Tamasha

4.0
Tamasha
「Tamasha」

 ヒンディー語映画界において、ロマンス映画の領域を果敢に開拓している監督と言えば、イムティヤーズ・アリーをおいて他にいない。彼は監督デビュー作の「Socha Na Tha」(2005年)から一貫してロマンス映画を撮り続けて来ており、しかも従来のヒンディー語映画が構築して来たロマンス映画の典型に敢えて当てはまらない作品作りにこだわっている。ロマンス映画と言えば、得てしてボーイ・ミーツ・ガール→結婚といったワンパターンに陥りがちであり、インド映画は特にそうなのだが、イムティヤーズ監督の撮るロマンス映画はひと味もふた味も違う。彼の監督作品は全てオススメだ。

 イムティヤーズ監督の前作「Highway」(2014年)が公開された頃、僕は既にインドに住んでいなかった。しかし、偶然ながらインドに旅行に来ており、彼の作品を映画館で鑑賞することができた。今回、2015年11月27日公開の新作「Tamasha」についても、やはり偶然に公開期間中にインドに滞在しており、映画館で鑑賞する幸福を享受できた。ちなみにその映画館はDTプロミナード・ヴァサントクンジであった。別に彼の作品が公開されるタイミングに合わせてインド旅行をしている訳ではないが、イムティヤーズ監督は、普段あまり好みを持って映画を観ていない僕にとっても、贔屓目に見ている監督ということになるだろう。

 「Tamasha」とはヒンディー語で、「見世物」「寸劇」「ショー」のような意味である。プロデューサーはサージド・ナーディヤードワーラー、監督はイムティヤーズ・アリー、音楽監督はARレヘマーン、作詞家はイルシャード・カーミル。主演はランビール・カプールとディーピカー・パードゥコーン。この二人は過去に「Bachna Ae Haseeno」(2008年)や「Yeh Jawaani Hai Deewani」(2013年)などで共演しており、付き合っていた時期もあるが、現在は交際していないとされている。ただ、別れた後もプライベートで相当仲が良いという噂である。

 主演二人の他に、パーキスターン人男優ジャーヴェード・シェークをはじめ、スシュマー・セート、ヴィヴェーク・ムシュラン、ピーユーシュ・ミシュラー、イシュテヤーク・カーンなどが出演している。

 ヴェード・ワルダン・サーニー(ランビール・カプール)は、子供の頃から物語を聞くのが大好きだった。彼はフランスのコルシカ島を旅行中にインド人女性ターラー・マヘーシュワリー(ディーピカー・パードゥコーン)と出会った。ターラーは財布やパスポートの入ったバッグをなくしてしまい、1週間ほどヴェードは彼女を助けることになった。ただ、この期間、二人はお互いの正体を明かさず、それぞれ「ドン」と「モナ」と名乗って、ごっこ遊びをしていた。ターラーは、インドから送金してもらったお金を手にし、パスポートの再発行が完了した時点で、コルシカ島を去る。だが、彼女はヴェードのことを好きになっていた。

 4年が過ぎ去った。ターラーは今でも心の中でヴェードとの再会を待ちわびていた。勤務先がコルカタからデリーに変わったことがきっかけで、ターラーはヴェードと再会を果たす。二人は初めてお互いに自己紹介をし、デートを重ねるようになる。あるとき、ヴェードはターラーにプロポーズをする。ところがターラーはそれを拒絶する。ターラーは、普通の会社員として働くヴェードではなく、コルシカ島で出会った「ドン」を演じるヴェードに恋していたのだった。

 ターラーに振られたヴェードは次第に本当の自分を発揮するようになる。会社のボスから眉をひそめられるが、ヴェードは懲りなかった。とうとう彼は会社を首になる。ヴェードは就職活動を始めるが、なかなか就職先は決まらない。そこでヴェードは故郷のシムラーに戻り、子供の頃に大好きだった物語師(ピーユーシュ・ミシュラー)に会いに行く。そしてターラーとの物語を説明し、その結末を聞こうとする。物語師は、自分の物語は自分で決めろとアドバイスをする。

 ターラーは東京に転勤になっていた。ヴェードはターラーを追い掛けて東京へ飛び、彼女に「ドンが帰って来た」と告げる。ヴェードは得意の物語を発展させ、演劇監督としての才能を開花させる。ターラーはそれを影で支えていた。

 イムティヤーズ・アリー監督が「Tamasha」でテーマに取り上げたのは、人は人自体を好きになるのか、それともその人の持つ特定の人格を好きになるのか、という斬新な問いであった。ターラーはコルシカ島を旅行中に出会った破天荒な若者ヴェードに恋に落ちたのだが、デリーで再会したヴェードはごく普通の会社員であった。ヴェードは、旅行中だったためにふざけて「ドン」を演じた訳だが、ターラーが恋に落ちたのは、ヴェード自身ではなく、彼が演じた姿である「ドン」だった。ヴェードと付き合う内に彼女はそのことに気付き、彼からのプロポーズを拒否してしまう。結局、ヴェードは「ドン」の人格を復活させ、「演じる」ことを仕事にし、成功を収める。このストーリーラインから読み取れるイムティヤーズ監督の主張は2つだ。ひとつは、人格を好きになる恋が存在するということ、もうひとつは、人は本当に自分がやりたいことをすべきということだ。

 「Tamasha」は第一にはロマンス映画なのだが、ロマンスを土台にした上で、個性を抑圧しようとする社会の中で個性とどのように向き合って行くべきなのか、という現代人が抱えがちな問題に踏み込んでいる点で、ロマンス映画の域を超えている。これは大半の日本人にとっても身近な問題であろう。ヴェードは、一方で天性の物語好きとして描かれ、一方で親から工学を学ぶように押し付けられ、さらに会社の中で「普通」でいることを求められる存在として描かれる。ヴェードは、そんな「普通」の自分に満足していたが、ターラーと再会したことで、常識を覆される。

 人はいくつも人格を持っていると言う。家族の前での人格、家の外での人格、親しい友人たちといるときの人格、職場での人格・・・。特に社会生活を送る中で、人は周囲が期待する人格を演じることになる。それが「空気を読む」ということであり、なるべく「出る杭」にならないように気を付ける。だが、どの人にも、子供の頃から培って来て、社会に出るまでは活発に活動していた、「本当の自分」がいるはずである。そして、もし、その「本当の自分」を好きな異性が現れ、自分もその人と恋に落ち、結婚するために「本当の自分」であることを求められたら、どうすればいいのか?

 「Tamasha」が提示する答えは単純だ。会社を首になり、就職活動を投げ出して、劇作家になったヴェードは、いつの間にか成功している。つまり、子供の頃からの夢を追い掛けろ、そうすれば成功する、ということだ。人生がそんなに単純でないことは、一定年齢の大人なら分かるだろう。誰でも「本当の自分」を剥き出しにすることで成功を手にできるなら苦労しないが、そうではない。ただ、映画なので、話を単純化しなければ何のメッセージも送れない。「Tamasha」は、特定の人格に対する恋愛を肯定し、自分が本当にやりたいこと、得意なことを突き詰めるべきであることを強力に後押しする。

 人は演じることで社会的な人格を身に付けるが、ヴェードに限っては、物語を作り、演じ、語ることが彼の本領であった。だが、その演技力を抑え込むという演技を身に付けることで会社の中でポジションを築いていた。題名の「Tamasha」(寸劇)は、第一にはシェークスピアの有名な言葉「この世は舞台、男も女も役者にすぎない」に起因すると考えられるが、内容を見ると、ヴェードのそんな二重の「演技」を指していると言える。

 インド映画の特徴のひとつにインターミッション(中休み)が必ず挿入されるという点がある。「Tamasha」のインターミッションは、ターラーがヴェードからのプロポーズを断るシーンの直後に入っている。正にここが中盤最大の山場であり、観客にどんでん返しとミステリーを突き付けている場面である。唐突な導入から徐々にグリップ力が落ちて来た中でのこの転回には鳥肌が立った。また、どちらかというと前半はターラーの視点で物語が進むが、後半はヴェードの視点で進行する。そういう視点の転換もインターミッションは担っている。

 イムティヤーズ監督の映画はロードムービー的な要素が強い。「Tamasha」の舞台もひとつではない。シムラー、コルシカ島、コールカーター、デリー、そして東京(!)。特にコルシカ島で、旅人同士がお互いのアイデンティティを隠しつつ友情を築くという冒頭の場面は、旅好きな人ならではの発想だ。ちなみにデリーではハウズ・カース・ヴィレッジでロケが行われていたことが特定できた。物語の重要なターニングポイントとなるカフェ「SOCIAL」もハウズ・カース・ヴィレッジにある。東京ロケは日本のインド映画ファンを驚かせた。ロケ当時、ランビールとディーピカーが東京にいるという噂が流れ、実際に映画中でも東京ロケのシーンが使われていた。ヴェードとターラーがデリーで再会した後にデートをした場所も日本食レストランであり、何かと日本に縁のある映画でもある。

 ヴェードとターラーが演じていた「ドン」と「モナ」は、過去のヒンディー語映画へのオマージュだ。「ドン」やそれに付随する台詞はアミターブ・バッチャン主演「Don」(1978年)から来ている一方で、「モナ」はダルメーンドラ主演「Yaadon Ki Baraat」(1973年)から来ている。また、ヴェードはインターポール(国際警察)も演じているが、この部分はデーヴ・アーナンドの真似である。

 他に、この映画の中には古今東西の様々な物語が織り込まれていた。それらは、主人公ヴェードが子供の頃に物語師から聞いたものばかりであった。「ラーマーヤナ」、「クリシュナの物語」(参照)、「プリトヴィーラージ王とサンユクター」、「トロイとヘレン姫」、「ロミオとジュリエット」、「ライラーとマジュヌーン」、「ヒールとラーンジャー」、「ソーニーとマヒワール」、「アラジンと魔法のランプ」などなど。膨大なインド説話文学の知識がある程度ないと多くは分からないかもしれないが、多くは男女のロマンスである。それらの根底に一貫して流れる物語のエッセンス――例えば「出会いの後に必ず訪れる別れ」など――が抽出されており、本編のストーリーを補完していた。物語師がヴェード少年に語る言葉「物語の詳細を気にするな、ただ楽しめ」は、インド映画を楽しむ秘訣とも言えるだろう。

 ARレヘマーンの音楽もとても良かった。コテコテのインディアンからモダンなヨーロピアンまで多様なラインナップで、「Matargashti」、「Heer Toh Badi Sad Hai」、「Wat Wat Wat」など、映画の雰囲気に合った陽気でテンポのいい曲が多い。どれもストーリーに密着した歌詞で、特にミュージカル仕立ての「Chali Kahani」は物語と一体化している。イムティヤーズ・アリー監督とARレヘマーンのコンビはこれまでも「Rockstar」(2011年)、「Highway」とヒットを飛ばして来ており、この「Tamasha」も評価が高い。

 「Tamasha」は、ヒンディー語映画界の「ロマンス映画の帝王」イムティヤーズ・アリー監督の最新作。常にロマンス映画の新しい形を模索する彼らしい作品で、今回は、人そのものではなく、その人の特定の人格に対する恋愛がテーマであった。前半、少し退屈になる時間帯があるし、結末への持って行き方も強引な印象を受けたが、ユニークでよくできたロマンス映画であることに変わりはない。