
2014年にカリスマ政治家ナレーンドラ・モーディー率いるインド人民党(BJP)が中央で与党になって以来、インドではモーディーやBJPを上げ、ライバル政党であるインド国民会議派(INC)を下げる映画が盛んに作られるようになった(参照)。2024年の下院総選挙でBJPから出馬して当選した女優カンガナー・ラナウトが監督・主演の「Emergency」も完全にその延長線上にある映画であることが予想された。なにしろINCにとって最大の汚点になっている非常事態時代(1975-77年)が主題になっているのだ。どう考えてもアンチINC映画であった。
「Emergency」は2023年末には完成していたとされる。だが、2024年の下院総選挙に影響を及ぼすことが懸念され、公開日が何度も延期されてきた。また、検閲機関である中央映画認証局(CBFC)がなかなか上映許可を出さなかったともいわれている。最終的にこの映画が公開されたのは2025年1月17日であった。
題名こそ「Emergency」になっているものの、この映画は事実上、インドの第3代首相インディラー・ガーンディー(1917-84年)の伝記映画である。インディラーの子供時代から物語が始まり、インディラーの死でもって物語が終わる。インディラーが2期目の首相を務めていた1975年、彼女は非常事態宣言を行う。1971年の選挙で彼女の不正が裁判所によって認定され、彼女の当選が無効化され被選挙権が停止されたことを受けての強硬措置であった。憲法が停止され、言論の自由が制限され、野党政治家や活動家たちが軒並み逮捕された。もちろん、非常事態時代にインディラーと彼女の愛息子サンジャイ・ガーンディーによって行われた強権政治の数々が描かれるが、それだけの映画ではなかった。
カンガナー・ラナウトは既に「Manikarnika: The Queen of Jhansi」(2019年/邦題:マニカルニカ ジャーンシーの女王)で監督デビューを果たしており、本作が彼女にとって2作目の監督作となる。もちろん、主役のインディラー・ガーンディーを演じるのも彼女だ。他には、アヌパム・ケール、シュレーヤス・タールパデー、マヒマー・チャウダリー、アヴィジート・ダット、ミリンド・ソーマン、ヴィシャーク・ナーイル、サティーシュ・カウシク、ダルシャン・パーンディヤー、サンジャイ・グルバクシャーニー、ディーパーンシャー・ディングラー、ラージェーシュ・カトリー、アビマンニュ・ヴァシシュト、アーディル・バット、リシ・カウシクなどが出演している。また、フランス在住の日本人撮影監督、永田鉄男がスタッフに加わっている点も特筆される。彼は既にカンガナー主演作「Dhaakad」(2022年)にて仕事をしており、彼にとっては2作目のインド映画となる。
実在の政治家の伝記映画であることもあって、実在する政治家が他にも登場するのは、インド現代史をよく知る者にとっては興味深いことである。しかも、なるべく本人にそっくりな俳優を起用する努力が払われている。
インド初代首相ジャワーハルラール・ネルー(サンジャイ・グルバクシャーニー)の娘インディラー・ガーンディー(カンガナー・ラナウト)は、1962年の第一次中印国境紛争の結果、インドがアッサム州を失う危機にあった中、現地に飛んで現地の人々を激励した。その効果もあってインドと中国の間で停戦条約が交わされ、アッサム州の喪失を防いだ。だが、ネルー首相は政治家として台頭する娘に嫉妬し、彼女を遠ざけるようになる。ネルー首相は後継者にラール・バハードゥル・シャーストリーを指名する。1964年にネルーは死去し、シャーストリーが第2代首相に就任する。だが、シャーストリーは1966年にウズベキスタンのタシュケントで客死し、インディラーが第3代首相に就任する。
インディラーは1971年に東パーキスターンの内戦に介入し、第3次印パ戦争が勃発する。パーキスターン側に付く米国の脅威にさらされながらも戦争を短期間で終わらせることに成功し、勝利を手にする。インディラーの人気は最高潮に達し、「インドはインディラーであり、インディラーはインドである」とまで言われた。だが、インディラーの次男サンジャイ・ガーンディー(ヴィシャーク・ナーイル)の横暴が目立つようになっていた。それでもインディラーはサンジャイを溺愛しており、彼を制御することができなかった。インディラーはサンジャイをメーナカー(ディーパーンシャー・ディングラー)と結婚させる。
1975年、インディラーは裁判所から当選無効の判決を受けたことで非常事態宣言を発令する。社会改革運動を主導していた活動家ジャヤプラカーシュ・ナーラーヤン(アヌパム・ケール)や野党政治家アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー(シュレーヤス・タールパデー)などが投獄される。
1975年8月15日に、バングラデシュ独立の立役者シェーク・ムジブッレヘマーン(リシ・カウシク)とその一家が暗殺される事件があったこともあり、インディラーは非常事態を解除することで自分が人々によって殺されるという妄想にとりつかれた。非常事態は長期化し、その間、サンジャイは貧困者の人口抑制のために全国で強制的に去勢キャンペーンを行う。インディラーとサンジャイの人気は地に墜ちた。
インディラーは1977年に非常事態を解除し、総選挙に打って出る。この選挙でインディラーとサンジャイは落選し、INCも惨敗して、野党が野合したジャナター党政権が樹立する。また、インディラーは逮捕され、投獄される。ジャナター党政権は安定せず、短期間に首相が何度も入れ替わって、有権者の支持を失う。釈放されたインディラーは補選に当選して国会議員になり、1980年の総選挙でも勝利して、首相に返り咲く。だが、飛行機事故によってサンジャイを失う。
1984年、ハリマンディル・サーヒブに立て籠もったスィク教徒活動家、ジャルナイル・スィン・ビンドラーンワーレーをブルースター作戦によって殺害する。この行動がスィク教徒の間に反感を呼び、インディラーは同年10月31日にスィク教徒護衛によって暗殺されてしまう。
近年、特にヒンディー語映画界にプロBJP、アンチINCの映画が氾濫している中、鑑賞前からこの「Emergency」の内容も大方予想が付いていた。きっと、緊急事態宣言によってインドの憲法と民主主義を踏みにじったインディラー・ガーンディー首相を徹底的に悪者にした映画であろう、と。現在のINCを率いているのはインディラーの孫に当たるラーフル・ガーンディーだ。インディラーを貶めることで類推的にラーフルを貶めることができ、引いてはINC全体に打撃を与えることができる。だが、意外なことに実際に観てみたところ、かなりバランスの取れた視点でインディラーの実像を映し出そうとする努力が感じられた。1971年の第3次印パ戦争で見せた決断力や度胸は、何の当てこすりもなく素直に称賛されていたし、息子サンジャイを溺愛する人間的な弱さにも同情が寄せられていた。
ただ、CBFCによってなかなか上映の認可が下りなかったという裏話から察するに、検閲の結果、そういう形になっただけなのかもしれないと邪推する。たとえば、インディラーに加えてガーンディー家の面々も登場するが、サンジャイ・ガーンディーを除けば、他のメンバーにそれほどスポットライトは当たらない。後に首相になったラージーヴ・ガーンディー、その妻でINCの党首も務めたソニア・ガーンディー、ラーフル・ガーンディーの姉プリヤンカー・ガーンディーなどが登場するが、映画における彼らの存在感はゼロに等しい。よって、特にこの映画によって彼らが不利益を被るようなことはない。もしINCやガーンディー家を徹底的にこき下ろしたいのであれば、彼らも槍玉に挙がったはずだ。また、現在のBJPにつながる政治家としてアタル・ビハーリー・ヴァージペーイーが登場する。彼はBJPとして初の首相になった人物でもある。彼については出番が多かったが、彼を格別に英雄視するような論調は強く感じなかった。それに、ヴァージペーイー首相の伝記映画としては既に「Main Atal Hoon」(2024年)が作られている。
この映画が物議を醸したのはむしろスィク教徒の間で殉教者として崇拝されるジャルナイル・スィン・ビンドラーンワーレーの描写である。ビンドラーンワーレーはスィク教徒のための国家建設を求め、インド国家に公然と反旗を翻した。インディラー・ガーンディー首相はビンドラーンワーレーに対して強硬姿勢で臨んだ。アムリトサルにあるスィク教の聖地ハリマンディル・サーヒブに立て籠もったビンドラーンワーレーに対し、インディラー・ガーンディー首相は軍を突入させて殺害したのである。スィク教の聖地が軍人によって踏みにじられたことはスィク教徒の間に動揺をもたらし、インディラー・ガーンディー首相暗殺の直接の原因になった。この流れはおおむね史実に基づいていると思われるが、一部、元々投獄されていたビンドラーンワーレーが政治的な理由からサンジャイ・ガーンディーの手引きによって釈放されたように受け止められるシーンがあり、気になった。おそらく検閲前のバージョンではこの辺りがもっと詳しく語られていたのではないかと思われる。
2時間25分ほど長さに収められた映画であり、とてもインディラーの存命中または在職中に起こった重要な出来事を全て網羅した伝記映画にはなっていない。また、インディラーほどの重要人物を取り上げる上で、事実を当たり障りのない客観的な描写で映像化してもつまらなくなるし、脚色を加えると捏造だと批判されるのは最初から運命付けられている。いわば負け戦だ。シャーム・ベーネーガルのような大監督ですら、インディラーと同じくらい係争の的になりがちな政治家スバーシュ・チャンドラ・ボースの伝記映画「Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero」(2005年)を名作にもヒット作にもすることはできなかった。元々難しい主題なのだが、最初から負け戦だと分かっている企画の中で、最大限の政治的中立性を保ちながら、かつ時間内に収まるように、彼女の生涯に起こった出来事を取捨選択しつつ、賢明に作り上げられた映画だと感じた。
おそらくカンガナーが描きたかったのは、独裁者の内面的な弱さである。インディラーは常に自身の中にいる弱い自分と戦いながら政治的な判断を繰り返してきた。非常事態宣言も、彼女の強さからではなく弱さから発せられたものだった。1971年の第3次印パ戦争で勝利したインディラーは、権力という獰猛な獣の上に乗ることになった。その獣は次第に制御不能になっていき、周囲の敵を食い散らしていった。彼女は、その獣から下りた途端に自分も食われるのではないかと恐れるようになる。その恐怖が非常事態宣言という形を取ったのである。独裁者は、独裁を推し進めることによってますます自分を追い込んでいき、独裁を止められなくなる。独裁者の孤独がよく表現されていた。
また、インド政治にバングラデシュの情勢が少なくない影響を与えていたことが指摘されていたのが新鮮だった。1971年のバングラデシュ独立がインディラーの人気と権力を確固たるものとしたのはよく知られた事実であるが、1975年のシェーク・ムジーブッレヘマーンの暗殺もインド政治を揺さぶったようだ。インディラー・ガーンディー首相が緊急事態宣言を発令したのは1975年6月25日だった。映画の描写からすると、彼女は同年8月15日の独立記念日に緊急事態の解除を考えていたようであった。だが、ちょうどその日、バングラデシュにて、独立以来国家元首の地位にいたムジーブッレヘマーンが軍のクーデターによって一家もろとも皆殺しにされる事件が起こる。それを聞いたインディラーは、もし強権政治を緩めたら自分も同じ目に遭うという強迫観念に駆られることになる。インド国民は独立記念日スピーチでインディラーが緊急事態の解除をすることを期待したが、彼女はそれに一言も触れずにスピーチを終えた。その後、緊急事態は1年以上続くことになる。
インディラーの家族関係にも焦点が当てられていた。まずは父親ジャワーハルラール・ネルーとの関係だ。インディラーはネルーと妻カムラーとの間にできた子供だったが、カムラーは結核を患い療養生活をしており、インディラーが18歳の頃に亡くなる。インディラーの目には、父親が母親を厄介者扱いしているように見えたようだ。それが父親への反感を植え付ける。成長したインディラーは、1962年の中印国境紛争で勇敢な行動を取って政治家としての風格を身に付けるが、1947年以来15年以上首相を務めていたネルーは権力欲に支配されるようになっており、政治家として台頭する娘すらも政敵に映るようになる。自分を遠ざけようとする父親の態度を見て、インディラーは父親を「負け犬」と呼んでいた。また、ネルーの妹ヴィジャイラクシュミー・パンディトとの確執も示唆されていた。また、インディラーはフィーローズ・ガーンディーと結婚するが、彼女は夫からも理解を得られていないようであった。
父や夫から素直に愛されなかったインディラーは、息子との関係構築にも成功したとはいいがたい。インディラーにはラージーヴとサンジャイという2人の息子がいたが、彼女が溺愛し、政治家として後継者に目していたのは次男サンジャイの方だった。ラージーヴはイタリア人ソニアと結婚し、国際線のパイロットをしていた。溺愛されたサンジャイは放蕩息子となり、首相に就任した母親の威光を盾にしてデリーで好き勝手をするようになった。インディラーの耳にもサンジャイの悪評は届いていたが、彼女は母性愛に盲目となり、サンジャイをきちんと制御することができなかった。非常事態時代に行われた蛮行としてよく槍玉に挙がるのが貧困男性の強制去勢であるが、これは人口抑制のためにサンジャイが主導したとされている。インディラーとサンジャイの母子は一緒になって強権を振るい、インドを私物化してしまった。だが、いったん失脚したインディラーは、首相に返り咲いた後、一転してサンジャイを冷遇するようになる。その理由はよく分からなかったのだが、彼の放蕩ぶりに愛想が尽きたのであろうか。その後、サンジャイは飛行機事故で死亡し、インディラーは深い悲しみに沈むことになる。
カンガナー・ラナウトは元々ずば抜けた演技力のある女優である。10代から映画界で女優をしていることもあって経験値もあり、彼女の演技にはまず間違いがない。「Emergency」でもインディラー・ガーンディー役をどのように演じるのか注目が集まったが、基本的には彼女のマンネリズムを再現するタイプの演技をしていた。神経質そうな表情の使い方が非常にうまく、インディラーの強さと弱さ、両面を同時に演じる離れ業をやってのけた。キャリアベストの演技に数えていいだろう。それに加えて特殊メイクなどでよりインディラー本人に容姿を近づける努力もなされている。
脇役陣も実力派揃いだったが、個人的に印象に残ったのはサム・マーネクシャー陸軍元帥役を演じたミリンド・ソーマンだ。モデル出身のミリンドは、頻繁に映画に出演しているわけではないが、一時期は勢いがあった。軍人のトップに立つプライドと愛国心を融合させた見事な演技を見せていた。
「Emergency」は、1970年代に緊急事態宣言を発令し強権政治を行ったことで知られるインド第3代首相インディラー・ガーンディーの伝記映画である。彼女はINCの政治家であり、またINCを牛耳るガーンディー家の権力基盤を整えた人物ということもあって、批判的に描きやすい対象である。また、映画を監督し、自ら主演もしたカンガナー・ラナウトはINCのライバル政党BJPの政治家だ。よって、普通に考えたらインディラーを完全な悪者にした映画になるはずだったが、どこかでバランス感覚が働いたのか、意外にも彼女の功罪両面をバランス良く描きだした作品になっていた。興行的には失敗に終わっているし、昨今のプロBJP映画にあきれ果てている人々の不評を買うことは確実であるが、色眼鏡を外して純粋に評価することで、この映画の真価が見えてくる。世間の評判に流されることなく、また先入観に囚われることなく、一見するに値する映画である。