2024年1月22日(月)、ウッタル・プラデーシュ州アヨーディヤー(Ayodhya)に建立中のラーム生誕地寺院(Sree Ram Janmabhoomi Temple)にて、ナレーンドラ・モーディー首相主宰の下、ラームラッラー(Ramlalla)像の「プラーン・プラティシュター(Pran-Pratishtha)」が行われた。これは直訳すれば「(彫像に)生命を確立する」儀式であり、日本では「開眼供養」と説明すれば分かりやすいだろう。この日、ラーム生誕地寺院の本尊ラームラッラー像に生命が吹き込まれたのである。これをもってラーム生誕地寺院は生きた寺院となった。
ラームラッラーとは、インド二大叙事詩のひとつ「ラーマーヤナ」の主人公ラーマ王子の子供の頃の姿である(この記事では「ラーマ」と「ラーム」の表記が混在するが、どちらも同じだと考えてもらいたい)。ラーマ王子はアヨーディヤーで生まれたとされ、この寺院の建つ場所こそがその生誕した場所そのものだとヒンドゥー教徒によって信じられている。ヒンドゥー教徒にとってラーマ王子の生誕地にラーム生誕地寺院を建立することは長年の悲願であった。
しかしながら、この寺院建立を巡ってヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で数世紀にわたる攻防が繰り広げられてきており、特に1990年代に国家的な大事件となってインド社会全体を揺るがした。ラーム生誕地寺院を巡る一連の問題や事件は一般的に「アヨーディヤー問題」と総称されている。
アヨーディヤー問題はインドの現代史を理解する上で絶対に外すことのできない事項だ。インド映画の文脈でもそれは同じである。今回、ラーム生誕地寺院にてラームラッラー像の開眼供養式が行われたことで、この世紀の大問題は一応の節目を迎えた。これを機会に、アヨーディヤー問題についてなるべく簡潔に振り返ってみたい。
ラーマ王子の「生誕地」はどこか
まず、「生誕地」とのことなので、そもそもラーマ王子はこの世に生を受けた実在の人物だったのかという疑問が当然のように脳裏に浮かぶ。ただ、敬虔なヒンドゥー教徒にとってこれは愚問に等しい。ラーマ王子が人間なのか、神の化身なのか、はたまた神そのものなのか、そこに意見の相違は認められるものの、この世界に「生誕」し、歴史上存在したと考えるのがヒンドゥー教徒の間での一般的な見解である。
では、一旦ラーマ王子が過去のどこかの時点でこの世界に「生誕」したと仮定する。そうすると続けて次の疑問が浮かぶ。ラーマ王子が生まれたのは、本当に現在のアヨーディヤー市がある場所だったのか、という疑問だ。
アヨーディヤー市はガンガー(ガンジス)河の支流サラユー河のほとりに位置する人口5万5千人(2011年国勢調査)ほどの小都市である。「ラーマーヤナ」にもサラユー河の名前が出て来ており、ラーマ王子の生まれたコーサラ国と結びつけて語られている。河沿いに発展した他の古都と同様に、アヨーディヤーがサラユー河あっての都市だったことは確実で、現在のアヨーディヤー市が神話に登場するアヨーディヤーだと信じるに値する条件は揃っている。
しかしながら、サラユー河はチベット高原に端を発し、ネパールの峻険な山々を通り抜けてヒンドゥスターン平野に流れ込む、非常に水量の多いパワフルな河川である。その当然の帰結として過去に何度も氾濫を起こしており、昔から暴れ川だった。そうすると、平野に流れ込んだ後の流域は常に変化してきたと思われ、それに伴ってアヨーディヤーの位置も変わってきたのではないかとも推察される。そう考えると、「ラーマーヤナ」のアヨーディヤーが現在のアヨーディヤー市そのものとは限らなくなる。
それでも、「アヨーディヤー」という名の都市が古代からこの辺りに存在したことはいくつかの文献からも明らかである。中国からインドへ渡り、「大唐西域記」を著した玄奘も、7世紀に「阿逾陁國」という国を訪れているが、これは「アヨーディヤー」だと考えられている。玄奘は、阿逾陁國に3,000人の仏僧がいたと記している他、10の「天祠」があったとしている。これは神を祀る寺院であり、今でいうヒンドゥー教の寺院もあったと考えていいだろう。事実、この頃には既にアヨーディヤーはヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教などの重要な拠点だった。しかしながら、やはりこの阿逾陁國も記述されている位置関係から現在のアヨーディヤー市に比定しにくいところがある。さらに、玄奘の記述をもってしても依然としてアヨーディヤーをラーマ王子の生誕地と結びつける証拠は見当たらないし、ましてやこの頃からこの地にラーマ王子の生誕地を祀る寺院があった証拠はない。
ちなみに、州都ラクナウーやアヨーディヤーにかけての地域を「アワド(Awadh/Oudh)」と呼ぶが、これは「アヨーディヤー」が訛った形である。ヒンディー語の一方言アワディー語もこの地名に由来する。また、神話上に登場する「サーケータ(Saketa)」という都市と同一視されるのが一般的だが、サーケータとアヨーディヤーは別だとする説もある。
聖地としてのアヨーディヤー
ラーマ王子が歴史的な人物で、その生誕地が現在のアヨーディヤー市であることの立証はなかなか難しいのだが、アヨーディヤーがラーマ王子の生誕地として信仰されていたという証拠ならないことはない。しかもそれはスィク教関連の文献になる。
スィク教の創始者グル・ナーナクの生涯を綴った「ジャナムサキー」と呼ばれる一連の文献が残っている。ジャナムサキーは単なる伝記ではなく、ナーナクが起こしたとされる奇跡が大げさに描写されるなど、空想が盛り込まれた物語になっている。元々は口承であったが、後に文字に書き留められるようになった。ナーナクが死去した1539年の後に作られ始め、もっとも古いものになると16世紀末に書かれたものもあるが、大半は17世紀から19世紀にかけて成立した。
このジャナムサキーの多くに共通して、ナーナクが1510年頃にアヨーディヤーを訪れ、ラーマ王子の生誕地を参拝したという記述が見られる。
ジャナムサキーは決して歴史的な事実を立証できるだけの信憑性がある文献ではない。ナーナクがアヨーディヤーを訪れたという点から既に立証は困難だ。しかも、アヨーディヤーにラーマ王子の生誕地を祀る寺院があったという記述があるわけでもない。それでも、少なくとも中世の北インドに、アヨーディヤーをラーマ王子の生誕地と結びつけ、その参拝をする習慣があったことを裏付けるに足る記述があるのは確かだ。神話時代のアヨーディヤーと現在のアヨーディヤー市を同一視することには困難が伴うものの、16-19世紀に書かれたジャナムサキーに言及されたアヨーディヤーが現在のアヨーディヤー市だとすることは考古学的にもそれほど困難ではない。
ヒンドゥー教ではなく、スィク教の伝統の中で受け継がれてきたジャナムサキーに、ラーマ王子の生誕地を参拝するためにアヨーディヤーを訪れた旨が記述されていたことは、後々非常に重要な意味を持つことになる。
バーブリー・マスジドの建設
現在ラーム生誕地寺院が建っている場所にはかつて、バーブリー・マスジドと呼ばれる3つのドームを冠したイスラーム教のモスクが建っていた。このモスクの建設については歴史的な記述が容易に見つかり、以降、この土地や建物を巡る出来事は、神話や文学に頼ることなく、歴史的文献に立脚して語ることが可能となる。
16世紀初め、北インドを支配していたローディー朝のスルターン、イブラーヒーム・ローディーは、中央アジアから流れ着きカーブルを拠点に勢力を拡大しつつあったバーバルの侵攻を受けた。1526年にパーニーパトにてバーバルとローディーの間で決戦が行われた。いわゆる第一次パーニーパトの戦いである。この戦いでバーバルが勝利し、ローディー朝は滅亡した。バーバルはそのままデリーやアーグラーを占領し、北インド一帯に支配権を広げ、ムガル帝国の基礎を築いた。
そのバーバルの将軍ミール・バーキーが1528年にアヨーディヤーに建てたとされるのがバーブリー・マスジドである。地元の伝承では、このモスクはラーマ王子の生誕地にあった寺院を破壊して建てられたとされてきた。ジャナムサキーに記述されていたナーナクのアヨーディヤー参拝が1510年頃という点にも注目したい。
アヨーディヤーにラーム生誕地寺院を建立するというヒンドゥー教徒の悲願はしばしば、「500年」という長い歳月を枕詞にして語られてきたが、その始点はこのバーブリー・マスジド建設になる。
ムガル朝時代、ヒンドゥー教徒は何度もラーマ王子の生誕地で礼拝を行う許可を求め、それがイスラーム教徒との対立や衝突を引き起こしてきた。宗教融和政策を推し進めたアクバルの時代にはバーブリー・マスジドの前にチャブータラー(祭壇)を建設することが許可され、ヒンドゥー教徒は礼拝を行えるようになった。しかしながら、アウラングゼーブの時代にヒンドゥー教徒に対する締め付けが厳しくなったことで宗教対立は再び激化した。この時代、スィク教のグル・ゴービンド・スィンがラーマ王子生誕地奪還のために挙兵したとの記述も見られる。
19世紀、アヨーディヤーが英国東インド会社の領土に組み込まれると、ラーマ王子の生誕地を巡る争いは英国人によって詳細に記録されるようになった。インド大反乱が鎮圧された後の1859年には、バーブリー・マスジドの敷地が二分割され、モスク内はイスラーム教徒、モスク外の敷地はヒンドゥー教徒に宛がわれた。
英国人によって近代的な裁判制度が導入されたことで、アヨーディヤー問題は法廷闘争に移行した。この問題を巡る初めての訴訟は1885年にヒンドゥー教の宗教団体ニルモーヒー・アカーラーによって行われた。それは、既に存在した祭壇の上にマンダプ(天蓋)を建設する許可を求めるものだった。しかしながらこの訴えは最終的には却下された。このときの判決で、モスクが「ヒンドゥー教徒によって信仰されている場所」の上に建てられたことは認められたものの、350年以上前に犯された「間違い」を正すには既に「遅すぎる」と判断されたのである。
ラームラッラー像の出現
英領時代にバーブリー・マスジドが建つ土地を巡って散発的に宗教間対立が起こってきたものの、あくまでローカルな揉め事に過ぎなかった。事が大きく動いたのは独立後になる。
1949年12月22日深夜から23日未明にかけて、バーブリー・マスジド内部に突如として高さ15cmほどの小さなラームラッラー座像が出現するという奇妙な出来事が起きる。このラームラッラー像は「ラームラッラー・ヴィラージマーン(お出ましになったラーマ坊ちゃま)」と呼ばれた。ヒンドゥー教徒にとってこれは神が起こした奇跡に他ならず、この地に寺院建立を望むラーマ王子自身の強い気持ちの表れと解釈されたが、イスラーム教徒側は当然のことながら奇跡など信じておらず、何者かによる悪戯だと主張した。
インド人を迷信や因習から解放し、モダンな政教分離国家の建国を理想にして政治を行っていたジャワーハルラール・ネルー首相は、ウッタル・プラデーシュ州のGBパント州首相にラームラッラー・ヴィラージマーン像の撤去を命じた。だが、既にこの出来事は信心の領域に深く入り込んでいた。パント州首相はラームラッラー・ヴィラージマーン像出現の奇跡を信じており、自分がそれを撤去して天罰を受けるくらいならば州首相を辞任したほうがマシだと答えたという。
ラームラッラー・ヴィラージマーン像は、その処遇が保留状態のままバーブリー・マスジド内に置かれることになった。以降、モスクは封鎖され、イスラーム教徒は礼拝を行うことができなくなった。イスラーム教徒側からは像の撤去を求める訴えが起こされたが、ヒンドゥー教徒側からもラームラッラー・ヴィラージマーン像への祭礼を行う許可を求める訴えが起こされた。
この訴訟合戦はエスカレートしていき、ラームラッラー・ヴィラージマーン像を巡る攻防から、バーブリー・マスジドの構造物、それが建つ土地、そしてその敷地周辺の土地の所有権を巡る攻防に発展した。19世紀にアヨーディヤー問題について初めて訴訟を起こしたヒンドゥー教団体ニルモーヒー・アカーラーは、ラーマ王子生誕地の管理人を自称して訴えを起こし、イスラーム教団体スンニ中央ワクフ委員会はモスクとその周辺の土地の所有権を主張して訴えを起こした。
訴訟合戦以外にも両陣営による激しいデモ合戦があった。1984年にはヒンドゥー教徒によってラーム生誕地解放運動委員会が結成され、サラユー河からラクナウーに向けてデモ行進が行われた。1986年にはイスラーム教徒によってバーブリー・マスジド行動委員会が結成され、1988年にはバーブリー・マスジドでの礼拝を求めたデモ行進が行われた。
バーブリー・マスジド破壊
今でこそラーム生誕地寺院建立はインド人民党(BJP)のプロパガンダだと考えられているが、実はBJPがこの問題に関わり始めたのは1989年以降と、比較的新しい。それ以前には、BJPとは関係ないヒンドゥー教団体が熱心にラーマ王子生誕地奪還を推し進めていた。しかしながら、BJPやその関連団体である世界ヒンドゥー協会(VHP)が関わるようになって問題が激化したことは否定のしようがない。
BJPがラーム生誕地寺院建立に興味を持ったのは、ヒンドゥー教至上主義政党としての当然の選択だと考えることもできるが、1987年から88年にかけて国営放送ドゥールダルシャン(DD)で放映されたTVドラマ「Ramayan」の影響も大きかったのではないかと考えられる。
ラマーナンド・サーガル監督の「Ramayan」はその名の通り「ラーマーヤナ」を題材にしている。全78回で、ラーマ王子の誕生から、ラーヴァナ退治の後のアヨーディヤー帰還、そして戴冠までが語られる。ちょうどカラーTVが普及しつつあった時代とも合致し、「Ramayan」は国民的な大ヒットになった。放映中は町から人影が消えるなど、数々の伝説も生んだ。
それまでラーマは決してインド全土で人気のある神様ではなかったとされている。インドでは各地域ごとに人気のある神様がいる。たとえば西ベンガル州ではカーリーやドゥルガーなどの女神、西インドではクリシュナ神、南インドではシヴァ神が人気だ。だが、この「Ramayan」が全国放送されたおかげで、ラーマは一躍全国的な神様の代表格に躍り出た。政治家がこの熱狂を見逃さないはずがない。
しかしながら、この宗教熱を最初に政治利用しようとしたのは他ならぬ国民会議派(INC)であった。インド独立に多大な貢献をし、ジャワーハルラール・ネルー首相やインディラー・ガーンディー首相などのリーダーシップの下、独立後も長期政権を築いてきたインド版「偉大な古い政党(Grand Old Party)」だ。政治的スタンスは中道左派であり、セキュラリズム(政教分離)を旗頭に掲げているため、ヒンドゥー教至上主義を掲げるBJPとは真っ向から対立する。1990年代半ば以降、勢力を伸長したBJPと事実上の二大政党制を形成することになった。そのINCが実は1980年代にアヨーディヤー問題で悪手を打っていたのである。
1984年にインディラー・ガーンディー首相が暗殺されると、その直後に行われた下院選挙では同情票が集まり、INCが圧倒的過半数を得て与党になった。前首相の息子ラージーヴ・ガーンディーが首相に就任したものの、政治家としては素人で、様々なスキャンダルに見舞われることになる。ラージーヴ・ガーンディー首相は一方でイスラーム教徒に宥和的な政策(シャー・バーノー事件)を採ってヒンドゥー教徒から批判されていたため、今度はヒンドゥー教徒に宥和的な政策を打ち出してバランスを取る必要に迫られていた。その素材に選ばれたのがアヨーディヤー問題だったというわけだ。
1989年、折しも11月下旬に下院総選挙が迫っていた。既にラージーヴ・ガーンディー首相は1986年に、40年間封鎖されていたバーブリー・マスジドの開放を後押しし、ヒンドゥー教徒有権者へのすり寄りをしていたが、この選挙を前に低迷する支持率を挽回するため、ラーム生誕地寺院の定礎式挙行を許可した。定礎式は選挙直前の1989年11月9日に行われた。
この動きは当然のことながらヒンドゥー教徒にラーム生誕地寺院建立の早期実現を期待させる結果になった。だが、1989年の下院選挙でINCが過半数を失ってラージーヴが失脚したこともあり、礎石の設置より先に工事が進む様子が見られなかった。人民党(JD)のVPスィンが首相に就任したが、このときBJPが連立与党になっていたことにも注目したい。
1990年6月、業を煮やしたVHPは建設開始の日を10月30日に設定した。それを受けてBJPの政治家LKアードヴァーニーは9月25日にラトヤートラー(山車巡業)を開始し、インド中を行脚して回って期限までの建設開始を迫った。事態が緊迫する中、1990年10月19日に中央政府がバーブリー・マスジドとその周辺の土地を接収する布告を出したが、これは3日後には取り消されてしまった。アードヴァーニーのラトヤートラーは10月23日にビハール州に入り、最終目的地であるアヨーディヤーが目前に迫った。彼がビハール州に足を踏み入れた瞬間、BJPと対立していた全国民主党(RJD)のラールー・プラサード・ヤーダヴ州首相は彼を逮捕し、ラトヤートラーを力尽くで中断させてしまった。
ラトヤートラーは止められたものの、ラーム生誕地寺院建設の志願労働者である「カール・セーヴァク」たちは10月30日が近づくにつれてアヨーディヤーに集結し始めていた。このとき、バーブリー・マスジドの一部が破壊された。ウッタル・プラデーシュ州の州首相を務めていた社会党(SP)のムラーヤム・スィン・ヤーダヴは、何十万人ものカール・セーヴァクたちを制御するため、警察に発砲を命じた。この発砲により17人のカール・セーヴァクが死亡したとされている。
アヨーディヤーでの事件を受け、BJPはJDへの支持を撤回し、VPスィン政権は瓦解した。代わって首相に就任したのは、INCの支持を受けた人民党社会主義派(JDS)のチャンドラ・シェーカルであった。1991年5-6月に下院総選挙が行われたが、選挙運動中にラージーヴ・ガーンディーが暗殺されるという大事件が起きる。やはり同情票が集まってINCが勝利し、ナラスィンハ・ラーオが首相に就任した。一方、アヨーディヤーを擁するウッタル・プラデーシュ州でも州議会選挙があり、BJPが勝利して、カリヤーン・スィンが州首相に就任した。
INCのラーオ首相は市場開放を行って破綻寸前に陥っていたインドを救ったことからも分かるように有能な政治家であった。アヨーディヤー問題についてもヒンドゥー教徒とイスラーム教徒双方が納得できるような解決法を真摯に模索していたとされる。彼は1991年9月18日に礼拝所法を可決させ、1947年8月15日時点で存在していた宗教施設の現状維持を定めることで、ヒンドゥー教徒過激派たちを一旦制止しようとした。だが、BJPのカリヤーン・スィン州首相はバーブリー・マスジド周辺の土地の接収や囲い壁の建設などを進め、ラーム生誕地寺院建立への道筋を漸進的に作っていた。
1992年10月30日、VHPの宗教会議が行われ、12月6日にラーム生誕地寺院建立を再開する決定がなされた。再び続々とアヨーディヤーにカール・セーヴァクたちが押し寄せてきた。ラーオ首相はアヨーディヤーに2万人の準軍事部隊を派遣し不測の事態に備えたが、スィン州首相は彼らに行動の許可を与えなかった。果たして運命の1992年12月6日、集まった何十万人ものカール・セーヴァクたちがバーブリー・マスジドを一斉に破壊し始めた。中央政府によって配備された準軍事部隊も警察も手をこまねいて傍観しているだけだった。
このショッキングな出来事の余波はインド中に飛び火し、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で深刻なコミュナル暴動を引き起こした。この暴動によって2,000人以上が死亡したとされる。スィン州首相は辞任し、ウッタル・プラデーシュ州は大統領直轄となった。モスクが破壊された後、ラームラッラー・ヴィラージマーン像は仮設テントに安置された。12月7日になってようやく準軍事部隊が現場をコントロール下に置いた。モスク破壊に関与したVHPやその他の関連団体はその後半年間禁止団体となり、アードヴァーニーらBJPの政治家たちも逮捕された。バーブリー・マスジド跡とその周辺地域は中央政府の管轄下に置かれた。
1993年5月11日にボンベイ(現ムンバイー)で連続爆破テロが発生したが、これもバーブリー・マスジド破壊事件を受けてのイスラーム教徒過激派側からの報復攻撃であった。
だが、その後BJPの人気は急速に高まっていく。1996年の下院総選挙で初めて最大政党になり、13日間だけ政権を担った。1998年に政権に返り咲き、アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相の下、2004年まで政権与党となった。
2002年2月、VHPはラーム生誕地寺院建立再開の日を3月15日に決めた。アヨーディヤーに集結したカール・セーヴァクたちに対し、ウッタル・プラデーシュ州政府は象徴的な「シラー・プージャン(Shila Pujan)」の儀式を行うことを許可した。これは建築に使うレンガなどの資材を清める儀式である。2月27日、この儀式から帰途に就いていたカール・セーヴァクたちの乗った列車がグジャラート州のゴードラー駅で焼き討ちに遭い、58人が殺された。これがグジャラート州暴動を引き起こし、1,000人以上の命が失われた。このときグジャラート州の州首相を務めていたのがナレーンドラ・モーディー現首相である。
2003年、イラーハーバード高等裁判所はバーブリー・マスジド跡の地中に寺院の痕跡があるか調査を命じた。インド考古局(ASI)が発掘調査を実施したところ、地中から11世紀の寺院跡が見つかった。
2010年9月30日に高等裁判所はバーブリー・マスジド跡地の所有権について判決を下し、その土地を三分割することを決めた。その結果、1/3の土地はラームラッラー・ヴィラージマーン像のもの、1/3の土地はニルモーヒー・アカーラーのもの、1/3の土地はスンニ中央ワクフ委員会のものになった。しかし、ラームラッラー・ヴィラージマーン像の代弁者となっていたヒンドゥー大会議とスンニ中央ワクフ委員会が上告したため、バーブリー・マスジド跡の紛争地は依然として現状維持となった。裁判は最高裁判所に委ねられた。
2004年から2014年まで中央ではINC政権が続いたが、2014年の下院総選挙でBJPが圧勝し、モーディー政権が樹立した。2019年の下院総選挙でも引き続きBJPが圧勝し、モーディー政権の二期目が始まった。この間、最高裁判所ではアヨーディヤー問題についてゆっくりと審議が進んでいた。
2019年11月9日、最高裁判所は遂に歴史的な判決を下した。バーブリー・マスジド跡の土地はラーマ王子の生誕地だと認め、その土地をラームラッラー・ヴィラージマーン像に渡すことを決定したのである。その根拠のひとつとなったのが、スィク教のジャナムサキーにあった記述であった。また、その代償として、スンニ中央ワクフ委員会にはアヨーディヤーの別の場所に土地を与え、そこに新たにモスクを建設することをウッタル・プラデーシュ州政府に命じた。同時に、1992年のバーブリー・マスジド破壊は違法だとも判断した。
ちなみに、ラームラッラー・ヴィラージマーン像のような物体が裁判を起こし、裁判所から勝訴を勝ち取るという出来事が起こるのは、世界広しといえどインドだけだろう。
ラーム生誕地寺院建設
こうしてラーム生誕地寺院建立の障害が取り除かれた。以後、バーブリー・マスジド跡地では急ピッチで寺院建設が進められた。寺院は3階建てで、北インドのヒンドゥー教寺院に特徴的なナガラ様式が採用されている。ただし、寺院はパルコーターと呼ばれる回廊で囲まれており、この部分は南インドのドラヴィダ様式を思わせる。建築資材は赤砂岩で、伝統的な技術を使って建設されており、鉄は一切使われていない。本尊ラームラッラー像を納めた聖室の他に5つのマンダプ(ホール)が設置されている。ラーム・ナヴァミー(ラーム生誕祭)の日の正午、聖室に安置されたラームラッラー像の額に日光が当たり、ティラク(額の印)を形成するような仕掛けが施されている。
寺院と同時に、本尊となるラームラッラー像の制作も始まった。なぜ、1949年に突如として出現したというラームラッラー・ヴィラージマーン像を本尊としないのかは不明なのだが、新たに作成されたラームラッラー像はカルナータカ州出身の著名な彫刻家アルン・ヨーギーラージの手によるもので、5歳のラーマ王子をイメージしたものだという。素材はマイソール周辺で採れるクリシュナシラーという黒い石で、ひとつの石から全体が削り出されている。従来の像が座像だったのに対し、新しい像は立像で、手に黄金色の弓矢を持っている。台座や傘を含めて高さは1m30cmほどで、実物大の5歳の子供に合わせたサイズ感になっている。ラーマ王子の左右にはヴィシュヌ神のダシャーヴァターラ(十化身)が象られている。
寺院自体の工事はまだ途中だが、この新たなラームラッラー像の開眼供養が行われたのが2024年1月22日だったというわけだ。よって、寺院自体の落成式ではない。ちなみに、古いラームラッラー・ヴィラージマーン像は新しいラームラッラー像の前に置かれており、神輿巡業のときに使われる予定だという。
開眼供養式にはインドの各映画界からもセレブリティーが多数参加した。報道からリストアップしてみた。
- アーユシュマーン・クラーナー
- アーリヤー・バット
- アヌ・マリク
- アヌシュカー・シャルマー
- アヌパム・ケール
- アビシェーク・バッチャン
- アミターブ・バッチャン
- ヴィヴェーク・オーベローイ
- ヴィッキー・カウシャル
- カトリーナ・カイフ
- カンガナー・ラーナーウト
- サニー・デーオール
- ジャッキー・シュロフ
- シャンカル・マハーデーヴァン
- スバーシュ・ガイー
- ソーヌー・ニガム
- ダヌシュ
- チランジーヴィ
- プラバース
- ヘーマー・マーリニー
- マードゥリー・ディークシト
- マドゥル・バンダールカル
- モーハンラール
- ラージクマール・ヒラーニー
- ラーム・チャラン
- ラジニーカーント
- ランディープ・フッダー
- ランビール・カプール
- ローヒト・シェッティー
アヨーディヤー問題とヒンディー語映画
バーブリー・マスジド破壊事件は、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間に容易には埋めがたい溝を作り、以後インド社会は宗教によって分断されることになってしまった。また、モスク破壊から直接引き起こされた1992年のコミュナル暴動のみならず、1993年のボンベイ連続爆破テロや2002年のグジャラート州暴動など、独立後のインドを揺るがす大事件の遠因にもなってきた。これら一連の事件は映画で取り上げられることも多く、インド映画を理解する上でその知識は欠かせない。
このラーム生誕地寺院開眼供養の儀式自体も映画界に少なからぬ影響を与えたのではないかと思われる。この日を前に、やたらと「ラーマーヤナ」を直接的・間接的に題材にした映画の公開が相次いだのである。
もっとも分かりやすいのは、「ラーマーヤナ」を直球で映画化した作品だ。プラバース主演の汎インド映画「Adipurush」(2023年)は「ラーマーヤナ」そのものであり、開眼供養式の約半年前にタイミングよく公開された。また、2024年1月にはダメ押しのように、「ラーマーヤナ」に登場する猿の将軍ハヌマーンの名前を冠したスーパーヒーロー映画「Hanu-Man」(2024年)も公開された。
それ以外にも、ラーマ王子がランカー島に渡るときに作ったというラーム・セートゥを題材にした「Ram Setu」(2022年)があったし、日本でも大ヒットしたテルグ語映画「RRR」(2022年/邦題:RRR)にも「ラーマーヤナ」関連のモチーフが随所に使われていた。
「ラーマーヤナ」関連作品とは若干異なるが、開眼供養式の3ヶ月前に公開されたカンガナー・ラーナーウト主演のアクション映画「Tejas」(2023年)は、なんとラーム生誕地寺院の開眼供養式に合わせて計画されていたテロを女性戦闘機パイロットが阻止するというタイムリー過ぎる筋書きになっている。
もちろん、これらの映画は偶然に公開されただけなのかもしれない。ラーム生誕地寺院開眼供養式のタイミングを狙ったとしても、BJPからの圧力で作らされたわけではなく、純粋に商業的な成功を狙ってのことだったのかもしれない。それは何ともいえない。
もうひとつ特筆すべきは、2020年、コロナ禍のロックダウン中に、国営放送ドゥールダルシャン(DD)にてラマーナンド・サーガル監督のTVドラマ「Ramayan」がリバイバル放映され、大ヒットを記録したことだ。新型コロナウイルス感染症が急速に拡大すると、インドは厳格なロックダウン体制を敷き、市民の外出を制限した。家の中に缶詰にされたインド人たちは何もやることがなかったため、DDが再放送した30年前の「Ramayan」をこぞって視聴し、改めてその作品世界に魅了されてしまったのである。
アヨーディヤー問題のこれから
ラーム生誕地寺院ができるまで、アヨーディヤーはウッタル・プラデーシュ州の地方都市に過ぎなかった。だが、ラーム生誕地寺院ができたことで、一気にもっともホットな巡礼地かつ観光地に急浮上した。開眼供養式の翌日、寺院は一般開放されたが、早速50万人以上の参拝客が押し寄せたという。これはアヨーディヤー市の人口の10倍に及ぶ。現在、大量の来訪者を収容するために、急ピッチでインフラ整備が行われているという。2002年10月13日にアヨーディヤーを訪れたことがあるが、次回訪れるときは全く様変わりしてしまっていることだろう。
アヨーディヤーのラーム生誕地寺院については様々なことが言われている。独立以来、政教分離国家を標榜してきたインドが、ヒンドゥー教を事実上の国教にした宗教国家に転落した象徴だと捉え、失望を表明する批判的な声も少なくない。2024年内に予定されている下院総選挙を有利に戦うためのギミックという面も必ずあるだろう。
しかしながら、独立直後のインドにおいて実施されたネルー首相の社会主義的かつ理想主義的な政策は、国防や経済の面で失敗も目立った。一方的に同志だと見なしていた中国には裏切られ、領土を奪われた。長らくインド経済は世界の発展から取り残され、その低迷する経済成長は「ヒンドゥー成長率」と揶揄された。さらに、セキュラー(政教分離)国家の実態は、宗教的マイノリティー、つまりイスラーム教徒に必要以上に配慮する国家であり、多数派のヒンドゥー教徒は疎外感を味わってきた。イスラーム教徒のための国家を割譲したのに、残された土地はヒンドゥー教徒のための国家にはならなかった。依然として多くのイスラーム教徒が残り、政府は引き続き彼らを慮った政策を続けていた。ヒンドゥー教徒の間に蓄積されていたそんな不公平感や理不尽感をBJPはうまく拾い上げてきた。ラーム生誕地寺院建立は、その成果だといえる。
BJPの宗教利用は政治目的のみならず、経済活性化も含まれていると思われる。ヴァーラーナスィーやアヨーディヤーの例を見ると、どうもそれは成功しそうだ。元々信心深かったインド人のこと、これからアヨーディヤーは「インドのバチカン」のようになっていくのではという見方もある。若い世代の間で聖地への巡礼熱が高まっているとの報道も目にした。なにしろ世界のヒンドゥー教徒人口は12億人に達する。彼らの宗教行動を刺激する政策の経済効果は計り知れない。モーディー政権時代になり、これらの宗教都市は観光地としてのポテンシャルを最大限に引き出されている。
懸念なのは、クリシュナの生誕地とされるマトゥラーなどでもアヨーディヤーと同様の動きが起こりそうなことだ。このままモスクの破壊とヒンドゥー教寺院の建設が繰り返されていく恐れがある。だが、それらもまた、映画メーカーたちにネタを提供していくのだろう。