「汎インド映画」への道③

 2022年5月14日付けのタイムズ・オブ・インディア紙社説欄に、映画評論家アンナーMMヴェッティカード(Anna MM Vetticad)による、最近の南インド映画の躍進についての論考「Very Male, With Extra Gloss(非常に男性的で、過剰に光り輝いている)」が掲載されていた。よくまとまっていたため、翻訳して掲載する。副題は、「なぜ南インド映画は全国的に人気になり、大金を稼いでいるのだろうか」である。

 新作カンナダ語映画「K.G.F: Chapter 2」(2022年)の主人公ロッキーは、ファンたちから「嵐」、「洪水」、「神」などと表現されている。しかしながら彼は、あるシーンで「インドのCEO」と自己紹介している。

 他の時期であれば、この肩書きは、男性中心のインド商業映画におけるただの大袈裟な例で終わっていたかもしれない。だが、2022年、ロッキーのこの言葉は彼の野心を示すのみならず、ここ数ヶ月間、ヒンディー語映画産業の長らく続いてきたヘゲモニーに前代未聞の挑戦をし続けている南インドの映画メーカーたちからの突撃ラッパとして解釈することができる。

 カンナダ語オリジナルに加えて、ヒンディー語、マラヤーラム語、タミル語、テルグ語吹替版が公開されて以来、4週間の間に、「KGF 2」は、興業レポートによれば、インド映画各言語の複数の興業記録を塗り替え、国内外の市場において、史上最高の大ヒットを飛ばしたインド映画の一本になった。

 これより前には、2021年末に公開されたテルグ語の密輸業者英雄譚「Pushpa: The Rise」(2021年)が、興業レポートによれば、インド映画の中でもっとも多くの劇場チケットを売った映画になった。

 「KGF 2」公開の数週間前には、テルグ語映画「RRR」(2022年)が全インドでブロックバスターヒットになった。その一方で、ヒンディー語映画産業、別名ボリウッドは、パンデミックの期間、観客を映画館に呼び戻すのに苦労してきた。

 インドの数多くの映画産業の中でヒンディー語、タミル語、テルグ語は、年間製作本数の面で、長らくお互いライバル関係にあった。ヒンディー語映画は伝統的に、言語の浸透度や、デリーやムンバイーのメディアから不公平で不釣り合いに取り上げられてきたことなど、いくつかの要因によって、より広範な汎インド的アクセスを享受してきた。

 この現状は何十年にもわたってほとんど揺るがなかった。小規模だが特筆すべき転機は、マニ・ラトナム監督のタミル語映画のヒンディー語吹替版が北インドで公開され、興行的に大きな成功を収めた1990年代だった。それから2000年代には、映画館が試験的にヒンディー語、ハリウッド映画、そして各州で普及している言語の映画以外にも目を向け始め、ラジニカーント主演の一連のタミル語映画が汎インド的な成功を収めた。

 SSラージャモウリ監督のテルグ語映画「Baahubali: The Beginning」(2015年)は、従来のハードルを越えることを狙った、明確で多角的なその公開戦略で分水嶺となった。映画はテルグ語とタミル語で同時製作され、ヒンディー語とマラヤーラム語の吹替バージョンと同時に公開された。各バージョンは、各地域の重鎮によって各観客に届けられた(例えばカラン・ジョーハルがヒンディー語市場を担当した)。そして、かつてないほど全国的な広報活動が行われた。

 壮大なスペクタクル、高品質の映像効果、インド神話に根ざしたストーリーラインなどの斬新なコンテンツと共に、上記の公開戦略は功を奏し、「Baahubali」は一大ブームを巻き起こした。「Baahubali 2: The Conclusion」(2017年)はさらに壮大で、さらに大きなヒットになった。

 「Pushpa」、「RRR」、「KGF 2」は、多言語吹替版や壮大なスケールなど、「Baahubali」のテンプレートのいくつかを参考にしたが、全てではない。例えば「Pushpa」は、南インドの外ではそれほど広範にマーケティングが行われなかったが、パンデミックの強制的な隔離に疲れた観客を組織的に動員した。

 ヒンディー語映画産業が長年、その優越性に胡座をかいてしまっていたことが、これら南インドの映画を助けることになった。あまりにも長く、あまりにも多くのヒンディー語映画メーカーたちが、南インドのヒット映画や低俗なハリウッド映画を盗んだり、リサイクルしたり、リメイクしたりしてきた。

 とはいえ、南インド以外の観客にとっては、「Pushpa」、「RRR」、「KFG 2」のパッケージング、スケール、そして技術的な卓越性が新鮮だった。しかし、それらの社会政治的な価値観は、ヒンディー語などの北インドの商業映画が信奉してきた最も厄介な価値観と共鳴するものである。

 これらの映画の特徴は、堂々と男らしさを前面に押し出していることだ。女性たちはそれらの映画のストーリーラインの中では重視されておらず、公然と攻撃されていないとしても品位を落とされている。「Pushpa」の主人公は、ヒロインがこれからレイプされると言っても動じない。彼女が彼への愛を告白して初めて、彼の所有欲が働き、悪役を打ちのめす。「KGF 2」の主人公は女性を誘拐し、彼女に言う。「お前は俺の娯楽だ。」彼女はすぐに彼に惚れてしまう。これらの映画は、「Baahubali 1」の中で、アヴァンティカーがシヴドゥに恋した後、シヴドゥによるアヴァンティカーのレイプを歌と踊りで下品に飾り立てたシーンがきっかけで生まれた。

 「RRR」の感染性のあるエネルギーは、この映画が、アッルリ・スィーターラーマ・ラージューとコーマラーム・ビームという2人の歴史的なフリーダムファイターたちを流用し、神話化しながら彼らの実像を事実上消し去ることで、インド映画において元から存在感が薄いアーディワースィー(先住民)の歴史を矮小化したという理不尽な事実を、多くの評論家や観客の目から消し去った。この映画は、前者をラーマ的な人物として、そして後者を「マハーバーラタ」のビーム的な人物として書き直すことで、今日の右翼的な言説に迎合することさえした。

 ここ数ヶ月、ヒンディー語映画を見劣りさせ、それを上回る興行成績を収めている南インド映画は、パンデミックの期間にOTTプラットフォームにおいて汎インド的に多くの視聴者を集めた、「The Great Indian Kitchen」(2021年/邦題:グレート・インディアン・キッチン)のような思慮深く、日常を切り取ったマラヤーラム語映画や、ダリトを主題にしたタミル語映画「Jai Bhim」(2021年)とはかけ離れている。

 「Pushpa」、「RRR」、「KGF 2」の核となる価値観は、州境や言語の壁を越えてインドを結びつける不穏な政治を思い起こさせるものである。しかしながら、その艶やかさ、壮大さ、語り口は、南インド以外の観客にとっては変化であり、現在想像力の枯渇に窮しているボリウッドには眠れぬ夜を与えている原因となっている。

 近年、「Pushpa」、「RRR」「KGF 2」などの南インド映画が全国的な大ヒットになっており、「汎インド映画」という聞き慣れない用語が流行するきっかけになっている。その一方で、ヒンディー語映画が不振に陥っているのも事実である。

 だが、それらの映画の価値観は非常に男性中心的、もっといえば男尊女卑的で、ヒンディー語映画が既に通り過ぎ、克服し、過去のものとしてきたものと感じることがある。その懸念をこの記事は的確に言語化してくれている。

 もちろん、記事でも触れられているように、ヒンディー語映画からそういう古い価値観が完全に一掃されたわけではないが、それでも2010年代以降、大半のヒンディー語映画から家父長的な価値観の発信を感じることが少なくなってきていた。特に父親キャラの変化が顕著で、かつては家父長の象徴みたいな父親ばかりしかいなかったのに、昨今のヒンディー語映画で描かれる父親は概してとても優しく、妻思い、もしくは恐妻家で、時には弱々しいほどなのだ。

 それが多くのインド人観客、特に男性客に、「薄味」と感じ取られて飽きられ、もしくは「男性の沽券に関わる」などと不愉快に思われ、客離れを起こしているとしたら、そして、そういう観客が、古い価値観とマッチョイズムに未だに固執する南インド映画に流れているとしたら、決して諸手を挙げて歓迎すべき現象ではないと感じる。