ヒンディー語映画界で「3カーン」の一角を担い、その完璧主義的な役作りから「ミスター・パーフェクト」と賞賛されているスター俳優アーミル・カーンの主演作は、世界的な新型コロナウイルスの流行による映画の公開や撮影の中断が原因で、「Thugs of Hindostan」(2018年)を最後に途切れていた。次の主演作はトム・ハンクス主演の大ヒット映画「フォレスト・ガンプ 一期一会」(1994年)のリメイクと噂されており、非常に期待が高まっていた。その「Laal Singh Chaddha」がようやく公開されたのが、2022年8月11日、ラクシャーバンダン(ラーキー)祭りとインド独立記念日が重なる週であった。
しかしながら、この映画を巡っては前々から不気味な暗雲が立ちこめていた。まず、ヒンディー語映画が全体的に不振に陥っていた。これは、2020年から2022年にかけてのコロナ禍と、数度に渡るロックダウンを経て、インド人の志向がかなり変わってしまったことが原因だといわれている。OTTプラットフォームが普及し、家で映画を楽しむ習慣が付いてしまった他、南インド映画のファンがヒンディー語圏でも増え、ヒンディー語映画の興行を脅かすようになった。また、「ボイコット・ボリウッド」という運動が盛んになり、何かと理由を付けてヒンディー語映画を糾弾し、映画の鑑賞をボイコットしようとする勢力が伸長した。「Laal Singh Chaddha」と主演アーミル・カーンに対しても、公開日が近付くごとにバッシングが激しくなっていった。その理由は、かつてアーミル・カーンが「インドに不寛容が広がっている」と発言したことや、過去の主演作「PK」(2014年/邦題:PK ピーケイ)がヒンドゥー教を侮辱していることなど、映画の内容とは直接関係ない、言いがかりに近いものであった。2014年から中央の政権を握るインド人民党(BJP)の支持者がそのバッシングを先導しているとされている。
だが、「Laal Singh Chaddha」はアーミル・カーンの主演作である。アーミル・カーンといえば、一本の映画に全身全霊を掛けて取り組み、その映画を必ずヒットさせる、スター中のスターだ。確かに前作「Thugs of Hindostan」はフロップだったが、2本続けてアーミル主演作が外れるとは想像もできない。「Laal Singh Chaddha」には、この映画自体の成功だけでなく、ポスト・コロナ時代になかなか復調できないヒンディー語映画界を起死回生させる起爆剤としての、業界全体からの期待が込められていた。いくらボイコット運動が盛り上がろうとも、ビクともしないだろうという希望的観測と、もしこれがこけたら大変なことになるという恐怖感が同居しながらの公開となった。
蓋を開けてみると、「Laal Singh Chaddha」のコレクション(国内興行成績)は芳しくなかった。批評家からもそれほど高い評価が得られず、すぐにフロップの烙印を押され、ヒンディー語映画産業の危機がますます声高に叫ばれるようになった。アーミル主演作がまたも失敗作に終わったことは、ヒンディー語映画界に大きな衝撃を与えた。ただ、国外での興行成績はとても良かった。国内外で成否が分かれる興味深い結果になったが、これは時々あることだ。「Laal Singh Chaddha」が本当に失敗だったかについては、やはり内容を観て吟味しなければならない。
「Laal Singh Chaddha」の監督は「Secret Superstar」(2017年/邦題:シークレット・スーパースター)のアドヴァイト・チャンダン。アーミル・カーンが脇役出演したこの映画は興行的にも大ヒットしており、日本でも劇場一般公開された。チャンダン監督にとって「Secret Superstar」はデビュー作であり、「Laal Singh Chaddha」は彼の監督第2作となる。音楽監督はベテランのプリータムである。
主演はアーミル・カーン。ヒロインはカリーナー・カプール。この二人は「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)をヒットさせたコンビだ。助演として出演しているナーガ・チャイタニヤーはテルグ語映画界のスター、ナーガールジュナの息子であり、テルグ語映画界で活躍している。彼にとっては本作がヒンディー語デビュー作となる。南インド映画界からわざわざ俳優を起用しているのは、汎インド的な成功を狙ってのことであろう。
他には、モーナー・スィン、マーナヴ・ヴィジ、ハリー・パルマルなどが出演している。登場人物が極端に多い作品ではない。
特別出演陣も豪華で、まずはシャールク・カーンの出演が目を引く。実は「3カーン」中の2人であるアーミル・カーンとシャールク・カーンは今までほとんど共演したことがない。「Lagaan」(2001年/邦題:ラガーン クリケット風雲録)で有名なアーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督のデビュー作「Pehla Nasha」(1993年)で一瞬だけ二人が一緒に映っているだけだが、これはインド映画ファンでもあまり知らないトリビア中のトリビアであり、実質的には共演作がない。よって、アーミル主演作にシャールクが出演したこと自体が大きなニュースである。ただ、確かに「Laal Singh Chaddha」の冒頭においてCGで加工された若い姿のシャールク・カーンが登場するものの、そのとき主役のラール・スィン・チャッダーは子役が演じており、結局、アーミルとシャールクがスクリーンを共有することはなかった。噂では、サルマーン・カーンのカメオ出演もあるのではないかとされていたが、サルマーンについては全く登場しなかった。
他に、インド独立前から映画女優をし、最近では「Chennai Express」(2013年)や「Kabir Singh」(2019年)にも出演していた、齢90歳以上の大女優カーミニー・カウシャルも特別出演している。
パンジャーブ州パターンコートの駅でチャンディーガル行きの列車に乗り込んだラール・スィン・チャッダー(アーミル・カーン)は、乗客に身の上話を語り始める。 ラールは1970年頃にパターンコートの軍人家系に生まれた。父親は戦死しており、母親のチャッダー夫人(モーナー・スィン)に愛情たっぷりに育てられた。ラールには知的障害があった上に、足が不自由だと思い込んでおり、下肢装具を着けないと歩けなかった。学校ではいじめの対象になるが、キリスト教徒の女の子ルーパー・デスーザ(カリーナー・カプール)だけは優しく接してくれた。ラールは自然とルーパーに恋するようになるが、ルーパーはラールのことを恋愛の対象とは考えていなかった。ルーパーの父親は家庭内暴力を振るっており、ある日、彼女の母親を殴り殺してしまう。父親は逮捕され、ルーパーは巡り巡ってラールの家に住むようになる。また、ラールはいじめられっ子に追い掛けられている内に走れるようになる。しかも、かなりの健脚だった。 成長したラールとルーパーはデリーの大学に通うようになる。ラールはその健脚を陸上競技部に見出され、様々な大会に出場し、メダルを総なめする。大学卒業後、金持ちになることを夢見ていたルーパーは、モデルや女優を目指してムンバイーに移住し、ラールは軍隊に入隊する。軍隊では、下着職人のバーラー(ナーガ・チャイタニヤー)と友人になる。一度、ラールはルーパーに会いにムンバイーに行ったこともあった。ルーパーは成功を掴むため、アンダーワールドのドン、アッバース・ハージー(ハリー・パルマル)の愛人になるが、遂に映画女優になることはできなかった。 ラールはカールギル紛争に従軍し、そこで親友のバーラーを失うものの、大きな功績を残し、デリーの大統領官邸で勲章を受ける。このときデリーでラールはルーパーと再会する。戦闘でラールは負傷したため、前線から退くことになり、軍の陸上競技コーチとして世界中を飛び回る。 退役したラールはパターンコートに戻り、バーラーの遺志を継いで下着工場を始める。カールギル紛争のときに負傷してラールが命を助け、両足切断となったものの生き長らえ、インドで細々と暮らしていた元パーキスターン人司令官ムハンマド(マーナヴ・ヴィジ)がマネージャーとなって事業を拡大した。会社名はルーパー・コーポレーションとなり、デリーに本社ビルも建てた。さらに、株式上場してラールは巨万の富を得る。 ムハンマドが学校を設立するためパーキスターンに去ったことや、母親を癌で失ったことをきっかけに、ラールは会社を優秀なスタッフに任せ、自分は故郷に戻って農業を始める。そこへ、ルーパーが帰って来る。ルーパーはドバイまで行って運を試していたが、うまくいかなかった。自殺を思いとどまり、ラールのもとに来たのだった。ラールは彼女を温かく迎え入れる。二人はベッドも共にするが、アッバースの愛人として犯罪に関与していたルーパーを追って警察が来ていた。ルーパーはラールに何も告げずに去り、警察に逮捕される。ルーパーはアッバースの犯罪の証人となり、司法取引によって軽微な罰を受けるだけで済んだ。 ルーパーを失ったラールは突然走り出し、そのままインド中を走り続ける。マスコミの注目を浴び、彼の後を追って走る人々まで現れた。だが、4年走り続けたラールはピタリと歩を止め、「疲れた、家に帰る」と言い残してパターンコートに戻る。すると、そこにはルーパーからの手紙がたくさんたまっていた。現在、ルーパーはチャンディーガルに住んでいた。 ラールは今正にチャンディーガルへ行こうと列車に乗り込んだところだった。チャンディーガルに列車が着くと、早速ラールはルーパーを訪ねる。家には小さな男の子もいた。彼の名前はアマン・チャッダーといった。なんと、ラールの息子だった。ラールとルーパーはとうとう結婚する。しかし、幸せは長く続かなかった。ルーパーは不治の病に冒されており、それから間もなく死んでしまう。ラールはアマンを学校に送り出す。
全体の流れは「フォレスト・ガンプ」そのものだ。「フォレスト・ガンプ」はファンの多い不朽の名作であり、多くの人が既に観ていることだろう。よって、大半の人にとっては「Laal Singh Chaddha」のストーリーにサプライズはなく、米国を主な舞台とした「フォレスト・ガンプ」をインド映画がどのように料理するのか楽しむ映画になる。
「フォレスト・ガンプ」で特に話題になったのは、実際に起こった歴史的な出来事や有名人が登場する記録映像に主演トム・ハンクスをCGで映し込んで、あたかも彼がその場に本当にいたかのような錯覚を起こさせる効果である。「Laal Singh Chaddha」でもその手法を流用しながら、主役ラールがインド現代史の様々な事件の生き証人であるかのように提示されていた。
「Laal Singh Chaddha」の中で触れられていた主な事件は以下の通りである。
- 1977年 非常事態宣言解除
- 1983年 クリケット・ワールドカップでのインド代表優勝
- 1984年 ブルースター作戦、インディラー・ガーンディー首相暗殺、反スィク教徒暴動
- 1990年 ラーム・ラト・ヤートラー、マンダル委員会抗議運動
- 1992-93年 ボンベイ暴動
- 1994年 スシュミター・セーンのミス・ユニバース優勝
- 1999年 カールギル紛争
- 2008年 ムンバイー同時多発テロ
- 2012年 アンナー・ハザーレーのジャン・ロークパール運動
これらの映像の中で、BJPの政治家LKアードヴァーニーやABヴァージペーイー、1997年から2002年まで大統領を務めたKRナーラーヤナン、男優シャールク・カーン、女優スシュミター・セーン、パーキスターン人テロリストのアジマル・カサーブ、社会活動家アンナー・ハザーレーなどが登場していた。
また、インドの有名なマフィアのドン、ダーウード・イブラーヒームをモデルにしたと思われる人物がチラリと映っていたし、ルーパーが愛人になるマフィアのアッバース・ハージーは、ダーウードの片腕アブー・サーレームをモデルにしていると思われる。アブーにはモニカ・ベーディーという女優の愛人がいたが、おそらく彼女がルーパーのモデルである。
「フォレスト・ガンプ」で主人公フォレストはエビ漁会社を立ち上げるが、「Laal Singh Chaddha」でラールが始めたのは下着工場であった。当初は戦死した戦友バーラーの名前を冠していたが、ブランド名を「ルーパー」に変えたところ大ヒットする。ルーパー(Rupa)といえば、インドで知らぬ者のいない下着を主力とするアパレルブランドである。ただし、本物のルーパー社の創業は1968年であり、「Laal Singh Chaddha」のストーリーとは合わない。この辺りはあくまでフィクションである。
このように「フォレスト・ガンプ」のフォーマットをインドに置き換えて作られたのが「Laal Singh Chaddha」であるが、重要なのは、これらの物語を通して観客に何を伝えたいかだ。一貫して触れていたのは宗教問題である。知能障害を抱えていたラールは、宗教に関する難しい事柄は理解していなかったが、母親からいわれた「宗教はマラリアだ」という言葉を真に受けており、非常に冷めた視線で宗教を見ていた。これは、カール・マルクスの「宗教は阿片である」という言葉を思わせる。
劇中に登場する出来事のいくつかは、宗教と密接な関連を持っている。反スィク教徒暴動はスィク教徒をターゲットにした暴動であったし、ラーム・ラト・ヤートラーはヒンドゥー教徒の宗教心を刺激し、宗教観対立の下地を作った。ただ、それぞれがあまりにサラリと描かれているため、宗教の盲信に対する批判ははっきりと読み取りづらい。登場人物にはパーキスターン人も登場し、最終的には原理主義を批判する立場になるが、特に印パ親善が込められているわけでもなく、彼の存在意義は曖昧だった。また、ナレーンドラ・モーディー首相の顔や彼が主導した政策への言及もあり、現政権に対する批判というメッセージ性も読み取れなかった。結局、どういう立場でメッセージを発信しているのか、よく分からない映画である。冒頭と最後に登場する、宙を舞う白い羽根のように、一定の場所に留まらず、終始ヒラヒラした映画だと感じた。
「どんな役でも演じることができる」と豪語するアーミル・カーンであるが、今回の彼の演技を見て衰えを感じてしまった。「3 Idiots」のときは40歳を越えた年齢で大学生役を演じたことが話題になったが、今回は50歳半ばで大学生役を演じており、これはさすがに無理がある。しかも、「PK」で演じた宇宙人役と似た表情をしており、既視感が拭えなかった。彼がスィク教徒役を演じるのは珍しいが、パンジャービー語の発音にはパンジャーブ人から批判の声が聞こえてきている。関西人が外部の人間がする関西弁の物真似に手厳しいのと似ている反応かもしれないが、パンジャーブ人でなくても彼のパンジャービー語にパンジャービー語らしさが感じられなかった。
ヒロインのカリーナー・カプールも既に40歳を越しており、彼女にしても大学生役は苦しかった。果たしてアーミル・カーンとカリーナー・カプールを無理に起用する必要があったのだろうか。アーミルとカリーナーの主演作でなければもっと興行成績は悪くなっていたかもしれないが、彼らの起用が最適な作品とは思えなかった。
それでも、プリータムによる音楽はストーリーにうまく調和していて素晴らしかったし、原作自体の出来がいいおかげで、「Laal Singh Chaddha」も一定以上の感動が約束された映画に仕上がっていた。歌と踊りを効果的に組み込むなど、原作以上のものが欲しかったが、残念ながらそのレベルには達していない。
ラールがインド中を走り回るシーンでは、インド各地でロケが行われたことが分かる。北はラダックのパンゴン湖から南はカンニャークマーリーのヴィヴェーカーナンダ・ロック記念碑まで、インドの様々な光景を楽しむことができる。100ヵ所以上でロケが行われたとされている。
「Laal Singh Chaddha」は、ハリウッドの名作「フォレスト・ガンプ」のリメイクで、4年振りのアーミル・カーンの主演作であり、2022年の期待作の一本であったが、インド映画ならではのサプライズや、原作を越えるような何かまでを提供してくれる作品ではない。かといって、重要な社会的メッセージが込められていたかというと、終始ヒラヒラしていて、そういうものも明確には読み取れなかった。その期待外れ感が、インド国内での興行成績に如実に反映されてしまった。ただ、国外での興行成績は上々で、インドと海外で評価が分かれることになった。決して悪い作品ではないが、もう一工夫欲しかった。