Dhaakad

3.5
Dhaakad
「Dhaakad」

 2010年代のヒンディー語映画界では女性中心映画が目立ったが、その時流の中で急成長したのがカンガナー・ラーナーウトであった。「Queen」(2014年/邦題:クイーン 旅立つわたしのハネムーン)の成功で単身観客を呼び込める女優としての地位を確立し、ヒロインというよりは女性ヒーローと呼んだ方が適切な主役を演じることのできる映画に好んで出演するようになった。「Queen」の前後から彼女が精力的に取り組んできたのが自身のアクションヒーロー化である。「Krrish 3」(2013年)や「Revolver Rani」(2014年)などでアクションシーンを要する役を演じてきたが、何と言っても「Manikarnika: The Queen of Jhansi」(2019年/邦題:マニカルニカ ジャーンシーの女王)が特筆すべきだ。彼女自ら監督とスタントをこなし、従来のヒンディー語映画女優の領域を超越した作品を送り出した。ただ、スターダムを駆け上がるにつれて業界の重鎮にも歯に衣を着せぬ発言をするようになり、周辺から煙たがられるようにもなっている。それでもひたすら孤軍奮闘を続けるユニークな存在だ。

 2022年5月20日公開の「Dhaakad(激烈な)」は、「Manikarnika」に続き、彼女がアクションヒーロー役に挑戦した作品である。ITFという架空の対外諜報機関のエージェントになるのだが、スパイというよりは暗殺者であり、もっと言えば、女忍者「くノ一」に近い存在だ。

 監督はラズニーシュ・レイジー・ガイー。長編映画の監督は初である。ガイー姓だが、スバーシュ・ガイーとは無関係のようだ。

 主演はカンガナー・ラーナーウトのみ。今回も彼女は男優と主演のステータスを共有していない。その代わり、悪役にアルジュン・ラームパールが起用されている。また、ディヴィヤー・ダッター、シャーシュワタ・チャタルジー、シャーリブ・ハーシュミーなどが出演している。

 また、永田鉄男という日本人が撮影監督を務めていることも特筆すべきだ。「Mary Kom」(2014年)で撮影監督を務めた中原圭子に次ぎ、インド映画界で活躍する日本人撮影監督の2人目だと思われる。

 インドの対外諜報機関ITFのエージェント、アグニ(カンガナー・ラーナーウト)は、幼い頃に両親を殺され、ITFのハンドラー(シャーシュワタ・チャタルジー)に育てられ、冷酷な暗殺者になっていた。彼女は時々、幼い頃のトラウマを思い出した。

 アグニはハンガリーの首都ブダペストで国際的な人身売買シンジケートの拠点に潜入し、インドから売られてきた女性たちを救出する。このシンジケートは、インドのマディヤ・プラデーシュ州ボーパール近くにある炭鉱を支配するルドラヴィール(アルジュン・ラームパール)とそのパートナー、ローヒニー(ディヴィヤー・ダッター)によって運営されていた。アグニはこのシンジケートの情報を収集するため、インドに送り込まれる。

 アグニはファザル(シャーリブ・ハーシュミー)の助けを借りてシンジケート内部に潜入を試みる。ファザルにはザーイラーという娘がおり、アグニは彼女と仲良くなる。だが、アグニの動きが察知され、ファザルは殺される。アグニはチームを率いて炭鉱を襲撃するが、ルドラヴィールの待ち伏せに遭い、多くの隊員が殺されてしまう。アグニもルドラヴィールに撃たれ、死亡する。

 ところがアグニはハンドラーに助けられており、死んでいなかった。回復したアグニは、行方不明になったザーイラーを探し始め、ローヒニーを殺す。ザーイラーはブダペストに送られたことが分かるとアグニは現地に飛ぶ。ルドラヴィールもザーイラーを使ってアグニを誘き寄せる。二人の間で戦いが繰り広げられる。アグニは幼少時の記憶を完全に取り戻し、両親を殺したのはルドラヴィールだったことを思い出す。アグニはルドラヴィールになぜ両親を殺したのか問いつめる。だが、それを答える前にルドラヴィールを殺してしまう。ザーイラーは無事に助け出される。

 回復したアグニは、ハンドラーこそが両親殺害の黒幕であることに気付く。ハンドラーは、アグニの父親もITFのエージェントで、ITFを辞めようとしたために殺したと答える。アグニはハンドラーを殺す。

 女性の暗殺者が主人公のアクション映画といえば、欧米にはリュック・ベッソン監督の「ニキータ」(1990年)やクエンティン・タランティーノ監督の「キル・ビル」(2003年)などが既にあるが、ヒンディー語映画界では珍しい。日本人が撮影監督に起用されている点や、エンドクレジットナンバーの「She’s On Fire」で日本的なモチーフが出て来た点から、「Dhaakad」は特に「キル・ビル」の影響を強く受けていると予想される。アクションシーンのレベルは非常に高く、カンガナー・ラーナーウトはこの「Dhaakad」によってまた新たな地平を切り拓いたといえる。

 「Dhaakad」は今年の期待の一本だったのだが、蓋を開けてみたら客入りは最悪で、興行的に大失敗に終わってしまった。決してつまらない映画ではなく、むしろよくできた映画だったのだが、影響力のある評論家からは酷評を浴びた。もしかしたらヒンディー語映画業界の有力者がカンガナーを潰すために裏で動いたのかもしれないと疑ってしまうほど、実際の映画の出来と世間の受けが乖離している。

 もしくは、2010年代にあまりに女性が前面に押し出された映画が乱発されたため、観客が食傷気味になっているのかもしれない。女性が中心の映画は受けないという業界のジンクスを2010年代にはヴィディヤー・バーランやカンガナー・ラーナーウトが地道に覆してきたのだが、ここに来て揺り戻しが起きているように感じる。「Dhaakad」の失敗はその象徴的な事件である。

 過去に男性スターたちは散々、無敵のヒーローを演じて来た。だが、男女同権の世の中だからと女優が同様のアクションスターを目指すと、すんなり受け入れられない観客が多いかもしれない。「Dhaakad」のカンガナーは、一騎当千の強さを誇り、マシンガンで撃たれても弾が当たらず、殺されても死なない。孤高の存在であり、全く男性を寄せ付けない。それでいて少女ザーイラーの前だけは母性全開で、女性性の片鱗を少しだけ見せる。おそらくアグニは親を失ったザーイラーを引き取り、彼女を娘にするだろう。そうなると、アグニは男性なしに子供を作ったことになり、彼女の人生に全く男性の入り込む余地がなくなってしまう。これは男性にとってまずいのである。

 では、こういう女性ヒーローが女性観客に受け入れられるかというと、これも疑問だ。まず、「Dhaakad」には残酷なシーンが多い。とにかく人が死にまくり、血しぶきが飛びまくる。これだけで大半の女性客が逃げそうだ。しかも、彼女は腕力だけでなく、色仕掛けも有効活用して目的を達成しようとするため、ロマンス要素ゼロの純エロティックシーンも多めだ。これも女性客の足を遠のかせるだろう。それではアグニのキャラ自体に魅力があるのかという問いが残るのだが、常に仏頂面のアグニに感情移入する人はあまりいないだろう。こうして女性の観客もターゲットから外れてしまう。

 カンガナー・ラーナーウトの努力は認めるのだが、ここに来て彼女は、トラウマは抱えているものの、完全無欠の女性ヒーローという孤高な頂に辿り着いてしまい、気付いたら周囲の人々は皆脱落していたという状態になっているような気がする。「Dhaakad」の彼女からは、とにかく孤独しか感じないのである。失敗の要因はここにあるような気がしてならない。

 それでも、カンガナーの孤軍奮闘以外にも収穫はあった映画だ。とにかくアルジュン・ラームパールがいい。デビュー後しばらくくすぶっていたアルジュンは、「Om Shanti Om」(2007年/邦題:恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム)でファラー・カーン監督に見出され、悪役をスマートに演じ切ったことで評価がうなぎ登りになった。「Dhaakad」で見せたアルジュンの悪役振りは、悪役を専門にしてもいいほど禍々しいもので、素晴らしかった。

 「Dhaakad」は、ヒンディー語映画界で孤軍奮闘を続けるカンガナー・ラーナーウトが、女性アクションスターとしてスクリーンの中でも孤軍奮闘する孤独なアクション映画である。アクションシーンのレベルは高く、カンガナーや悪役アルジュン・ラームパールの演技も素晴らしい。しかしながら、エログロのシーンが多めなことで女性客を失い、あまりにカンガナーが強すぎることが男性客離れを引き起こしており、興行的には大失敗に終わっている。そこまで酷評されるような出来の映画ではないので観て損はないが、鬼気迫る演技を見せるカンガナーの行く末が不安になるような映画である。