Anjaana Anjaani

3.0
Anjaana Anjaani
「Anjaana Anjaani」

 2010年10月1日、「Dabangg」(2010年)以来、久々にまともなヒンディー語映画が公開された。元々9月24日公開予定だったヒンディー語新作映画「Anjaana Anjaani」だが、アヨーディヤーのバーブリー・マスジド跡地・ラーム生誕地寺院建設予定の所有権を巡る裁判の判決日が重なったため、この映画の公開は1週間延期された(参照)。

 監督は「Salaam Namaste」(2005年)などのスィッダールト・アーナンド。現代的なラブコメを得意とする若手監督である。主演はランビール・カプールとプリヤンカー・チョープラー。初共演となる。

監督:スィッダールト・アーナンド
制作:サージド・ナーディヤードワーラー
音楽:ヴィシャール・シェーカル
歌詞:ニーリーシュ・ミシュラー、ヴィシャール・ダードラーニー、シェーカル・ラーヴジヤーニー、キャラリサ・モンテイロ、アミターブ・バッターチャーリヤ、アンヴィター・ダット、クマール、カウサル・ムニール
振付:アハマド・カーン
出演:ランビール・カプール、プリヤンカー・チョープラー、ザイド・カーン(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

 ニューヨークで友人たちと証券会社を立ち上げ、成功の道を歩んでいたアーカーシュ(ランビール・カプール)は、リーマン・ショックにより一瞬で全てを失う。会社は倒産し、友人たちとは仲違いし、家は差し押さえられた。人生に絶望したアーカーシュは、橋から河に飛び降りて自殺しようとした。そこで出会ったのがキヤーラー(プリヤンカー・チョープラー)であった。彼女も自殺をしにそこへ来ていた。しかし沿岸警備隊に見つかり飛び降り自殺に失敗する。そこでアーカーシュは走行中の自動車に身を投げ、キヤーラーはもう一度飛び降り自殺しようとして足を滑らせ、頭を打つ。

 アーカーシュが目を覚ますと病院にいた。頭を打っただけで命に別状はなかった。見舞いに来た同僚から、会社の買い手が見つかったこと、12月30日に会社譲渡のサインを行うことなどを告げられる。だが、アーカーシュはまだ死ぬ気で、こっそり病院から抜け出そうとする。ところが同じ病院にキヤーラーも入院しており、同様にもう一度自殺しようとして脱走中であった。二人は協力して自殺することにし、とりあえずキヤーラーの家へ行く。

 そこで二人はいくつか自殺に挑戦するが、どれも失敗してしまう。キヤーラーは、これは何かのサインではないか、まだ人生でやり残したことがあるから自殺に失敗するのではないか、と言うが、アーカーシュはそんなことは信じない。だが、死ぬ前に思いっきり人生を楽しむという提案には乗り、12月31日にあの橋から飛び降りて自殺すること、その前にお互いがやり残したことを一緒に遂行することを決める。このとき、12月31日まであと20日だった。

 実はアーカーシュは童貞であった。ずっと仕事で忙しく、彼女を作る暇もなかった。また、恋愛を信じており、心から愛した人に童貞を捧げようとしていた。アーカーシュはその最期の望みをキヤーラーに打ち明ける。キヤーラーは彼を、ナンパのメッカに連れて行くが、アーカーシュの真の望みは恋愛という困難な望みであったため、行きずりの人と寝ることは出来ず、とりあえずこの願いは保留となる。一方、キヤーラーは大西洋の真ん中で泳ぎたいと言い出す。そこでボートで大西洋に繰り出す。大西洋上でアーカーシュは、「毎日、その日が人生最期の日だと思って生きよう」と書いたメッセージをボトルに入れて海に投げ入れる。ところが、2人は海中に飛び込んだままボートを見失ってしまい、遭難してしまう。だが、幸運にも沿岸警備隊がやって来たため、一命を取り留めることが出来た。

 ところで、キヤーラーが自殺しようとした理由は、許嫁の裏切りであった。サンフランシスコで育ったキヤーラーは、幼馴染みのクナール(ザイド・カーン)と結婚を控えていたが、ある日偶然クナールの浮気を知ってしまう。キヤーラーはクナールと別れ、単身ニューヨークに来ていた。だが、クナールの裏切りが忘れられず、自殺をしようとしたのだった。

 ふとアーカーシュが目を覚ますと、キヤーラーがいなかった。不安に感じたアーカーシュが彼女を探すと、バスルームで毒を飲んで倒れていた。アーカーシュは急いで彼女を病院に運ぶ。キヤーラーは助かったが、医者から「何度も命を助けても自殺しようとする。もっと命を大切にするように」とたしなめられ、なるべくキヤーラーを喜ばせようと考え出す。

 次に二人はキヤーラーのオンボロ車「ブラッシュ」に乗って、ラスベガスへ向かった。二人はカジノで大いにエンジョイする。ラスベガスでアーカーシュははっきりと、キヤーラーを愛していることに気付くと同時に、キヤーラーはまだクナールを忘れ切れていないことも痛感する。そこでアーカーシュは黙って彼女をサンフランシスコへ連れて行く。そして、「僕たちは死に何度もチャンスを与えたけど、死はそれを活かせなかった。ならばなぜ人生にもう一度チャンスを与えないか?」と説き、もう一度クナールとやり直すように促す。キヤーラーはそれを受け容れ、サンフランシスコの自宅に戻り、クナールとも再会する。

 一方、アーカーシュは譲り受けた「ブラッシュ」に乗ってニューヨークに戻る。同僚の家に居候し、会社の精算に向けて作業を始める。12月30日に会社の譲渡契約も済ませた。アーカーシュは唯一親身になってくれた同僚と共にインドへ戻ってもう一旗揚げることを決める。

 ところで、キヤーラーはクナールと話し合うが、やはり以前のような関係に戻ることは無理だった。二人は友人としてとりあえず関係修復をする。また、クナールは何となくキヤーラーの変化に気付いていた。12月31日、友人の結婚式において、クナールはキヤーラーからアーカーシュのことを聞き出し、ニューヨークへ向かうべきだと勧める。迷いを捨てたキヤーラーは、急いでニューヨークへ向かい、あの橋へ走った。そこには、空港へ向かう途中のアーカーシュが念のために待っていた。二人は再会を喜ぶが、自殺する約束は曲げず、飛び降りる代わりに岸から河の中に入って行く。そこでアーカーシュはあらかじめ用意しておいたメッセージ入りボトルを浮かべる。それを発見したキヤーラーが開けると、中にはプロポーズのメッセージが入っていた。既に深いところに入り込んでおり、溺れかけていた二人だったが、またも沿岸警備隊に助けられた。隊長は、今し方結婚を決めた2人に、「結婚は自殺よりも酷いぞ」と激励(?)の言葉をかける。

 ニューヨークを主舞台としながら、出会う人はなぜかほとんどヒンディー語の話せるインド人ばかり、そのくせ変な役回り(例えばクナールの浮気相手や、キヤーラーの愛車「ブラッシュ」を盗んだ同性愛者デブなど)は白人という、インド映画によくありがちなご都合主義な映画であった。前半のテンポはかなりスローで、しかも正常な知能を持っている人なら前半を見ただけで結末が大体予想出来てしまうものであった。ほとんどアーカーシュとキヤーラーしか登場しないにも関わらず、そのアーカーシュとキヤーラーの人物描写が不十分で、感情移入の障害となった。多少下ネタに属するような笑いもあり、家族が安心して見られる作品でもなかった。このような欠点はあったものの、後半ラスベガスに旅に出てからは急にロードムービー的な展開となって閉塞感が取り払われ、面白くなった。全体的にコメディーシーンも外れがなかった。よって、若者向けラブコメ映画として十分楽しい作品だと感じた。ただでさえ若者の間で人気沸騰中のランビール・カプールが主演であるので、都市部を中心にそこそこの興行収入を上げるのではないかと予想される。

 この映画で面白かったのは、ヴァージニティーの扱いとインド回帰である。インドでは、都市部の若者を中心に価値観の革命的変化が起きつつあるものの、建前上は、結婚まで処女・童貞を守るのが美徳となっている。アーカーシュも童貞であり、死ぬ前に童貞脱却をしたいと願っていた。ただ、ニューヨークに住み、バリバリの証券マンという設定のアーカーシュが超奥手だという設定にはもう少し説明が必要だったと思う。ランビール・カプールの外見からはあまりそういう匂いがしない。かつて「Mumbai Matinee」(2003年)でラーフル・ボースが32歳童貞を演じたことがあったが、ラーフル・ボースからは、演技力なのか地なのか、そういう雰囲気が感じられ、自然に納得できた。だが、ランビール・カプールからはあまり感じない。また、アーカーシュの性格についても描写不足であった。「誰とも友達になれない」と言われるまでに独善的な性格らしいのだが、映画中からそういう印象は受けなかった。しかし、アーカーシュの童貞性よりもキヤーラーの処女性の方が面白かった。映画中ではキヤーラーの処女性については全く言及がないのだが、彼女が自殺するきっかけとなった事件のひとつに、許嫁クナールの浮気が発覚した後にバーで飲んでいてナンパされた白人と「寝た」ことであった。キヤーラーは、翌日クナールに浮気を問い詰めると同時に、自分も行きずりの人と「寝てしまった」と打ち明ける。多くは語られなかったが、それが婚約破棄の大きな原因となったことは暗示されていた。つまり、クナールはキヤーラーに自分の浮気を許すように懇願するが、キヤーラーの浮気は許せなかったのである。ただし、キヤーラーが白人と「寝た」シーンはない。それでも観客はそういうことになったのだろうと考える。ところが、後になってキヤーラーは、「実はあの夜、白人との間には何もなかった」と語り出す。そしてどうもそれは真実であった。しかしそれが打ち明けられるのは、酔ったキヤーラーがラスベガスにてアーカーシュと「寝た」後の朝であった。ここでもアーカーシュとキヤーラーが性的関係を持ったことを示す直接的なシーンはないのだが、キスまではあるため、観客もそういうことになったのかと考える。だがその直後にアーカーシュが、「昨晩は何もしなかった」と言い出すのである。つまり単に一緒に寝ただけであった。こうして二度に渡ってキヤーラーの処女性がフェイントを入れながらも守られた訳である。しかし、キヤーラーのキャラクターが曖昧でよく分からないので、観客の方もよく分からなくなって来る。登場シーンの彼女は完全に飲んだくれであり、その後も「遊び方」を知っている派手な女性であると同時に、料理や掃除が出来ない駄目な女性であることも描かれるため、そういう女性かと思ってしまうが、サンフランシスコ時代の彼女の描写は全く正反対の「深窓の令嬢」タイプであり、幼馴染みとの結婚を夢見てきた「白馬の王子様」タイプでもあり、混乱してしまう。しかし、頑なにヒロインの処女性が映画の終わりまで守られていることだけは言える。そういう意味では非常に保守的な価値観の映画だったと言えるだろう。この保守性はしばしば外国人インド映画鑑賞者に大きな混乱を与えがちなのではないかと感じる。いかにも阿婆擦れなヒロインでも、性に関する部分では当然の如く奥手というのがインド映画界の暗黙の了解となっている。ちなみに、アーカーシュが白人同性愛者に「ヴァージン」を奪われそうになるお笑いシーンもあり、とことんヴァージニティーにこだわった映画という印象を受けた。

 以上は冗談みたいな批評であるが、インドへの回帰についてはさらに真面目に受け止める必要があるだろう。NRI(在外インド人)のインド回帰を訴える映画は過去にいくつか作られて来た。それはインド本国への帰国であったり、インド文化やインド人アイデンティティーの受容だったり、様々な形で表れて来たが、インドにルーツを持つ人々のインドへの回帰であることには変わりない。古くは「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)にもその傾向が見られるが、21世紀に入ってからは「American Desi」(2001年)や「Swades」(2004年)などが代表作と言える。「Anjaana Anjaani」では、リーマンショックにより会社を倒産させ、失業したインド人証券マンがインドへ帰ってビジネスチャンスを模索する様子が描かれていた。インドへの憧憬が彼らをインドに呼び寄せたのではなく、もっと現実的な、ビジネス上のやむを得ない事情から導き出されたインド回帰である。このインド回帰はストーリーの本筋とはほとんど関係ない部分であったが、とても斬新に思えた。インド映画には、インド人をやたら海外へ送り出そうとするものと、海外に出たインド人をインドへ呼び戻そうとするものの2つが見受けられるが、「Anjaana Anjaani」は後者のニュータイプだと言える。

 ランビール・カプールとプリヤンカー・チョープラーの演技はとても良かった。二人のスクリーン上のケミストリーも抜群。特に印象に残ったのは、サンフランシスコで二人が別れるシーンだ。二人とも涙を流すが、二人ともお互いの涙を見せない。自殺をしようとした二人が主人公なので、やたらと泣くシーンが多かったのだが、前半の一部を除き、そこまで重たい映画になっていなかったのは、この二人が持って生まれた明るさのおかげだと思った。特別出演のザイド・カーンについてはちょっと場違いな雰囲気かつ場違いな演技をしていたように感じた。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。ご機嫌なラブソングが多く、サントラCDはヒットしている。タイトルソング「Anjaana Anjaani」は多少スローテンポの曲だが、「Anjaana Anjaani Ki Kahani」はより明るく、映画の雰囲気を決定している。「I Feel Good」や「Tumse Hi Tumse」も心地よいラブバラードで悪くない。だが、名曲と言えるのはラーハト・ファテー・アリー・カーンの歌う「Aas Paas Khuda」だ。自殺を多少茶化した内容になっているこの映画に、「神の意志」を感じさせ、高尚なイメージを多少なりとも付加することに貢献している。また、アーカーシュがゲイバーで踊るダンスは、ミトゥン・チャクラボルティーの出世作「Disco Dancer」(1982年)のヒット曲「I Am A Disco Dancer」である。

 「Anjaana Anjaani」は、プロモや音楽の明るいイメージからすると多少前半スローかつ重たく感じるがが、後半からグッとまとまっており、面白くなる。ロマンスの部分も結末予想可ではあるが納得できるものであるし、コメディー部分は全体的に秀逸である。多少下ネタが多めではあるが、娯楽映画ファンにはオススメできる作品である。