
イスラーム教のシャーリア法では、男性は妻に対し「タラーク(離婚)」という言葉を3回唱えることで離婚ができるとされている。いわゆる「トリプル・タラーク」である。この離婚の容易さは、イスラーム教徒女性の権利を大いに侵害してきた。インド憲法では第44条において、全ての国民に統一民法(UCC)を適用する努力を国に義務づけているが、実際には宗教ごとに結婚などの規定が異なっており、たとえばヒンドゥー教徒、仏教徒、ジャイナ教徒、スィク教徒にはヒンドゥー個人法、イスラーム教徒にはムスリム個人法が適用されている。だが、モーディー政権はイスラーム教徒女性の地位向上に努めており、2019年にはムスリム女性の結婚に関する権利保護法(2019年)が成立し、トリプル・タラークを無効とした。モーディー政権はさらに、統一民法の制定も画策しており、シャーリア法の廃止を目論んでいる。当然、保守的なイスラーム教徒からは、モーディー政権のこの動きは、イスラーム教への攻撃と見なされている。
ただ、世俗法とシャーリア法も対立はモーディー政権時代に初めて起こった問題ではなく、過去にも何人ものイスラーム教徒女性たちが自身の権利を守るために戦ってきた。その中でももっとも象徴的なのがシャー・バーノー事件である。これは、女性が離婚した後に元夫から受け取る扶養料を巡る裁判である。夫ムハンマド・アハマド・カーンからトリプル・タラークを突き付けられたシャー・バーノーは、世俗法である刑事訴訟法(CrPC)第125条にもとづき、自身や5人の子供の扶養料の支払いを求め裁判を起こした。アハマドは、イスラーム教徒の結婚やそれにまつわる事項はシャーリア法にもとづくと主張し、扶養料の支払いを拒否した。この裁判は1978年にマディヤ・プラデーシュ州インドールの地方裁判所から始まり、1985年に最高裁判所で結審した。最高裁はバーノーの訴えを認め、アハマドに扶養料の支払いを求めた。だが、この判決はイスラーム教徒コミュニティーの間で大きな物議を醸し、政治的な介入も行われた。その結果、当時のラージーヴ・ガーンディー首相は、扶養料の支払いを離婚後3ヶ月のみとするムスリム女性結婚に関する権利保護法(1986年)を成立させた。結果論になるが、保守的なイスラーム教徒に迎合したこの政治介入は、後々にアヨーディヤー問題を引き起こす遠因となった。
2025年11月7日公開の「Haq(権利)」は、シャー・バーノー事件を題材にした映画である。1970年代から80年代にかけて起こった実際の裁判を映画化したものだが、その論点は現代にも尾を引いており、結果的にモーディー政権の決断を支持し、当時の国民会議派(INC)政権の決断を批判する内容になっている。よって、またしても親モーディー、親インド人民党(BJP)であり、アンチINCの映画になる。ただ、シャー・バーノー事件について知りたかったらこれ以上にない教材である。
監督は「Ek Khiladi Ek Haseena」(2005年)や「Aatma」(2013年)などのスパルン・ヴァルマー。主演はヤミー・ガウタムとイムラーン・ハーシュミー。他に、新人ヴァルティカー・スィン、ダーニシュ・フサイン、シーバー・チャッダー、パリディ・シャルマー、SMザヒール、アスィーム・ハッタンガディー、ラーフル・ミトラ、アナング・デーサーイー、ラージョーシー・ヴィディヤールティーなどが出演している。
シャーズィヤー・バーノー(ヤミー・ガウタム)は、弁護士ムハンマド・アッバース・カーン(イムラーン・ハーシュミー)と結婚し、3人の子供に恵まれ、幸せな結婚生活を送っていた。ただ、最近は夫が仕事に忙しく、会話が少ないことに悩んでいた。そんなある日、アッバースは突然パーキスターンのマリーへ出掛ける。先祖代々の土地に関する取引をまとめなければならないとのことだった。3週間の予定で旅立ったアッバースをシャーズィヤーは待ち続けたが、ようやく帰ってきたのは3ヶ月後だった。しかも、彼はマリーで結婚し、2人目の妻サーイラー(ヴァルティカー・スィン)を連れてきていた。シャーズィヤーは激怒する。
それでも、サーイラーが前夫に先立たれたことなどを聞き、幾分彼女に同情して、第一夫人として彼女を受け入れようと努力する。だが、サーイラーは、実はアッバースと旧知の仲で、しかもシャーズィヤーとの結婚前に恋仲にあったことを暴露する。アッバースはサーイラーと共にばかり過ごすようになり、やがて彼女は妊娠する。アッバースが結婚記念日に彼女を冷遇したことをきっかけにシャーズィヤーは3人の子供を連れて実家に帰ってしまう。
アッバースはシャーズィヤーと子供の養育のために毎月200ルピーの扶養料を支払うことを約束する。だが、やがて扶養料の支払いが滞るようになる。シャーズィヤーはアッバースを訪ね、扶養料を支払うように要求するが、アッバースはそれを拒否する。そこでシャーズィヤーは、父親バシール・アンワル(ダーニシュ・フサイン)と共に裁判所に訴える。この動きはイスラーム教徒コミュニティーの間で反感を買い、ムスリム個人法委員会からも糾弾される。シャーズィヤーの味方になった弁護士ベーラー・ジャイン(シーバー・チャッダー)は刑事訴訟法第125条を使って扶養料の支払い命令を裁判所に出してもらうことにした。
アッバースはシャーズィヤーを呼び出し、彼女の前で3回「タラーク」と言い、彼女に一方的に離婚を言い渡す。アッバースの主張では、これでシャーズィヤーとの間に婚姻関係はなくなり、シャーリア法にもとづいて扶養料の支払い義務も消え去ったとのことだった。ベーラーは、聖典クルアーンにトリプル・タラークの規定はないとして離婚の無効を訴えた。地方裁判所では勝訴したが、毎月の扶養料はたったの22ルピーにしかならなかった。
シャーズィヤーは高等裁判所に告訴し、裁判は続いた。実家に住めなくなったシャーズィヤーは3人の子供を連れてアッバースの家の庭に建てられた離れに住み始める。かつてアッバースがその土地の権利をシャーズィヤーの名義にしたのだった。そして、裁判を戦い続ける。高等裁判所の判決もシャーズィヤーの勝利となり、扶養料は180ルピーにまで上がった。だが、今度はアッバースが上訴した。
最高裁判所でアッバースは独立インドにおけるイスラーム教徒コミュニティーの受難を訴え、被害者カードを切ってきた。だが、ベーラーはシャーズィヤーに困窮を独白させ、同じく感情に訴える。最高裁判所は高等裁判所の判決を維持した。
「Haq」の中でヤミー・ガウタムが演じたシャーズィヤーは20代から30代くらいの女性として描かれているが、1970年代から80年代にかけて裁判を争ったシャー・バーノーは印パ分離独立前の生まれで、実際にはこのときには60代から70代になっていた。シャーズィヤーの夫アッバースのモデルになっているアハマドが第二夫人と結婚したのは1946年で、まだ印パ分離独立前だ。アッバースがパーキスターンへ行って第二夫人を娶ってくる描写があり違和感があるが、この辺りは実話の登場人物と年齢に大きなズレがあるために起こったことである。
「Haq」で議論が提起されているのは、宗教は憲法や法律よりも優先されるかどうかという命題である。その具体的な論点になっているのが、トリプル・タラークの有効性と、離婚後に夫から妻に支払われる扶養料だ。シャーズィヤーを弁護することになったベーラーはまず、離婚の無効性を争おうとする。確かにシャーリア法ではトリプル・タラークの規定があるものの、クルアーンでは一方的な離婚は戒められており、アッバースによるシャーズィヤーに対する離婚も無効であると主張する。だが、離婚に関してはムスリム個人法の範疇であり、世俗的な裁判所では争われないことになった。よって、論点は扶養料の是非に移る。ちなみに、実はシャー・バーノー事件では離婚の有効性は争われなかった。トリプル・タラークが論点になったのは、シャーヤラー・バーノー事件であり、2017年に判決が下された。「Haq」では、シャー・バーノー事件だけではなく、イスラーム教徒女性の権利に関わる他の裁判もストーリーに組み込まれている。
「Haq」においてアッバースとシャーズィヤーの間で離婚が成立したことが確かめられると、今度はアッバースに扶養料支払いの義務があるかどうかが論点となった。世俗法である刑事訴訟法では、夫婦で離婚が発生し、元妻が経済的に自立していない場合に、元夫に対して元妻やその子供の養育のために一定額の扶養料を支払うことを義務づけている。だが、ムスリム個人法では、シャーリア法にもとづき、離婚した妻に対する経済的支援の義務が規定されてしなかった。これを根拠にアッバースはベーラーの訴えを無効と主張する。この裁判は最高裁判所までもつれこみ、最終的に世俗法が宗教法に優先されることが確認された。これはインド法制史において画期的な判決だった。
単なる歴史的な事件の映画化ではなく、このストーリーは現代までつながっている。「Haq」はトリプル・タラークを非人道的な慣習として断罪しているが、これはモーディー政権が2019年に決行したトリプル・タラークの違法化を支持する内容である。また、宗教ごとに適用される民法が異なることへの批判も含まれており、これはモーディー政権が進める統一民法の動きと歩調を合わせたものだと理解できる。
シャーズィヤー役を演じたヤミー・ガウタムは、非常に幅広い映画および役柄に挑戦してきた女優だ。だが、持ち味は「Vicky Donor」(2012年)や「OMG 2」(2023年)のような社会的に有意義なメッセージを発信するタイプの映画のようであり、「Haq」もそのひとつに含まれるだろう。ただ、「Uri: The Surgical Strike」(2019年/邦題:URI サージカル・ストライク)などで知られる愛国主義的なアーディティヤ・ダル監督と結婚したこともあって、現政権を支持する内容の映画への出演も多く、「Haq」でもかなり政治的な思惑が見え隠れしていた。だが、彼女の演技は素晴らしく、男尊女卑的なイスラーム教徒コミュニティーの中で抑圧されながらも世俗国家において全国民に与えられた権利を守るために勇敢に立ち上がる女性を力強く感情的に演じ切った。
アッバース役を演じたイムラーン・ハーシュミー、シャーズィヤーを支える頼もしい父親を演じたダーニシュ・フサインなども好演していた。
「Haq」は、1980年代にインド社会を揺るがしたシャー・バーノー事件を中心として描出し、権利を守るために法廷闘争を戦い抜いたイスラーム教徒女性の姿を讃えると共に、政治介入を行って最高裁判所の判決を骨抜きにしたINCへの批判や、トリプル・タラークを無効化したモーディー政権への支持、そして一刻も早い統一民法の実現など、現代的文脈での政治的なメッセージも混ぜ込まれた、取り扱い注意な作品になっている。だが、シャー・バーノー事件の本質を手っ取り早く知りたい場合には最適な教材であり、映画としても完成度が高く、無視できない作品になっている。興行的には期待外れに終わった。
