The Lunchbox

5.0
The Lunchbox
「The Lunchbox」

 「The Lunchbox」は、インドでは2013年9月20日に公開された映画である。基本的に台詞はヒンディー語で、英語やマラーティー語の台詞もあるが、ヒンディー語映画としてしまってもいいだろう。日本公開時の邦題は「めぐり逢わせのお弁当」となっており、2014年夏にシネスイッチ銀座などで公開予定である。今回、日本での劇場公開版を試写会にて鑑賞した。

 「The Lunchbox」の監督はリテーシュ・バトラーという人物で、過去に短編映画の制作経験はあるものの、長編映画は初めてとなる。ただ、プロデューサー陣の中にアヌラーグ・カシヤプの名前があり、この映画がただの映画ではないことが分かる。現在ヒンディー語映画界で面白い動きが起こっているとすれば、それはほぼ全て彼の周辺から起こっており、彼の名前が入った映画は何を差し置いても観る価値がある。

 主演はイルファーン・カーン。現在インド随一の演技派男優であり、「Slumdog Millionaire」(2008年)や「Life of Pi」(2012年/邦題:ライフ・オブ・パイ 虎と漂流した227日)などの欧米映画にも出演しているため、国際的に最も名の知れたインド人俳優となっている。「Paan Singh Tomar」(2012年)で僕と共演した男優でもあり、その際、間近で彼の演技と対峙することになったが、俳優とはこういうものか、と唸らされた記憶がある。「めぐり逢わせのお弁当」をきっかけに日本でも有名になってくれればと思う。

 ただ、日本での売り出し方を見ると、主演扱いはどうも女優の方のようだ。ニムラト・カウルという女優が主演を務めているが、過去に有名な作品には出演していない。アヌラーグ・カシヤプ監督が制作した「Peddlers」に出演しているが、カンヌ国際映画祭で上映されたにも関わらずあまり話題にならなかったようで、インドでも一般公開されていない。

 他に注目すべきは、ナワーズッディーン・スィッディーキーが出演していることだ。長年の下積み時代を経て「Gangs of Wasseypur」(2012年)で一気にブレイクした苦労人であるが、その演技力はイルファーン・カーンと肩を並べるほど。この二人の共演は初めてではないが、ここまでガチンコの演技対決を見られるのは今のところこの作品のみなのではないかと思われる。他に、「Monsoon Wedding」(2001年)などに出演している女優リレット・ドゥベーが特別出演している。

 「The Lunchbox」は、カンヌ国際映画祭批評家週間に出品され、観客賞を受賞している。また、インドで最も権威のあるフィルムフェア賞では新人監督賞、批評家作品賞、助演男優賞(ナワーズッディーン・スィッディーキー)を受賞している。

 あらすじを書く前に、「The Lunchbox」を理解する上で必要な前知識をここで解説しておく。この映画には、ムンバイーの風物詩とも言えるダッバーワーラーが登場し、物語の中で重要な役割を果たす。ダッバーワーラーとは弁当配達人で、午前中に各家庭や食堂から弁当を受け取り、オフィスなどに届けた後、昼過ぎに弁当箱を回収し、家庭や食堂に届けるという仕事をしている人たちのことである。インドでは菜食主義者やイスラーム教徒など食に特定の禁忌を持った人々が多く、外食を嫌う傾向にあるために生まれた職業で、125年間続いている。現在5千人ほどのダッバーワーラーがムンバイーで働いており、彼らが1日に運ぶ弁当の数は20万個に及ぶと言う。驚くべきなのは、ダッバーワーラーにはロクに読み書きのできない人々が大半を占めるにも関わらず、ほとんど誤配送がないということである。その秘密は色とアルファベットと数字を組み合わせた独自の記号システムにあり、ハーヴァード大学の調査によると、誤配送の確率は実に600万分の1だと言う。ちなみに「ダッバー」とは「箱」、つまり「弁当箱」を表し、「ワーラー」は「~する人」を意味する。

 イラー(ニムラト・カウル)は、夫のラージーヴ(ナクル・ヴァイド)と娘のヤシュヴィー(ヤシュヴィー・プリート・ナーガル)と共にムンバイーのアパートに住んでいた。ラージーヴはイラーに関心がなく、いつも夜遅く帰って来て、ほとんど会話も交わさずに寝てしまう、そんな毎日だった。イラーは毎朝ダッバーワーラーを通してラージーヴに弁当を届けていたが、そのお弁当も夫は残しがちだった。イラーの良き相談役は、上階に住むデーシュパーンデー夫人だけだった。

 ある日、イラーはいつものように娘を学校に送り出し、弁当を作ってダッバーワーラーに渡した。ところがこの弁当は誤って老年の会計士サージャン・フェルナンデス(イルファーン・カーン)に届いてしまう。サージャンは妻と死別した後、孤独な生活を送っており、近所の子供たちからも怖れられている存在だった。サージャンはとある食堂からダッバーワーラーを通じて弁当を配達してもらっていた。今日の弁当は変だと思いつつも、コックが変わったのかと特に気にすることもなく、その弁当を平らげたのだった。その弁当は匂いから美味が分かるほどの絶品だった。

 イラーは、空っぽになった弁当箱が返って来たため、夫が気に入ってくれたと大喜び。ところが帰宅した夫に弁当のことを聞いてもそっけない返事で不審に思う。別の人に届いたと直感したイラーは、翌日弁当の中に手紙を潜ませてみる。サージャンはその手紙に返事を出す。こうして、見知らぬ男女が弁当を通して文通を始めるようになった。両者はそれぞれ孤独を抱えていたが、手紙を通してその孤独を満たすことができるようになった。イラーは、病気の父親や夫の浮気など、何でもサージャンに相談するようになり、サージャンはそれに対してアドバイスを与えるようになる。サージャンも自分の心の傷をポツリポツリとイラーに打ち明けるようになる。そしていつしか2人はブータンに一緒に住むことを相談し始めるようになる。イラーはとうとう彼に、一度会いたいと申し出る。待ち合わせ場所まで決め、サージャンはその場に赴いたが、イラーの前には現れなかった。彼は自分が老いたことを実感し、まだ若い彼女と顔を合わせる勇気を出せなかった。

 ところで、サージャンは早期退職を依願しており、その後任としてアスラム・シェーク(ナワーズッディーン・スィッディーキー)という若い男がやって来ていた。人付き合いの苦手なサージャンは当初彼を冷たくあしらうが、人懐っこいシェークに次第に心を開くようになる。シェークは孤児で、ドバイやサウジアラビアなどで出稼ぎをした後、このオフィスに就職していた。アスラムにはメヘルンニサーという内縁の妻がいた。彼女の父親に結婚を反対されたため、駆け落ちしたのだった。しかし、やっと結婚の許可が下りたため、今度結婚式を行うことになっていた。シェークの悩みは、孤児の彼に、結婚式に出席すべき近親者がいないことだった。シェークはサージャンにその役を頼む。

 デートの約束をすっぽかしたことで、サージャンとイラーの関係には変化が訪れていた。サージャンは、文通が楽しくなって一度は止めようと思っていた早期退職を、予定通り行うことにした。サージャンはシェークの結婚式に出席した後、隠居先であるナーシクへ向かった。サージャンと会えなかったイラーは諦めきれず、ダッバーワーラーに聞いて弁当がどこへ届くか調べ、サージャンのオフィスまで辿り着くが、そのときにはサージャンは退職した後で、サージャンの席にはシェークが座っていた。イラーはサージャンに届くとも知れない手紙をしたため始める。そのとき、サージャンはムンバイーに舞い戻っており、ダッバーワーラーに聞いてイラーの家を探し始めていた。

 インド映画らしい映画ではなかったが、匂い立つほどインドらしい映画であった。ムンバイーの街並を映し出す視線は完全にムンバイーっ子のものであるし、ダッバーワーラーというムンバイー独自の職業をうまく使って演出できている。次々に登場するインドの家庭料理が容赦なくヨダレを誘い、腹を刺激するし、登場人物が織りなす人間模様もリアルである。そして男女の仲の距離感もインド人が最も好む、触れそうで触れない、微妙かつ絶妙なものであった。さらには、インド人主婦のニッチもサッチもいかない状況や介護の問題など、割と今までの映画が見過ごして来た問題に触れており、十分深みのある物語となっていた。

 都会に特有の問題である人間関係の希薄感は、同じくムンバイーを舞台としたキラン・ラーオ監督「Dhobi Ghat」(2010年)に共通のものがあった。人と人が同じ場所を共有しているのに触れ合わない、身体的に触れ合ってはいるが心の触れ合いはない、そしてその希薄感が夫婦の間にまで浸透している、都会のそんな危機的な状況が描かれる。そしてひょんなことから1人の初老の男と1人の若い人妻が出会うことになる訳だが、それはお互いの顔が見えない、弁当箱に込められた手紙を通してであった。

 顔が見えない者同士の心温まる交流は特に新しいテーマではない。最近ではEメールやSNSを使ったコミュニケーションが主流であり、もしそういうテーマの映画を作ろうと思った場合、これらのモダンなメディアがまず念頭に浮かぶことだろう。ハリウッドではEメールを通した恋愛映画「ユー・ガット・メール」(1998年)があったし、ヒンディー語映画でも最近では「Mujhse Fraaandship Karoge」(2011年)がFacebookの偽名アカウントを通してのイマドキの恋愛を題材にしている。しかし、「The Lunchbox」は敢えて手紙という伝統的かつ古典的なメディアを選んだ。しかも弁当箱を通した文通ということで、それが通用するのはダッバーワーラーのいるムンバイーだけだ。現代の物語において、これ以上の工夫は考えられないのではないかというほどだ。時代劇であったら「The Japanese Wife」(2010年)のように手紙を用いても違和感がないが、現代に敢えて手紙を持って来るところが実にうまい。それに加えて、イラーと上階のデーシュパーンデー夫人の交流も、お互いの顔が見えない交流のひとつであった。そして、不思議なことに、顔が見えない相手の方が心を開いて話し合うことができるのである。

 このような都会に住んでいる登場人物たちは、それぞれに悩みがある。イラーの夫で不倫疑惑のあるラージーヴについてはよく分からないが、サージャン、イラー、シェーク、デーシュパーンデー夫人、そしてイラーの母親と、それぞれ重いものを抱えている。サージャンは、死んだ妻の思い出を引きずっており、毎晩、ベランダから見える隣家の楽しそうな食卓をタバコを吸いながら静かに見つめている。イラーは冷淡な夫に悩んでおり、何とか彼を振り向かせようと努力するがうまく行かない。シェークは最も前向きな性格だが、孤児のために近親者がおらず、内縁の妻との正式な結婚が悲願であった。デーシュパーンデー夫人は、15年以上昏睡状態の夫の世話をし続けている。イラーの母親も似たような境遇で、タバコの吸い過ぎで肺癌となった夫の看病に明け暮れている。そして皆共通して孤独という病を抱えているのである。

 デーシュパーンデー夫人のその後だけは描写されないが、他の登場人物の悩みは映画の中で一定の解決を見る。イラーの母親については、夫の死により義務から解放される訳だが、その解放感に罪悪感を感じるといった、複雑な感情を提示した終わり方だ。一方で、サージャン、イラー、シェークについては、孤独な者同士が出会い、お互いの孤独を埋めることで、解決へ向かう。特にシェークは、内縁の妻と晴れて結婚式を挙げることができ、花婿側からの出席者としてサージャンを呼ぶこともできた。シェークが最も幸せな存在だったと言えるだろう。

 この映画の主題ともなっている弁当箱による文通を行ったサージャンとイラーについては、解釈は一筋縄では行かない。確かに二人は文通によってお互いの孤独を嘗め合い、一時の幸せを得ることができた。だが、所詮別々な世界に住む二人であり、その幸せは長期的に続くべきものではなかった。イラーはサージャンとの顔合わせを望んだが、結果的にそれが二人の関係を終わらせることになった。さらなる幸せを求めることが許されない仲だったのだ。二人の中でブータンが理想郷として共有され、そこへ行けば全てが解決するように思われた頃もあった。しかし、それは実行に移されなかった。少なくとも劇中においては。

 エンディングの解釈は様々であろう。イラーが、既婚女性の印であるマンガルスートラ(首飾り)やチューリー(腕輪)を外し、サージャンに書いた手紙を読み上げるシーンと、サージャンがダッバーワーラーにイラーの住所を聞き出し、一緒にそこへ向かうシーンがオーバーラップする形で映画は終わる。そこに、ダッバーワーラーたちが歌う聖者トゥカーラームと聖者ギャーネーシュワルを讃える歌(バジャン)が延々と響く。これが何を意味するのか。イラーの手紙通りならば、イラーは装身具を売り払い、そのお金を元手にブータンへ行ったことになる。だが、映画の序盤であった母娘の飛び降り自殺と重なる映像が出て来るため、もしかしたらイラーは自殺したのではないかとの憶測も成り立つ。サージャンが間に合って、イラーの自殺を止めたということも考えられるし、イラーと共にブータンを目指すことになったという結末後の展開を思い描くことも可能であろう。

 トゥカーラームとギャーネーシュワルの賛歌に何かヒントが隠されているのかもしれない。「トゥカーラーム」、「ニャーノーバー」、「マウリー」という単語が繰り返されているバジャンだ。「ニャーノーバー」とは聖者ギャーネーシュワルのことで、「マウリー」とはマラーティー語で母親を意味するが、一般にバジャンではやはりギャーネーシュワルのことを指す。ギャーネーシュワルは13世紀の聖人、トゥカーラームは16-17世紀の聖人である。つまり、ダッバーワーラーたちが歌っていたのは、聖者への呼び掛けを繰り返す、念仏のような歌である。トゥカーラームとギャーネーシュワルの人生を見てみるともしかしたら答えが見つかるかもしれない。例えばトゥカーラームは2度結婚しており、最初の妻とは死別している。これはサージャンの状況と近い。一方、ギャーネーシュワルは21歳の若さで自らサマーディ(三昧)に入り、解脱、つまり死んでいる。これはイラーを思わせる。もしこの読みが正しいとしたら、矛盾した状態に入る。イラーは自殺し、サージャンは再婚することになる。つまり、やはり結末ははっきりしないということだ。ちなみにトゥカーラームやギャーネーシュワルはマハーラーシュトラ州で信仰されている聖者たちで、特にワールカリーと呼ばれるヒンドゥー教徒の一派が崇拝している。ムンバイーのダッバーワーラーたちはほとんどがワールカリーだと言う。

 「The Lunchbox」では、「老い」の問題も大きなテーマであった。サージャンがイラーとの面会を止めた大きな理由が、自分はもう若くないということを実感したからだった。自分から祖父と同じ臭いがし始めたこと、そして列車の中で席を譲られたことなどが彼にそれを気付かせるきっかけになった。彼は変わりゆくムンバイーの街並の中で、不変のものとして、郵便局などの公共施設を挙げていた。それはあたかも、それを観察しているサージャン自身も不変の事物のひとつであるかのようであった。人は誰でも、自分だけはいつまでも若いと信じているものだ。特にサージャンのように子供がいないと、時の流れに気付くのが遅れる。そしてある日突然、自分が年老いたことに気付くのである。ちなみに劇中には、サージャンの未来を予感するように、デーシュパーンデー夫人の夫、イラーの父親、そしてナーシクへ向かう列車で出会ったお爺さんなど、何人もの老人が登場する。結局、ムンバイーの街並が時の流れと共に変わって行くのと同様に、ムンバイーに住む人々も時に流されて行くのである。

 イルファーン・カーンとナワーズッディーン・スィッディーキーの演技については特に言うことはない。既に確立された俳優だからである。この二人の共演は待ち望まれていたものであったが、やはり一歩も譲らず、お互いを高め合う、素晴らしいケミストリーだった。ニムラト・カウルの演技も素晴らしかった。キャスティングに欠点は見当たらない。ただ、イルファーン・カーンのヒンディー語がうますぎたのが気になった。彼が演じたサージャン・フェルナンデスは、ゴア辺りのキリスト教徒であり、ヒンディー語があまり得意ではないという設定らしかった。文法性の一致を無視することでヒンディー語の不得意さを出していたのだが、イルファーンのヒンディー語の発音がうますぎて現実味がなかったのである。細かい点ではあるが、一応指摘しておく。

 日本で劇場一般公開されるにあたって作成されたパンフレットや邦題には多少言いたいことがある。この映画の最初の見所は、イラーが作った弁当を受け取っているのが夫のラージーヴではなく無関係のサージャンであるということがもったいぶった手法で描かれているところだ。何も知らない観客がイラーとサージャンを夫婦だと考えているところに肩すかしを食らわせている。それがパンフレットのあらすじ部分で書かれてしまっているので、この導入部が台無しになってしまっている。また、「めぐり逢わせの~」という邦題からもそれが予想されるし、少々説明的すぎる印象も受ける。題名を「ランチボックス」とシンプルにまとめ、内容を一切明かさないというのが理想だったと思うのだが、それでは客を呼び込めないのであろうか。

 「The Lunchbox」は、通常のインド映画とは全く趣きの異なった作品だ。だが、突然変異的に出現したと捉えるのは誤りである。これも多様なインド映画のひとつなのだ。そして、どの典型的インド映画よりもムンバイーを、そしてインドを、よくえぐっている。手放しで絶賛したい。このような高品質の映画が日本に紹介されるのも嬉しいことである。是非成功して欲しい。