Daawat-e-Ishq

3.0
Daawat-e-Ishq
「Daawat-e-Ishq」

 インドでは婚姻において一般に花嫁側の家族が花婿側の家族に持参金を支払う習慣になっている。持参金の額は社会的地位や経済力によって異なるが、日々の生活に困っている貧困層でも日本円にして数十万円に及ぶ多額の持参金を支払っており、女児を持つ家庭の大きな負担となっている。娘が3人生まれるとその家は破産するとまで言われている。持参金の重荷があるために、インドでは女児堕胎も横行しており、男女比率に不自然な歪みが出来ていて、大きな社会問題となっている。また、持参金の額が折り合わないために縁談が破談となったり、持参金が足りないために婚家を追い出されたり、夫側家族が再婚によって再び持参金を得ようと目論み嫁を殺したりと、持参金に付随した問題は多い。一応1961年に持参金の要求は禁止されているが、依然として持参金なしに結婚は考えられない状態だ。

 インドの社会で持参金が大きな問題となっている一方で、持参金を抑止するために制定された法律が逆に悪用されるケースも目立って来ている。インド刑法(IPC)には498Aという条文がある。この条文では女性配偶者に強力かつ一方的な権限が与えられており、彼女に持参金の要求などを行った者に3年以下の禁固刑や罰金刑を科している。また、この条文は保釈の対象となっておらず、一度裁判が始まると原告でさえも訴えを取り下げることができない。このような強力な権限が与えられたのは、持参金やそれに関わるハラスメントから女性を守るためだが、逆に女性側が498Aをちらつかせて離婚相手などから多額の示談金をせしめたりする事件が相次いでいる。

 2014年9月19日公開のヒンディー語映画「Daawat-e-Ishq」は、「愛の宴」という題名からは全く想像できないが、持参金問題や498A問題を題材にした映画である。ヤシュラージ映画らしくラブコメタッチの味付けがなされており、基本的に軽いノリで楽しめるが、インドの実情を理解し、一歩踏み込んで考えてみると、非常にシリアスな映画だ。

 監督はハビーブ・ファイサル。「Do Dooni Chaar」(2010年)や「Ishaqzaade」(2012年)の監督で、異色のロマンス映画に長けている。作曲はサージド・ワージド、作詞はカウサル・ムニール。主演は「Aashiqui 2」(2013年)のアーディティヤ・ロイ・カプールと「Hasee Toh Phasee」(2014年)のパリニーティ・チョープラー。他にベテラン俳優のアヌパム・ケールやテレビ俳優のカラン・ワーヒーなどが出演している。

 ハイダラーバードの下町に住む下位中流家庭のグルレーズ・カーディル、愛称グッルー(パリニーティ・チョープラー)は米国で靴のデザインを勉強し、シューズ・デザイナーになるのが夢だったが、現在はモールの靴屋で店員をしていた。裁判所で事務員として働く父親のアブドゥル・カーディル(アヌパム・ケール)は定年まで2年となっており、何としてでもグッルーを結婚させたがっていたが、毎回縁談は多額の持参金を要求されることで破談となっていた。

 ある日、グッルーはハンサムな若者アムジャド(カラン・ワーヒー)と出会い、恋仲になる。アムジャドはこれから米国留学に行く予定で、グッルーは彼と結婚して共に渡米する夢を抱き始めた。アムジャドからプロポーズされ、天にも昇る気持ちだったが、アムジャドの両親は800万ルピーの「ヘルプ」を要求して来た。怒ったグッルーは自ら破談とする。

 グッルーは、女性が498Aを利用して夫から多額の示談金をせしめた判例を知り、自分も498Aを悪用して渡米に必要な資金を調達することを思い付く。最初は反対していたアブドゥルも巻き込まれ、2人はラクナウーへ鴨を探しに出掛ける。グッルーとアブドゥルはそれぞれサーニヤー・ハビーブッラー、サーヒリヤール・ハビーブッラーを名乗り、ドバイから花婿を探しに来たという設定にした。ネット上に花婿募集の知らせを載せたところ、多くの男性から応募があった。その中でターゲットに決まったのが、ラクナウーで人気のレストランを経営するターリク・ハイダル、通称タールー(アーディティヤ・ロイ・カプール)であった。

 タールーの両親は合計400万ルピーの持参金を要求して来た。グッルーはその様子をカメラに収める。結婚式まで3日間待つことになり、この間、グッルーとタールーは一緒に過ごす。3日目、タールーはグッルーに400万ルピーを渡す。彼は持参金に反対であったが、親の顔を立てて表だって反対しなかった。その代わり、グッルーに持参金分の現金を渡し、相殺しようとしたのだった。タールーは本気でグッルーを愛していた。しかし、グッルーは今更引き下がることはできなかった。計画をそのまま進め、結婚式を行い、400万ルピー分の偽札をタールーの家族に渡して、初夜の直前にタールーに睡眠薬入りのキール(乳粥)を食べさせて眠らせる。そして警察に証拠のビデオと共に被害届を出す。翌朝目を覚ましたタールーの目の前に現れたのは警察であった。

 警察は、裁判沙汰になる前に示談することを勧める。タールーはその通りにし、400万ルピーをグッルーに支払うことを決める。受け渡しのときにタールーはグッルーを捕まえようとするが、間一髪でグッルーは逃げ出し、そのままハイダラーバードに戻る。こうして二人は800万ルピーを手にする。グッルーは闇両替屋に頼み、これらのブラックマネーをホワイトマネーに変える。

 早速グッルーとアブドゥルは米国のヴィザを取得しようとするが、グッルーは罪悪感に苛まれるようになり、やはりお金をタールーに返すことにする。また、グッルーはタールーに恋していることも自覚していた。グッルーとアブドゥルはラクナウー行きの列車に乗り込もうとする。ところが、Facebookのアカウントからグッルーの正体がタールーにもばれており、彼はハイダラーバードまでグッルーを追い掛けて来ていた。タールーはハイダラーバード駅でグッルーを探す。彼がグッルーを見つけたとき、彼女は闇両替屋から追い掛けられていた。彼女は闇両替屋に支払いをしていなかったのである。タールーは彼女を助ける。

 グッルーは、多額の持参金を要求され続けたために498Aを使ってお金を騙し取ろうとした経緯をタールーに説明する。また、説明する中でタールーに恋してしまったことも打ち明ける。タールーはそれを聞いて喜び、グッルーを許す。こうして改めてタールーとグッルーの結婚式が行われた。

 通常、持参金問題を映画で取り上げようと思い付いた際、その映画のトーンは暗いものにならざるを得ないだろう。持参金問題はカースト問題や宗教問題と並ぶインドの大きな社会問題のひとつであり、男尊女卑、女児堕胎、男女比不均衡、持参金殺人、家庭内暴行などの諸問題の根源ともなっている。決してカジュアルな気持ちで触れていい問題ではない。だが、それを敢えてライトタッチのラブコメに味付けし、娯楽映画として成立させてしまっているところに、ハビーブ・ファイサル監督の優れた才能を感じさせられた。と同時に、これこそが近年のヒンディー語映画が持つ最大の強みだとの持論を強くした。

 持参金問題を娯楽映画にまとめることができたのは、女性側が持つ対抗手段498Aをうまく使ったおかげであろう。持参金問題を「無力な女性」の立場から綴るのではなく、498Aという強力な武器を最大限活用(乱用)して活路を切り拓こうとする現代的な強い女性を主人公にしたことで、物語は面白味を増した。同時に、あまりに女性側に強力な権限を認め過ぎている498Aの問題提起にもなっており、持参金問題を多角的に取り上げる副次的効果もあった。何より、現代のインド人女性は泣き寝入りをやめて、徐々に不正や暴力に対して声を上げ、果敢に立ち向かうようになっており、ありがちな「無力な女性」像よりも、「Daawat-e-Ishq」の主人公グッルーのような、野心と行動力に満ちた女性像の方が現実味を感じるし、マルチプレックスに映画を観に来る観客層の共感も得られやすい。

 娯楽映画として仕上げられていながらも、持参金について取り上げた以上、50年以上前に禁止された持参金の習慣が今でも続いている現状が、物怖じなく語られていた。「持参金」は、現地語では「ダウリー」や「ダヘージ」などと言うが、これらの言葉は大っぴらに使われず、その代わり「ヘルプ」などと言葉を変えて実質的には持参金が要求される。女性自体の学歴や才能などは全く考慮されず、金額だけが縁談の成否を決める。学があり、英語も得意で、勝ち気なグッルーにとって、持参金の交渉は屈辱的な体験であった。それ故に彼女は498Aを使って世間に復讐することを決めたのだった。

 ところで、「Daawat-e-Ishq」は前述の通りラブコメということになるが、インド映画独特のジャンル分けで言う「コン(詐欺師)物」に数えてもいいだろう。インド映画には、詐欺師がカモを騙す様子を追って楽しむジャンルが昔からあり、「Daawat-e-Ishq」は恋愛映画よりもむしろそれに近い。恋愛の要素は多少取って付けたようなところがあり、この映画の最大の強みではない。グッルーが父親をけしかけてタールーの家族から大金をせしめようとする過程を楽しむのがこの映画の大きな楽しみのひとつだ。

 いろいろな数字が具体的に出て来たのも面白かった。例えば、裁判所で事務員として働くアブドゥルの月収は3万ルピー、彼が娘の持参金として支払えるギリギリの額は170万ルピー、そして劇中では最高800万ルピーの持参金を要求される。これらは概ね現実に近い数字であろう。

 近年、ヒンディー語映画界では脱ムンバイー現象が進行しており、「Daawat-e-Ishq」でもムンバイーは全く出て来ない。いくつかのシーンのロケはムンバイーで行われているものの、劇中の舞台としては、アーンドラ・プラデーシュ州(現在はテランガーナ州)の州都ハイダラーバードと、ウッタル・プラデーシュ州の州都ラクナウーの2都市のみが登場する。どちらもイスラーム教の王侯貴族文化が栄えた街である。台詞の考証にも注意が払われており、ハイダラーバード在住のグッルーはダッキニー語と呼ばれるヒンディー語/ウルドゥー語のデカン高原方言を話す一方、タールーはラクナウーのウルドゥー語を話す。両都市の観光名所も随所に登場し、雰囲気を盛り上げている。ハイダラーバードとラクナウーを舞台にしたことで、通常のヒンディー語映画にはない味が出た。

 さらに、「愛の宴」の題名通り、この映画にはインド料理がたくさん登場する。タールーがレストランの若大将という設定であるからだが、それ以外でも意図的に食事のシーンが差し込まれ、観客の味覚を刺激している。そういえば、タールーがグッルーの心を射止めた理由のひとつも、彼が作る絶品のカバーブだった。ハイダラーバードとラクナウーは共にグルメ都市としても有名であり、「Daawat-e-Ishq」はハイダラーバード料理とラクナウー料理の共演でもあった。

 パリニーティ・チョープラーはまだ5~6作品しか出演していないが、既に大女優の片鱗を見せている。現代の若者らしい演技を自然体でこなすことができるのが強みだ。今後も伸びて行くだろう。アーディティヤ・ロイ・カプールは「Aashiqui 2」などとはガラリと変わった役柄だったが、器用にこなしていた。彼も才能がある、将来が楽しみな俳優だ。この二人のケミストリーも良かった。

 サージド・ワージドによる音楽は基本的にラブソングばかりで、どれも映画に溶け込んでいた。特にタイトル曲となる「Daawat-e-Ishq」はカッワーリー風のラブソングであり、料理と恋愛がうまく掛け合わされていたし、ストーリーにもうまく組み込まれていた。「Shayarana」や「Mannat」など、他にもラブソングの佳作が多い。

 「Daawat-e-Ishq」は持参金問題を巧みに娯楽映画にまとめた作品だ。ハビーブ・ファイサル監督の腕が光るし、主演二人の演技も素晴らしかった。しかしながら、興行的には振るわなかったようだ。おそらくロマンスの要素を中途半端に入れすぎたのが原因だと思われる。それでも、深刻な社会問題を娯楽映画のフォーマットで料理して形にした点は正当に評価されるべきだと感じる。