Bol Bachchan

4.0
Bol Bachchan
「Bol Bachchan」

 今やヒンディー語映画界のアクションコメディーを牽引する存在となったローヒト・シェッティー監督。「Golmaal」シリーズの成功や「Singham」(2011年)の大ヒットにより、「稼げる監督」として引く手あまただ。ど派手なアクションとコテコテのコメディーが持ち味の監督で、最初は僕も馬鹿馬鹿しすぎて認めていなかったのだが、作品を重ねる事に娯楽性の追求がさらに増して行き、その潔さに好感が持てるようになった。今ではすっかりファンの1人になってしまった。

 ローヒト・シェッティー監督の最新作が本日(2012年7月6日)公開の「Bol Bachchan」である。ローヒト・シェッティー監督とのタッグにより、今や誉れある「100カロール・クラブ」の一員となった男優アジャイ・デーヴガンが制作と主演を務める他、アビシェーク・バッチャンが共演。題名の「Bachchan」からバッチャン親子を思い起こすのはインド映画ファンなら当然のことで、しかもアビシェーク・バッチャンが出演していることから、何かバッチャン一家の映画かと思ってしまうが、映画を観れば分かるように、これは「誓い」という意味のヒンディー語「vachan」の訛った形である。「Bol Bachan」で「口先だけの誓い」というような意味になる。しかし、もちろん「バチャン」と「バッチャン」の言葉遊びが劇中で重要な笑いのポイントとなる。

 ところで、ローヒト・シェッティー監督は2006年に公開されたコメディー映画「Golmaal」の監督であるが、「Bol Bachchan」はリシケーシュ・ムカルジー監督の古典的傑作コメディー映画「Gol Maal」(1979年)の公式リメイクだとされている。劇中でも「Gol Maal」の1シーンが使われている。

監督:ローヒト・シェッティー
制作:アジャイ・デーヴガン、ディッリン・メヘター
音楽:ヒメーシュ・レーシャミヤー、アジャイ・アトゥル
歌詞:ファルハーン・サージド、シャッビール・アハマド、スワーナンド・キルキレー、サミール
振付:チンニー・プラカーシュ、レーカー・チンニー・プラカーシュ、ラージュー・カーン、ムダッサル・カーン
出演:アジャイ・デーヴガン、アビシェーク・バッチャン、アシン、プラーチー・デーサーイー、アルチャナー・プーラン・スィン、アスラーニー、アミターブ・バッチャン(特別出演)など
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

 デリーのチャーンドニー・チョークに住むイスラーム教徒アッバース・アリー(アビシェーク・バッチャン)は、親戚との裁判の末に父親から受け継いだ家を取られ、仕事も失ってしまう。父親の親友シャーストリー(アスラーニー)に誘われ、アッバースは妹のサーニヤー(アシン)を連れてラーナクプルのマハーラージャー、プリトヴィーラージ・ラグヴァンシー(アジャイ・デーヴガン)の下で働くことを決める。シャーストリーはプリトヴィーの宮殿で30年間働いていた。また、アッバースはシャーストリーの息子ラヴィとも旧知の仲であった。ラヴィはアフラートゥン劇団を主宰する演劇人であった。

 プリトヴィーは相撲と英語が趣味の変わったマハーラージャーで、嘘が大嫌いだった。しかし、アッバースはプリトヴィーと出会う前にたまたま起こった事件により、自分の宗教を隠さなければならなくなり、ヒンドゥー教徒の名前であるアビシェーク・バッチャンを名乗ることになる。プリトヴィーはアビシェークを気に入り、「スーパーマン」(プリトヴィー英語で「スーパーバイザー」)として登用する。

 ところで、プリトヴィーは従兄弟のヴィクラーントとライバル関係にあった。プリトヴィーはラーナクプルに発電所を作ろうとしていたが、ヴィクラーントはそれを阻止しようとしていた。プリトヴィーの妹ラーディカー(プラーチー・デーサーイー)はデリーで大学に通っていたが、休みに入りラーナクプルに帰って来る。ところがヴィクラーントはラーディカーを誘拐する。プリトヴィーとアビシェークはヴィクラーントの支配する隣町へ乗り込み、ヴィクラーントとその手下をぶちのめしてラーディカーを救い出す。

 プリトヴィーはこの一件以来ますますアビシェークを信頼するようになるが、アビシェークの嘘にはボロが出始めていた。アビシェークはラムザーン(断食月)の断食中であったが、日中食事を食べない言い訳をするために、いもしない病気の母親を出してしまう。しかもプリトヴィーは母親のお見舞いをしに来ることになってしまった。このピンチを救ったのが場末の劇場でタワーイフ(踊り子)を演じるゾーラー(アルチャナー・プーラン・スィン)であった。ゾーラーはアビシェークの母親を演じて、何とかその場を凌ぐ。

 ところが、アビシェークはラムザーン終わりのイードをイードガーで祝っているところを偶然通り掛かったプリトヴィーに目撃されてしまう。アビシェークは口から出任せを言い、それは腹違いの弟でオカマ・ダンサーのアッバースだと主張する。プリトヴィーはアッバースを宮殿に呼んだだめ、アビシェークはアッバースのキャラクターを作って訪れる。プリトヴィーはアッバースをラーディカーの踊りの先生として雇用する。こうして彼はプリトヴィーの前でアビシェークとアッバースの2役をこなさなくてはならなくなった。元々彼には口髭があったが、それをそり落とし、アビシェークのときは付け髭を付け、アッバースのときは付け髭を外すことにした。

 アッバースはラーディカーに踊りを教えている内に恋に落ちてしまう。また、ラーディカーにはアビシェークとアッバースの一人二役の秘密を明かす。二人はデートを重ねるようになるが、ある日プリトヴィーにそれを目撃されてしまう。ラーディカーはアッバースのことを好きだと主張するが、プリトヴィーはアッバースのことをオカマだと信じ込んでおり、二人の仲を認めない。プリトヴィーはアビシェークに、ラーディカーのことを諦めるように脅す伝言を渡す。アビシェークは、アッバースは逃げ出したことにしておいた。だが、このとき再びラーディカーはヴィクラーントに誘拐されてしまう。プリトヴィーとアビシェークはまたもヴィクラーントを救い出すが、これをきっかけにラーディカーはアビシェークと結婚することを決める振りをする。もちろん、彼女にとってはアビシェークと結婚しようとアッバースと結婚しようと同じことであった。ただ、アビシェークは自分の結婚の前に妹のサーニヤーの結婚を優先したいと言う。そこでプリトヴィーはサーニヤーと結婚しようとする。実はプリトヴィーにはアペークシャーという恋人がいたのだが、事故で死んでしまっていた。サーニヤーはアペークシャーにそっくりで、プリトヴィーは彼女を一目見たときから気になっていたのだった。しかし、サーニヤーは彼のプロポーズを優しく断る。

 しかしながら、サーニヤーはプリトヴィーのような純朴な人間を騙し続けていることに重い罪悪感を感じるようになる。アッバースも同様であった。二人はプリトヴィーに本当のことを打ち明けようと決める。しかし、同じ頃アッバースとアビシェークが同一人物であったことがプリトヴィーにも知れてしまう。プリトヴィーはシャーストリー、アッバース、サーニヤー、母親(ゾーラー)、ラヴィなどを宮殿に呼び付ける。嘘がばれたことを悟ったアビシェークたちはバスに乗って逃げ出す。プリトヴィーは金色のベンツに乗って激しく追い掛けるが、崖下に落ちてしまう。ただ、自動車は途中で引っかかり、プリトヴィーは無事だった。助けに下りて行ったアッバースはバランスを取りながらプリトヴィーに全ての嘘を洗いざらい打ち明ける。プリトヴィーも最後には彼を許す。

 嘘が嫌いな領主に、ひょんなことから嘘の上塗りを重ね続けながらお勤めをする羽目になってしまうという古典的なコメディー・プロット、そして嘘を付いたことを反省し、改心して、本当のことを明かそうとしたときに、向こうにも嘘がばれてしまい、ピンチに陥るというインド映画お約束の展開など、ストーリーの面で目新しい点がある訳ではなかった。それでも、論理的に見てギリギリ無理のない展開を維持しながら、それを様々なコミックシーンで修飾し、お得意のど派手なアクションシーンで景気づけしており、全体的に見て非常に優れたアクションコメディー映画に仕上がっていた。最近ヒンディー語映画界では優れた大予算型コメディー映画が不足していたのだが、ローヒト・シェッティー監督がその不足を補ってくれた。大ヒットしておかしくない出来である。

 インド映画については「歌って踊って」に代表されるように、いろいろなイメージを持たれているが、その芯は意外に真面目、堅物、保守的で、時には説教臭く感じることすらある。「嘘を付かない」「正直に生きる」はインド映画がずっと主張し続けて来ているメッセージであり、嘘を中心に展開する映画は非常に多い。そして必ずと言っていいほど自主的な改心があり、嘘を打ち明け許しを乞う決断があり、そしてそれを実行する直前に相手に嘘がばれてしまうという不幸が描かれる。この「Bol Bachchan」も、正にその王道に乗っかった作品であった。

 しかし、この映画の面白さの核は、使い古されたそのプロットにはない。「Bol Bachchan」の一番の売りは台詞回しにあると言っていい。特にアジャイ・デーヴガン演じるプリトヴィーのキャラクターが最も立っており、コメディーも彼を中心に進展する。プリトヴィーは「英国人よりも英語が得意」を自称する英語フリークであるが、彼のしゃべる英語はどこかおかしく、毎回笑いを誘う。特にヒンディー語の慣用句を直訳したり、誤訳したりするのが最大の笑いポイントだ。例えば「Main Tumhe Chhaati Ka Doodh Yaad Dila Doonga(お前に母乳を思い出させてやる)」という決め台詞がある。腹を空かせた赤ん坊のようにこっぴどく泣かせてやる、みたいな意味であるが、この「Chhaati(胸)」という単語を「Chhathi(6番目の)」と誤訳し、「I will make you remember Milk No.6(お前にナンバー6のミルクを思い出させてやる)」としゃべっている。それと矛盾するのだが、クライマックスでは「Meri Chhati Aur Bhi Chaudi Ho Gai Hai(オレの胸はより広くなった=誇らしく思う)」というヒンディー語の台詞の中の「Chhati」は正しく訳しながらも「Chaudi(広い)」を「Choli(ブラウス)」と誤訳し、「My chest has become blouse(オレの胸はブラウスとなった)」としゃべっている。このようなヘンテコな英語で満ち溢れた映画となっている。そういえば「Rowdy Rathore」(2012年)でも「Don’t Angry Me」という間違った英語が決め台詞となっており、流行語となっている。このフリーダム過ぎる英語は最近のトレンドだ。

 俳優が本人役で出演するのは珍しいことではない。「Ajab Prem Ki Ghazab Kahani」(2009年)の中でサルマーン・カーンがサルマーン・カーンとして出演していたし、「Luck by Chance」(2009年)には無数の俳優が本人役で出演していた。しかし、今回アビシェーク・バッチャンはアッバース・アリー役でありながら、アビシェーク・バッチャンという偽名を名乗るという、ややこしいことをさせられている。しかもアミターブ・バッチャンが冒頭のダンスシーン「Bol Bachchan」にてアミターブ・バッチャン役で友情出演している。

 相変わらずアクションシーンも気合いが入っており、暴漢たちはまとめて吹っ飛び、自動車は宙を舞う。パンチやキックをしたときの衝撃音に混ざる独特のキーンという高音も健在だ。しかし、「Golmaal」シリーズや「Singham」に比べたら控えめだったと言ってもいいだろう。ただ、今回はよりストーリーの方に力が入っており、どうしても大味になってしまいがちなローヒト・シェッティー監督の作品の中では最も丁寧に作られていたと感じた。

 アジャイ・デーヴガンは、「Golmaal」シリーズで培った豪腕馬鹿のキャラクターをさらに推し進め、威厳ある態度で笑いを勝ち取っていた。昨年の「Singham」に引き続き、彼の現在の地位をより強固たるものとする好演であった。

 しかしながら、アビシェーク・バッチャンも負けてはいなかった。彼がここまでコミカルな表情を見せたのは「Bunty aur Babli」(2005年)以来ではなかろうか?いくつかのシーンではアジャイ・デーヴガンを圧倒してたほど。特にインターミッション直前、アッバース・アリーに扮したアビシェーク・バッチャンに扮したアッバース・アリーを演じるアビシェーク・バッチャン(ややこしい!)が見せる踊りは超爆笑だ。かつてアビシェーク・バッチャンは「踊れない男優」の代表格だったのだが、踊りでここまで笑いを取れるようになったとは、隔世の感がある。

 ヒロインは2人。アシンとプラーチー・デーサーイーである。どちらもヒンディー語映画デビュー時にヒット作を飛ばしたものの、それ以降が続いていないという点で、似たような状況にある。アシンは良くもなく悪くもなくの演技と存在感であったが、プラーチーはヒロイン女優として非常に良かった。十分日本人受けしそうなかわいさと肌の白さを誇る女優であるだけに、さらなる活躍を期待したい。

 音楽はヒメーシュ・レーシャミヤーとアジャイ・アトゥル。冒頭の「Bol Bachchan」はバッチャン親子とアジャイ・デーヴガンが一緒に踊る豪華なダンスナンバーで、もっとも目を惹く。だが、それ以外の曲についてはそれほどパワーがなかった。それでも退屈さを感じなかったのは、映画自体がよく出来ていたからであろう。

 この映画で観客の目を釘付けにするのは、背景となっている圧倒的に壮麗な王宮であろう。主にジャイプルのアーメール城でロケが行われたと予想するが、もしかしたらそれ以外のラージャスターン州の町でも撮影が行われているかもしれない。舞台となるラーナクプルはラージャスターン州の町という設定であり、登場人物もラージャスターニー語訛りの言語をしゃべる。特にプリトヴィーのしゃべる言葉は「n」の音が反り舌となるという、ラージャスターン州特有の発音である。

 「Bol Bachchan」は、売れっ子監督ローヒト・シェッティーの最新アクションコメディー。今まで通り、笑いとアクションに多大な力を注ぎ込みながら、今までの彼の作品では見られないほどしっかりまとまったストーリーとなっており、完成度が高い。とりあえずメインストリームの映画の中では、今年一番のコメディーである。