パンチャーヤト

 農村を舞台にしたインド映画を観ていると、たまに「パンチャーヤト(Panchayat)」という言葉が出て来る。ヒンディー語では「पंचायत」、日本語では「村落議会」などと訳されている。村の広場や大きな木の下などに村人たちが集まり、村に関する事項などを決める会議のことをいう。「パンチャーヤト」を直訳すると「五人会議」である。伝統的には5人の長老が相談し合って物事を決定していたためにそう呼ばれたのだろうが、必ずしも5人に制限されているわけではない。パンチャーヤトで村民を代表して話し合うメンバーを「パンチ」、パンチャーヤトの長は「サルパンチ」という。

 パンチャーヤトは村落の自治組織である。伝統的にインド及び南アジアの各村に存在した意思決定機関だが、インドにおいては独立後、法律によって制度化された。県レベルの「ズィラー・パンチャーヤト(Zila Panchayat)」など、もっと大きな単位のパンチャーヤトもあるのだが、ここでいうパンチャーヤトとは、「グラーム・パンチャーヤト(Gram Panchayat)」と呼ばれる村単位のパンチャーヤトである。

 パンチャーヤトは、村の道路、下水道、橋、井戸、街灯などの管理、公共施設の建設、店舗の物価の統制、初等教育、小規模な争いの解決などの役割を担っている。選挙権を持つ村民全員による直接選挙で選ばれ、任期は5年である。中央政府には、全国のパンチャーヤトによる自治を管理するパンチャーヤト統治省(Ministry of Panchayati Raj)が独立して設置されている。

 パンチャーヤトを理解するために最適なのは、ヒンディー語作家プレームチャンドの短編小説「पंच पर्मेश्वरパンチ パルメーシュワル(5人の神)」(1916年)だ。制度として成立する前のパンチャーヤトであるが、パンチャーヤトがインドの村でどういう意義を持っているのかが理想主義的に描写されている。あらすじは以下の通りである。

 ジュンマン・シェークとアルグー・チャウダリーは同じ村で生まれ育った親友であった。ジュンマンが親戚と争いを抱えてパンチャーヤトに掛けられた際、アルグーはサルパンチに選ばれ、判決を出すことになる。ジュンマンは親友のアルグーが自分に有利な判決をしてくれるものだと思っていたが、アルグーは公平に審判を下し、ジュンマンを敗訴とした。ジュンマンはそれを裏切りだと考え、アルグーと絶交し、彼に対する復讐の機会を待つようになった。

 それから約1ヵ月後、今度はアルグーがパンチャーヤトに掛けられることになった。原告はジュンマンをサルパンチに指名した。アルグーとジュンマンの不仲は村で周知の事実だったからだ。ジュンマンもようやく復讐の機会到来と喜ぶ。ところがいざサルパンチの立場でパンチャーヤトに臨むと、彼は自然と公平な判決を下し、アルグーの勝訴とした。ジュンマンはサルパンチがどういうものかを理解し、アルグーと仲直りする。パンチャーヤトには神が宿るのである。

 パンチャーヤトでは、村人全員の前で特定の議題について議論が交わされる。複数の人々の間で何らかの問題が起こった場合、弁護士などは介入せず、当事者は人々の前で論理的に自分の正しさを立証しなければならない。そして議論が尽くされると、最後にサルパンチが判断を下す。正に民主主義の原点だ。

 とはいえ、一般的にヒンディー語映画では、パンチャーヤトはあまりいい描かれ方はしない。いかにも村社会といった因習に囚われた判決をするところが映し出されることが多いのである。例えば、「Paan Singh Tomar」(2012年)、「Miss Tanakpur Haazir Ho」(2015年)、「Turtle」(2021年)などの映画では、パンチャーヤトが開かれ、主人公に対し理不尽な判決が下される様子が描かれている。

Miss Tanakpur Haazir Ho

 そういえば名作「Lagaan」(2001年/邦題:ラガーン クリケット風雲録)でも、アーミル・カーン演じるブヴァンが、3年間の免税か、3倍の増税かを賭けて英国人たちとクリケットで戦うことを承諾した直後に村でパンチャーヤトが開かれていた。やはり主人公が村人たちから総スカンを食うシーンであった。

Panchayat
「Lagaan」でのパンチャーヤトの様子

 その極めつけはカープ・パンチャーヤトである。カープ(Khap)とは、ハリヤーナー州を中心とした北西インドの農村部に存在するカースト主体のパンチャーヤトである。特にジャートと呼ばれるコミュニティーがカープという組織を持っており、そこで開かれる会議がカープ・パンチャーヤトである。カープ・パンチャーヤトは、社会的な規範に則らない結婚をした若いカップルに対し死刑判決を連発し、批判を浴びるようになった。いわゆる名誉殺人である。いうまでもなく、カープ・パンチャーヤトはヒンディー語映画では批判的に描かれることがほとんどである。

 しかしながら、パンチャーヤト自体は悪ではない。みんなで寄り集まって物事を決めていくのは民主主義の根幹であり、村落などの組織の自治のためには大切な機関である。