを弾いていると、どこかから別のヴァイオリンの音が聞こえてくることに気付いた。サーガルは大家のデコスタに問いただす。デコスタによると、かつてこのコテージには彼の兄とその娘マリア(アンヌー・カンデールワール)が住んでいた。だが、マリアはヴァイオリンをよく弾いていた。漁業を生業にしていた兄の部下にマイケルという男がおり、彼もヴァイオリンが弾けた。いつしかマリアとマイケルは恋に落ちた。それを知った兄は怒ってマイケルを殺した。ショックを受けたマリアはコテージで自殺し、以後、そこでは彼女の幽霊が出るようになったのである。

 サーガルはそれを聞いても動じず、逆にマリアに話し掛けるようになる。そして、一緒にヴァイオリンを弾こうと誘う。サーガルは幽霊との共同生活を始め、性格も明るくなった。その後、マーンヴィーが彼を訪ねてくるが、マリアとの語らいに満足していたサーガルは彼女を迷わず追い返す。

 あるときサーガルの元に米国の音楽大学から入学許可が届く。サーガルは喜び勇んで荷造りをし、マリアに別れを告げて去って行こうとする。そのとき悲しげなヴァイオリンの音が響き渡り、サーガルはコテージに戻る。そこでサーガルは初めてマリアの姿を目にする。

 ヴィディヤー・バーラン演じるマーンヴィーは駆け出しの歌手であり、プレイバックシンガーになるのを夢見ていた。彼女は成功をつかむため、ラージャ・セーンという人物の助けを借りてCDデビューする。だが、サーガルにはそれが面白くなかった。明示されていないが、成功を急ぐあまり業界の権力者に取り入ろうとするマーンヴィーの手法が気に食わず、二人は別れたと思われる。サーガルもヴァイオリン奏者として映画音楽の録音に参加していたが、マーンヴィーのことが忘れられず、全く別の道を模索する。彼はオーケストラでヴァイオリンを演奏するため米国留学しようと思い立つ。だが、入学許可を待つ間、住む場所が必要だった。元々住んでいた場所は大家から出て行くように追い立てられていた。なかなか短期間だけ借りられる家もなかったが、友人の紹介により見つけた低家賃の物件が、この映画の舞台になるコテージだった。このコテージにはマリアという女性の幽霊が住み着いていた。

 とはいっても「The Last Tenant」はホラー映画の類ではない。幽霊が出て来るが、怖がらせるタイプの幽霊ではない。ヴァイオリンによって存在をアピールしようとする控え目な幽霊である。

 コテージに住み始めたサーガルはすぐに異変を察知する。彼がヴァイオリンを弾くと、どこからか別のヴァイオリンの音が聞こえてくるのである。生前、マリアはヴァイオリンを弾くのが好きだったし、彼女の意中の人もヴァイオリン奏者だった。大家からマリアのことを聞いたサーガルは、逃げ出すのではなく、むしろその家に住み続けてマリアと対話しようとする。マーンヴィーを失った彼は孤独であり、幽霊でもいいから話し相手が欲しかったのだ。いや、むしろ幽霊の方が無口だし口答えもせず好都合だった。マリアがサーガルの前に姿を現すこともなかった。だが、サーガルはヴァイオリンによって彼女の存在を感じることができた。

 インディーズ作品ながら、ここまでの展開はなかなか面白い。もっと膨らませることができたのではないかと思う。だが、サーガルの米国行きが決まるとあっけなく結末に向かい、最後は観客に解釈を委ねるような形で締めていた。ちょうどいいところで尻切れトンボに終わってしまった印象を受けた。

 VHSから起こした映像なのでさすがに画像は粗い。だが、イルファーン・カーンの独特のセリフ回りや素振りはこの頃から健在で、それを十分に見るができる。ヴィディヤー・バーランはサーガルの元恋人役で、サーガルを裏切った存在であり、どちらかといえばセカンドヒロインだった。

 「The Last Tenant」は、2020年に急逝した名優イルファーン・カーン主演の未公開作品で、彼の6周忌を記念して配信された短編映画だ。イルファーンがまだくすぶっていた2000年に撮影された作品であるが、彼の持ち味は十分に発揮されている。イルファーンのファンにとってはまたとない贈り物だ。


https://www.youtube.com/watch?v=Riu9OGAgwzY