Vicky Vidya Ka Woh Wala Video

4.0
Vicky Vidya Ka Woh Wala Video
「Vicky Vidya Ka Woh Wala Video」

 2024年10月11日公開の「Vicky Vidya Ka Woh Wala Video(ヴィッキーとヴィディヤーのあのビデオ)」は、新婚カップルが初夜に撮影したビデオが流出してしまうという筋書きのコメディー映画である。ただし、時代は1997年。現代のようにスマーフォンはなく、インターネットすらもまだ家庭には普及していない。人々はネットカフェでインターネットをしていた。そんな時代のビデオ流出なので、媒体はCD-ROMである。日本でいえば、「平成レトロ」な映画である。

 プロデューサーはブーシャン・クマールやエークター・カプールなど。監督は「Dream Girl」(2019年)などのラージ・シャーンディリヤー。音楽はサチン=ジガル。主演は「Stree 2: Sarkate Ka Aatank」(2024年)を当てて絶好調のラージクマール・ラーオと「Animal」(2023年)でブレイクしたトリプティ・ディムリー。この映画のキャスティングの特徴として、かつて有名だった俳優たちを多く起用している。ヴィジャイ・ラーズは現在でも一線で活躍する俳優だが、彼とペアリングされたマッリカー・シェーラーワトの起用はサプライズである。2000年代に「セックスシンボル」と称された女優の一人で、一時はとても勢いがあった。彼女をスクリーンで最後に見たのは「Dirty Politics」(2015年)であった。この間、特に引退していたわけではなく、女優として引き続き活動をしていたようである。また、それよりも大きなサプライズが、終盤の見せ場になっているダンスシーン「Na Na Na Na Re」にバングラー歌手のダレール・メヘンディーが顔を出して歌っていることだ。「Na Na Na Na Re」自体が「Mrityudata」(1997年)で彼が歌った曲である。ダレールは1990年代から2000年代にかけて絶大な人気を誇ったが、2003年に人身売買容疑で逮捕され、2018年に有罪判決を受けている。

 他には、マスト・アリー、アルチャナー・プーラン・スィン、ムケーシュ・ティワーリー、サハリシ・クマール・シュクラー、アルチャナー・パテール、ラーケーシュ・ベーディー、ティークー・タルサーニヤー、アシュウィニー・カルセーカル、ムビーン・サウダーガル、ジャウスァント・スィン・ラートール、イシュティヤーク・カーン、マンジョート・スィン、シェヘナーズ・ギル、パワン・スィンなどが出演している。

 映画の主な舞台になっているは現ウッタラーカンド州のリシケーシュである。ヨーガの故郷とされ、1960年代にビートルズが瞑想の修行をした地としても有名だ。映画の冒頭で説明されている通り、まだ1997年にはリシケーシュはウッタル・プラデーシュ州に属していた。2000年にウッタル・プラデーシュ州からウッタラーンチャル州が分割され、2007年にウッタラーカンド州に改称された。

 1997年、ウッタル・プラデーシュ州リシケーシュ。メヘンディー塗りを生業にするヴィッキー(ラージクマール・ラーオ)は幼馴染みの医師ヴィディヤー(トリプティ・ディムリー)と結婚する。ヴィッキーとヴィディヤーはハネムーン先として聖地ヴァイシュノーデーヴィーに行くと見せ掛けてゴアへ行き、ハネムーンを満喫する。二人は思い出のために初夜のビデオを撮影し、CD-ROMにした。

 ヴィッキーとヴィディヤーがリシケーシュに戻ると、ヴィッキーの姉チャンダー(マッリカー・シェーラーワト)が帰ってきていた。チャンダーは何度も男性と逃げた過去があり、今回も一緒に逃げた男性を見限って戻ってきたのだった。

 ある晩、ヴィッキーの家に泥棒が入り、多くのものが盗まれてしまう。盗まれた品物の中には、ヴィッキーとヴィディヤーの初夜ビデオが入ったビデオデッキもあった。エキセントリックな警察官ラードレー(ヴィジャイ・ラーズ)が現場検証にやってくるが、チャンダーを見て一目惚れしてしまう。だが、困ったことにヴィッキーの家で働くメイドの名前もチャンダー(アルチャナー・パテール)だった。名前の混同によりラードレーは何度も振り回されることになる。

 ヴィッキーはCDが盗まれたことをヴィディヤーに隠し、泥棒市場へ行くなどしてCDもしくはビデオデッキを探す。必死の捜索の結果、バードシャー(マスト・アリー)という泥棒がビデオデッキを盗んだことを突き止める。ヴィッキーはすぐさまバードシャーが滞在するホテルへ行くが、彼が部屋に入るとバードシャーは反応せず、死んでいるように見えた。だが、盗まれたビデオデッキは取り戻す。と、そこへ部下を引き連れたラードレーが踏み込んでくる。バードシャーは昏睡状態にあっただけだったが、ヴィッキーは殺人未遂で逮捕されてしまう。また、ビデオデッキに入っていたCDはヴィッキーとヴィディヤーのものではなかった。

 牢屋を抜け出したヴィッキーは、CDが盗まれたことを知って怒るヴィディヤーと仲直りし、何とかCDを見つけ出そうとする。そこへ、ヴィッキーの家に電話があり、CDと引き換えに20万ルピーを要求された。その電話と取ったのが、ヴィッキーの祖父(ティークー・タルサーニヤー)、ヴィディヤー、ヴィッキーの姉チャンダーの3人であった。彼らはそれぞれCDに心当たりがあり、20万ルピーを工面しようとする。

 20万ルピーを要求したのは、バードシャーの姉ブルブル・ディーディー(アシュウィニー・カルセーカル)とその部下スニール(ムビーン・サウダーガル)とシェッティー(ジャスワント・スィン・ラートール)であった。受け渡しの場所は墓場で、そこではちょうど葬儀が行われており、手違いから棺桶の中には病院から抜け出そうとしたバードシャーが入っていた。ヴィッキーとヴィディヤーは混乱の中でCDを取り戻す。それを再生してみると、確かに二人の初夜のビデオであったが、自分たちで撮ったものとはアングルが異なった。あの日、別のカメラが仕掛けられていたのである。

 ヴィッキーは心当たりがあった。姉チャンダーの尻を追いかけていたパルデーシー(サハリシ・クマール・シュクラー)が怪しかった。それを知ったラードレーはパルデーシーを捕まえて詰問する。パルデーシーは、義兄サッジャン・クマール(ムケーシュ・ティワーリー)が黒幕であることを暴露する。サッジャンは若い新郎新婦の集団結婚式を行い、地元では尊敬を集める人物であった。ヴィッキーとも親交があった。だが、実は新郎新婦の初夜を盗撮し、ドバイのシェークに高額で売り払っていたのだった。それを知ったヴィッキー、ヴィディヤー、ラードレー、姉チャンダーは、リシケーシュに向かっていたシェークを拉致する。そしてラードレーがシェークに、姉チャンダーがシェークの妻に成りすまして、サッジャンに会いに行く。このときもサッジャンは集団結婚式を行おうとしていたが、ヴィッキーたちはサッジャンに黙って彼の娘も結婚するカップルの中に入れていた。サッジャンは、娘の初夜が盗撮されると知って慌てふためく。こうしてサッジャンの悪事は白日の下にさらされる。

 一件落着となったに見えたが、まだヴィッキーとヴィディヤーがゴアで撮ったCDは見つかっていなかった。だが、実はそれは彼らのベッドの下に落ちており、ヴィッキーの弟ゴーパールが拾っていた。そのCDはメイドのチャンダーが乗ったトラックの荷台に落ち、どこかへ行ってしまった。

 流出ビデオを巡る物語ということで、ちょっとエッチなお気楽コメディー映画だと思って見始めたが、終盤でそれは見た目だけだと気付かされた。この「Vicky Vidya Ka Woh Wala Video」は実際には、プライベートな行為を録画することがいかに危険なことなのかを社会に啓蒙するための教育映画である。そのために終盤で一時的に説教臭さが出ており、それが嫌われたのかもしれない。ダシャハラー祭に合わせて公開された期待作の一本であったが、思ったほどの興行成績は上げられなかった。それでも、娯楽映画のフォーマットで社会に有益なメッセージを発信するという心意気は評価したい。また、最近あまり顔を見なかった俳優たちが多数起用されていたことも、長くヒンディー語映画を観てきた者としては懐かしさがあった。

 わざわざ1997年を時間軸に設定したのは、セックスビデオ流出という本人たちにとっては社会的抹殺に等しい出来事を多少牧歌的に表現するためであろう。スマートフォンが普及した現代では、セックスビデオはあっという間に拡散してしまい、取り返しが付かないほどの深刻な事態になる。まだ動画がCD-ROMを介して売買されていた1997年であったら、もう少しのんびりと構えることができ、ストーリーにもコメディー風味を加える余地ができる。賢明な選択だったといえる。

 舞台をリシケーシュに設定した特別の理由はないと思われる。大都市ではなく田舎町を舞台にした理由は、1997年を時間軸とした理由とそう変わらないだろう。田舎町の方がストーリーを牧歌的にまとめることができる。さらに、流出したCD-ROMを探し出せるかもしれないという可能性がより残されている。この時代、リシケーシュがウッタル・プラデーシュ州に属していたという点は特に伏線にはなっていなかったはずである。

 この映画でもっとも重要なのは、ダレール・メヘンディーが特別出演する「Na Na Na Na Re」の直後のシーンだ。盗撮の黒幕だったサッジャンの悪事を白日の下にさらすのに、主人公ヴィッキーたちは手の込んだ仕掛けをする。サッジャンは、慈善事業に見せ掛けて、結婚式を催す経済力のない若い新郎新婦たちを集団結婚させていたが、裏では彼らの初夜を盗撮してドバイのシェークに売り飛ばしていた。このときも集団結婚式が行われていたが、ヴィッキーたちはサッジャンに黙って集団結婚式で結婚するカップルの中に彼の娘を混ぜる。サッジャンは、赤の他人の初夜を盗撮して売り飛ばしていたにもかかわらず、自分の娘の初夜が盗撮されることは我慢ができなかった。

 これは、セックスビデオを盗撮、流出、拡散させている人々への警告である。その行為が自分の家族に跳ね返ってきたとき、どうするのか。その行為は家族に胸を張れるものなのか。犯罪者であれ家族があり、その家族の名誉を大事に思っている。その良心に訴えかけ自省を促し、この世の中からセックスビデオ流出の被害者がこれ以上出ないように努力が払われている。

 また、警告の矛先は一般人にも向けられている。映画こそ1997年を舞台にしているが、メッセージの発信先は当然のことながら現代社会に住む我々である。スマートフォンが普及し動画撮影が容易になっただけでなく、SNSが生活の一部になって動画の発信や拡散もボタンひとつでできるようになった。このような世の中において、プライベートな動画を撮影することは大きなリスクを負うことになる。もちろん悪いのはそのようなビデオを拡散させる者だが、動画を撮影した当事者の不注意にも原因がある。便利な文明の危機にはリスクも付きものであることをよく理解することが重要だ。

 プロットを注意深く観察すると、この最後のメッセージにつなげるために、ふたつの出来事がごちゃ混ぜになっていることに気付く。ひとつはヴィッキーとヴィディヤーが自分たちで初夜のビデオを撮影したことであり、もうひとつは彼らの初夜を盗撮した者がいることだ。本来ならば全く別々の事案であるが、たまたまヴィッキーとヴィディヤーが自撮りした初夜に盗撮のカメラも回っていたことで、ふたつがひとつになった。冷静になって考えてみれば、それらが同時に起こるのは非現実的である。そのような点を含めて、脚本には無理がある部分も散見されたのだが、終盤でいきなり真面目なメッセージを発信するこの豹変振りは興醒めだとは思わなかった。むしろ、特にスマートフォンを持ったばかりの若者たちに必要な社会的メッセージだと感じた。コメディー映画としても一流で、特にセリフの応酬にいくつもの爆笑ネタが含まれていた。

 元々個性派男優としてゆっくりと地位固めをしていたラージクマール・ラーオだが、「Stree 2」の大ヒットによって、もはやスター俳優の仲間入りを果たしている。「Vicky Vidya Ka Woh Wala Video」の彼からは自信に満ちたオーラまでみなぎっている。スターキッドひしめくヒンディー語映画界の中で、実力でスターにのし上がったたたき上げとして今後の活躍も楽しみである。

 「Laila Majnu」(2018年)や「Qala」(2022年)の頃はまだ目立たなかったトリプティ・ディムリーだが、ここにきて運気が上がっており、彼女からもスターのオーラを感じるようになった。ダンスシーンで楽しそうに踊っている姿が印象的だった。彼女はウッタラーカンド州出身でもある。この映画にピッタリの配役だったといえる。

 マッリカー・シェーラーワトの登場には全く驚き、しかもうれしさを感じた。彼女は既に50歳近い。それでもヴィッキーの姉チャンダーの役を演じていた。10年ほど前に見たときよりも年齢は感じたのだが、全く無理なキャスティングだとは思わなかった。驚くほど若さを保っている。その美魔女ぶりはシルパー・シェッティーに匹敵する。

 ヴィッキーの職業は、結婚式などのときに女性たちの手にメヘンディーを塗るメヘンディーワーラーであった。ヒンディー語映画の主人公の職業としては珍しい。それが終盤でのダレール・メヘンディーのサプライズ出演の伏線になっていたとは夢にも思わなかった。さすがにだいぶ老けていて、20年以上前のようなエネルギーは感じなかったが、元気な姿を見られたのはうれしかった。まるで同窓会みたいな映画である。

 音楽面でも懐かしさを演出していた。1997年に一世を風靡したダレール・メヘンディーの「Na Na Na Na Re」がリミックスされ使われていたことについては既に触れた。その他に、「Chameli」(2004年)の「Sajna Ve Sajna」もリミックスされていた。厳密にいえば時代が違うのだが、それをあげつらうのは野暮であろう。

 「Vicky Vidya Ka Woh Wala Video」は、まずはコメディー映画として楽しむことができる。だが、プライベートなビデオを自撮りしたことで人生を狂わされるような事案が多発し社会問題になっていることを受け、特に若者に文明の利器を賢く使うことを促す重要なメッセージが発信された教育映画としての顔も持っている。その点で説教臭さが出て観客から敬遠されたところもあり、ダシャハラー祭リリースの話題作だったにもかかわらず期待通りの興行成績を上げることができなかったが、ラージ・シャーンディリヤー監督のその挑戦は高く評価したい。有意義なコメディー映画の一例として記憶に留めておきたい。