777 Charlie (Kannada)

4.5
777 Charlie
「777 Charlie」

 動物映画はかつて日本でとても流行したジャンルだ。動物人気は過去に限ったことではなく、現在でもYouTubeで動物を出すと再生数が稼げるといわれている。忠犬ハチ公を例に出すまでもなく、日本人は基本的に人間と動物の織りなす物語が大好きだ。この傾向は海外でも多かれ少なかれ変わらないだろう。

 そうかと思ってインドについて振り返ってみると、インドでは動物映画の可能性があまり探索されてこなかったような気がする。路上で牛が寝そべっている風景が有名なインドではあまりに動物が日常すぎて、動物に特別スポットライトを当てるという発想が生まれにくいのかもしれない。いや、動物にスポットライトを当てると、それは象の神様ガネーシャや猿の神様ハヌマーンなどになってしまい、神様映画になってしまうという特殊な事情もありそうだ。インドに動物が登場する映画はいくつもあるものの、純粋に動物を主演にした映画はあまり思い付かない。ヒンディー語映画で一番有名な動物といえば、「Sholay」(1975年)で女御者バサンティーが操っていた白馬ダンノーであろう。とはいえ、ダンノーといえども「Sholay」の主人公ではない。

 実はインドは動物愛護が過激化している国であり、映画作りにも多大な影響をもたらしている。インド映画の冒頭に「この映画の撮影時に動物は虐待されていません」「この映画に登場する動物は全てCGです」などの注意書きを目にすることがあるが、あれはその苦労の現れである。何しろ乗馬ですら動物虐待に認定されることがあるので、撮影の自由度が狭まってしまう。インドで動物映画があまり作られてこなかった理由とも関係がありそうだ。

 2022年6月10日公開のカンナダ語映画「777 Charlie」は、人付き合いの悪い男性と人懐っこい犬との絆を描いた感動作である。犬はCGではなく本物だ。しかもきちんと演技をしており、相当訓練された犬であった。この映画を観ると、インドでも撮影時の動物使用がかなり緩和されたように見えるがどうだろうか。

 犬を巡るインド人の感情は両極端である。「犬」という言葉は数ある罵り言葉のひとつであり、誰かから「犬」と呼ばれたらそれは十中八九罵倒されていると思って間違いない。インドの路上には多くの野良犬がうろついているが、彼らは愛されて放任されているというよりも眼中に入らず無視されているといった方がいい存在だ。その一方で富裕層を中心に犬はペットとして人気で、家族の一員のように可愛がられていることもある。

 「777 Charlie」の監督はキランラージK。この映画の脚本を書いたのも彼である。プロデューサーはラクシト・シェッティーで、彼自身が主演も務めている。元々は別の俳優アラヴィンド・アイヤルを起用していたが、途中で降板し、プロデューサー自身が主演することを決めたという。

 他に、サンギーター・シュリンゲーリー、ラージ・B・シェッティー、ボビー・スィンハーなど。また、映画の真の主役といえる犬のチャーリーを演じた犬は本当にチャーリーという名前のラブラドール・レトリバーである。

 撮影は2018年から始まったが、ラクシト・シェッティーが他の映画の撮影に入ってしまったために途中で中止した。再開されたのは2020年になってからだが、新型コロナウイルスの感染拡大によるロックダウンがあり、撮影は中止された。ようやく撮影が完了したのは2021年10月とのことである。

 カルナータカ州マイスール在住のダルマ(ラクシト・シェッティー)は工場で溶接工として働く無口な男性だった。欠勤なく真面目に働いていたため、工場のオーナーからは一目置かれていたものの、人付き合いを徹底的に避けており、同僚や隣人からは変人扱いされていた。ダルマに家族や友人はおらず、ロイヤルエンフィールドのビンテージバイクだけが相棒だった。暇があるとチャーリー・チャップリンのコメディー映画を一人で観て生活していた。

 あるときダルマは一匹の野良犬に懐かれてしまう。犬はバイクにひかれて怪我を負う。彼は放っておけずに犬を獣医アシュウィン・クマール(ラージ・B・シェッティー)のところへ連れて行く。ダルマはそのまま犬を診療所に置いて行くつもりだったが、里親が見つかるまで預かることになる。その間、里親に犬を引き渡すのに必要だったため、彼は犬の飼育ライセンスを取りに行く。そこで動物愛護活動家デーヴィカー(サンギーター・シュリンゲーリー)と出会う。

 ダルマは犬と暮らす内に愛着を感じ始める。犬もダルマにとても懐いていた。一度、彼が気を失って倒れたとき、犬は心配して、病院に搬送される彼をどこまでも追ってきた。ダルマは犬を「チャーリー」と名付け、自分で飼い始める。

 しかしながら、チャーリーが血管肉腫という癌に冒され、余命わずかだということが分かる。チャーリーが雪を見たがっていると知ったダルマは、バイクにサイドカーを付け、チャーリーをヒマーラヤ地方まで連れて行くことを決意する。

 ダルマとチャーリーはインド亜大陸を北上する。途中で、元々チャーリーを虐待していた飼い主に罰を与えたり、犬の大会に出場したりと寄り道をしながら、カシュミール地方まで辿り着く。ダルマは約束通りチャーリーに雪を見せるが、翌日チャーリーは息を引き取る。だが、チャーリーは一匹の子犬を産んでいた。

 マイスールに戻ったダルマは犬を保護する施設を立ち上げ、チャーリーの名前を付ける。

 主人公のダルマは家族も友人も持たず孤独な生活を送っていた男だった。煙草を吸い、酒を飲み、部屋は散らかり放題で、近所の人々から「ヒトラー叔父さん」と陰口を叩かれていた。無駄口をせず真面目に働くため、職場の上司からは覚えが良く、出世もしていたが、人付き合いの悪い彼は同僚から疎まれていた。そんな退廃的なダルマの自堕落な生活振りが紹介される。カンナダ語の大ヒット映画「K.G.F: Chapter 1」(2018年/邦題:K.G.F: Chapter 1)の主人公ロッキーとかぶるキャラである。

 もちろん、冒頭でダルマを下げに下げているのは、その後の上げを演出しやすくするためだ。ダルマの生活や性格が一変する出来事になったのは、野良犬チャーリーとの出会いだった。とはいえ、当初は単なる野良犬扱いで、夏目漱石著「吾輩は猫である」よろしく、名前すら付いていなかった。見る人が見ればチャーリーはただの犬ではないことが分かった。インドにラブラドール・レトリバーの野良犬など普通はいないからだ。それでも孤独な生活を第一とするダルマにとって、突然居候することになったチャーリーは単なる厄介者に過ぎなかった。

 前半では、ダルマとチャーリーが深い絆で結ばれていく過程がじっくりと丁寧に描かれる。最初は一刻も早く犬を厄介払いをしたかったダルマだったが、いつしかチャーリーのいない生活が考えられなくなっていた。チャーリー・チャップリンの白黒映画のように色のない生活を送っていた彼は、チャーリーとの共同生活を始めたことで、人生に色を感じるようになった。チャーリーと出会う前はつっけんどんな態度を取って周囲から嫌われていたが、今ではすっかり雰囲気が変わり、笑顔を見せるようになった。自然に彼の周りには人が寄ってくるようになった。

 そんな幸せな時間帯も長くは続かない。チャーリーが癌に冒され余命わずかであることが分かるのである。無闇に延命措置をして苦しみを長引かせるよりも、短くても幸せな思い出をチャーリーに贈りたいと考えたダルマは、チャーリーが見たがっていた雪を見せるため、バイクに乗せて北上することにした。ここからは突然画面が開け、ロードムービーになる。溶接などの技術があったダルマは、手持ちのバイクを改造してサイドカーにし、チャーリーを乗っけて走り出す。

 3時間近くある映画であり、ロードムービー化した後半も盛りだくさんだ。寿命が尽きる前にチャーリーに雪を見せたいと先を急いでいる割には所々で寄り道をしていて、少し疑問も感じるのだが、どれもそれぞれ理屈抜きで感じさせるものがあった。特に印象に残ったのはパラグライダーでダルマがチャーリーと共に空を飛ぶシーンだ。「Dil Chahta Hai」(2001年)でもゴアの海で主人公たちがパラセーリングをするシーンがあったが、あの気持ちよさを思わせる爽快なシーンだった。ただ、どうしても彼がパラグライダーをする必然性を感じなかった。きっと、人間と犬が一緒に飛ぶシーンが絵になるという理由だけで撮影されたのだろう。

 後半部分のロケ地は、マハーラーシュトラ州、グジャラート州、ラージャスターン州、パンジャーブ州、そしてヒマーチャル・プラデーシュ州のようだ。実際には、マディヤ・プラデーシュ州を縦断した方が近道であるし、ヒマーチャルに入ってからもキンナウル・スピティ方面に謎の迂回をしてからカシュミールへ入っていたように感じたが、その辺りを突っ込むのは野暮であろう。また、撮影に時間が掛かったこともあってチャーリーが異様なスピードで成長してしまうが、それにも目をつむるべきだ。

 標高を上げ始めるとダルマの所持金は底を突く。まずはスマートフォンを売り、次にバイクを売って急場を凌ぐ。ヒマーラヤの頂きを目指す内に無駄なものをそぎ落としていく様子は、「マハーバーラタ」の最後を想起させる。パーンダヴァ五王子の長男ユディシュティラは、マハーバーラタ戦争に勝利し、しばらく統治をした後、空しさを感じて兄弟たちや妻と共にヒマーラヤを目指したのだった。そこにはいつしか一匹の犬が付いてきた。山頂に近づくにつれて兄弟や妻たちは倒れていき、最後にユディシュティラと犬だけになる。後にその犬は正義を司りユディシュティラの父にあたる神ダルマラージであることが分かる。主人公の名前がダルマであるのも無関係ではないだろう。

 チャーリーの死は決まっており、映画の最後はダルマとチャーリーの別れであることは容易に想像が付いた。よって、中盤からは悲しいエンディングを覚悟していた。しかしながら、その予想は半分当たって半分外れた。チャーリーが子犬を残し、それがダルマの新しい相棒になるというエンディングだったのである。しかも、チャーリーは「ありがとう」というジェスチャーを死に際にダルマに見せる。どうしようもない悲しみの中に、胸の奥底から吹き出すような喜びを重ねた、絶妙なエンディングだった。

 動物愛護活動家デーヴィカーと下手にロマンスを繰り広げなかったのも好印象だった。通常のインド映画なら絶対にダルマとデーヴィカーをくっ付けていたはずだが、「777 Charlie」はストイックにダルマとチャーリーの友情にフォーカスを当て続け、ぶれなかった。

 「777 Charlie」は音楽も良かった。ノビン・ポール作曲の楽曲は映画に溶け込んでいるものばかりで、ポップス風味の味付けがしてあった。無骨なダルマと可愛らしいチャーリーの凸凹コンビを音楽でもよく表現できていた。

 物語として非常に優れた作品だったが、チャーリーを通して、動物愛護のメッセージを発信する社会的に意識の高い映画でもあった。劇中で、チャーリーが癌になった原因として近親交配の可能性が示唆されていた。ブリーディングの世界では、血統の純血性を守って売値を高くするために近親交配が横行しているという。動物の命が尊重される世の中を皆で作っていこうとする呼びかけが最後になされていた。

 一点だけ気になったのはダルマの家族のことだ。回想シーンにより、ダルマには両親と妹がいたが、交通事故で彼らを失ったということが分かる。ただ、終盤にダルマが誰かに電話をするシーンがあり、その先には母親らしき人の声があった。ということは、交通事故で妹は失ったが、母親はまだ生きているということだろうか。それに関する詳しい説明はなかった。

 チャーリーの名前はもちろん英国人喜劇俳優チャーリー・チャップリンから付けられた。ただ、チャーリーには元の名前があった。それはキートンである。クラシック映画に造詣が深い人ならピンと来る名前だ。それは、チャップリンのライバルとされる米国人喜劇俳優バスター・キートンである。どちらも人々に笑いをもたらした人物であり、ダルマに幸せの意味を教えた存在として、深読みせずにはいられない名前たちだ。また、ライセンス番号「777」も言わずと知れた世界共通のラッキーナンバーだ。

 ダルマが乗っていたバイクは、インドが誇るバイクメーカー、ロイヤルエンフィールドの名機ブレット500(Bullet 500)である。空冷単気筒の小気味よい排気音がダルマのアイデンティティーの一部になっており、その音を聞くだけで彼が近付いてくるのが分かる。ダルマはチャーリーと出会った後、自分でカスタムしてブレット500をサイドカー仕様にした。終盤でその相棒を売り払ってしまうのは何とも残念だった。ダルマとブレット500の友情物語というのも観てみたかったような気がする。

 台詞はカンナダ語が基本だったが、登場人物や地域に合わせて英語、タミル語、ヒンディー語なども使われており、言語の再現が非常に写実的で好感が持てた。特に北インドのシーンではほぼヒンディー語が使われ、ダルマも少しだけヒンディー語を話していた。カンナダ語以外の台詞にはカンナダ語の字幕が付いていた。タミル語は、タミル語映画界の俳優ボビー・スィンハーが演じる愛犬家ヴァームスィナンダンの登場シーンで使われる。ダルマもヴァームシィナンダンとの会話はタミル語でしていた。この辺りには言語間の力関係が見られて面白い。カンナダ人にはタミル語もできる人が多いが、タミル人にはカンナダ語ができる人は少ない。これは、政治的・経済的・文化的にタミル人の方がカンナダ人よりも力が強いことを示している。実はタミル・ナードゥ州とカルナータカ州の仲は悪い。不仲の最大の原因は両州を流れるカーヴェーリー河の水である。この河の水をどのように共有するかでこの二州は昔からもめているのだ。ただ、「777 Charlie」では、犬と通してカンナダ人とタミル人の間の絆が再確認されていた。この映画はカルナータカ州とタミル・ナードゥ州の親睦メッセージも発信している。

 「777 Charlie」は、孤独な男性と一匹の犬が絆を深め、共にバイクで旅に出るという、観る前から傑作間違いなしと確信してしまうようなカンナダ語映画だ。しかも実際に鑑賞してみると、その想像を遥かに超える感動作に仕上がっていることに驚かされる。神話、動物愛護、バイク、言語、州間対立など、様々な観点から深掘りすることもできる。カンナダ語映画が生んだ最高傑作の一本だ。