Shakti: The Power

3.5
Shakti: The Power
「Shakti: The Power」

 僕はもともと映画好きで、1年間で映画を100本見たこともあった。もちろん映画館で。かつて大学で「映画論」という授業があり、教授が「映画好きを自称するからには、映画を1年間で最低100本は見ないとね~。僕が若い頃は1年間で300本は見てたよ。映画は映画館で見られることを前提に作られているからね、なるべく映画館で映画を観るようにしなきゃ駄目だよ~。映画館で見た映画以外は軽々しくあ~だこ~だ論じるべきじゃないね~。」などと偉そうに言っていた。その言葉が僕の心に深く刻まれ、「映画は映画館で見るもの。1年間に100本見てこそ映画好き」というポリシーが形成された。それから1年間映画館に通い詰め、1年間映画館で映画100本を達成したわけだが、日本では映画の料金が高すぎる!単純計算するとその1年間で学生料金1,500円×100=15万円もの金を映画につぎこんだことになる。そのときは何とか100本達成したくて、観たくもない映画まで見漁って、1日に映画5本とかにも挑戦したりして、本当に狂っていた。その後、さすがにそれは馬鹿馬鹿しいことに気が付いたので、見たい映画だけ厳選して見るようになった。ところが、最近になってまたその映画熱が再燃しつつあるように思われる。対象はもちろんヒンディー語映画だ。去年もよく映画を観ていたが、今年はさらにひどい。インドでは金曜日が映画の入れ替え日なのだが、木曜日には上映されてるヒンディー語映画を全部見つくしている状態でないと気がすまなくなっている。ノルマのような感じだ。現在インドに住んでる日本人で、僕よりヒンディー語映画狂の人っているのだろうか・・・。

 今日は朝からPVRナーラーイナーへ2002年9月20日公開の新作映画「Shakti: The Power」を観に行った。「Shakti」は「力」という意味。監督はクリシュナ・ヴァムスィー。ナーナー・パーテーカル、カリシュマー・カプール、サンジャイ・カプール主演、シャールク・カーンがゲスト出演、アイシュワリヤー・ラーイとプラブ・デーヴァがダンスシーンだけ特別出演、という密かに豪華な俳優陣の映画だった。

 ナンディニー(カリシュマー・カプール)はカナダ生まれのNRI(在外インド人)。両親は幼い内に亡くなってしまい、叔父たちと共にカナダで悠々自適の生活を送っていた。やがてナンディニーは天涯孤独のインド人、シェーカル(サンジャイ・カプール)と結婚し、幸せに暮らしていた。彼らの間にはラージャーという男の子も生まれた。

  ところがある日突然、シェーカルはインドに帰ると言い出す。彼の母親が病気になったというのだ。シェーカルに家族がいたとは知らなかったナンディニーは面食らうが、とにかくラージャーも連れて一緒にインドへ赴くことになった。

  初めて訪れたインドは、カナダ育ちのナンディニーにとって非常に過酷だった。人、人、人、の大喧騒、埃、悪臭、オンボロのバス・・・。それらに閉口しながらも、ナンディニーたちはシェーカルの生まれ故郷であるラージャスターン州の片田舎へと向かっていた。

  ところがそのバスへ突然暴徒が襲い掛かる。彼らは手に手に刃物や銃を持ち、シェーカルを探し出して彼を殺そうとする。間一髪で他の武装集団が現れてシェーカルたちを救う。ナンディニーは何が何だか分からずに呆然とするしかなかった。

  シェーカルを救った武装集団は、シェーカルの家の兵隊たちだった。シェーカルの父ナルスィンハ(ナーナー・パーテーカル)は村落の首長で、要塞のようなハヴェーリー(邸宅)に住み、多くの兵士たちを養っていた。彼の力は絶大で、警察も手を出すことができない上に、州首相も彼の手下同然だった。彼は隣村の首長と争いを繰り返しており、シェーカルを襲ったのもその首長の息子だった。

  シェーカルは、生まれ故郷で繰り広げられていた、復讐が復讐を呼ぶ殺し合いに嫌気が差してカナダへ逃げて来たのだった。今回の帰郷は実に8年振りだった。両親は彼を喜んで迎え、その妻ナンディニーと息子のラージャーも歓迎する。ナンディニーは凶暴な性格のナルスィンハや、暴力の支配する村に怯えながらも、シェーカルの母親には深い愛情を感じる。

  ところがシェーカルが帰ったハヴェーリーで起こったのは、8年前と全く変わらない殺し合いの連続だった。それに加えてナルスィンハはラージャーに爆弾を投げさせて、人殺しに育てようとする。それを見てナンディニーはカナダに帰りたいと主張する。しかしシェーカルの誕生日が数日後に迫っていたことから、母親のたっての願いでそれまでは村に滞在することになった。

  それが仇となってしまった。シェーカルは外出中に敵対村落の暴徒たちに無残にも殺されてしまう。ナンディニーは耐えられなくなり、ラージャーを連れて何度も逃げ出そうとするが、失敗を繰り返した。遂にナルスィンハは彼女を捕まえて倉庫に閉じ込める。

  母親たちの助けによりナンディニーは脱出に成功し、ラージャーを連れてハヴェーリーを飛び出す。ナルスィンハはすぐに追っ手を差し向ける。今にも捕らえられそうになったナンディニーを助けたのは、流れ者の男(シャールク・カーン)だった。男は追っ手を一人で蹴散らし、ナンディニーと共に空港へ向かう。

  次に彼らを襲ってきたのは、敵対村落の首長たちだった。彼らの目的はラージャーの殺害。シェーカルが死んだ今、ラージャーだけがナルスィンハー一族の正統な跡継ぎなのだ。流れ者の男は列車にナンディニーを乗せて、一人で首長たちを殺害した後、自分も力尽きる。

  やっとのことで空港に着いたナンディニーだったが、そこにはナルスィンハ自身が武装集団を連れてやって来た。しかしハヴェーリーを出る前にナルスィンハは妻から必死の説得を受けていた。ナルスィンハは怯えるナンディニーに祝福を与え、カナダ行きを許す。「オレが死んだら、ラージャーの手で葬ってくれ」と言い残して・・・。

 まず、この映画はいろんな要素が詰まった正統派インド映画だった。踊りあり、ロマンスあり、笑いあり、悲劇あり、アクションシーンあり、暴力シーンあり、海外ロケあり、インドの田舎の描写あり、ありとあらゆる要素が詰まっており、インド映画的に非常にバランスのとれた作品だった。それに加えて社会問題にも、嫌味にならない程度に軽~く足を踏み込んでおり、ただの娯楽映画に終わらせていなかった。この辺りの匙加減が絶妙だった。カメラワークにも工夫が見られた。

 上記の通り、キャストも演技派揃いで、各人の演技力、ダンス力も素晴らしかった。残酷で凶暴な父親を演じたナーナー・パーテーカルを筆頭に、恐怖に震え、息子を守り抜くために戦うカリシュマー・カプール、無教養だが夢だけはでかくてやたら強い飲んだくれを演じたシャールク・カーンの3人が特に素晴らしかった。シャールク・カーンはゲスト出演なのに少し目立ちすぎているような感じもしたが・・・。プラブ・デーヴァやアイシュワリヤー・ラーイのダンスも映画を盛り上げていた。アイシュワリヤー・ラーイは、流れ者の男(シャールク・カーン)の夢の中に出てくるアイシュワリヤー・ラーイという、そのまんまの役だった。ラージャーを演じた子役は、少し演技力不足だったかもしれない。

 ラージャスターン州のド田舎という設定だったので、人々のしゃべる言葉もバリバリのラージャスターニー語。つまり訛りに訛ったヒンディー語と考えていい。特にナーナー・パーテーカルとシャールク・カーンのしゃべり方は年季が入っていた。おかげで聴き取るのに苦労した。他のインド人は理解できる範囲なのだろうか?あと、ロケ地はジョードプルのようだ。数箇所、見覚えのある風景を見つけることができた。映画のロケ地を後から訪問するようなマニアックなことは僕の趣味ではないが、僕が訪れた場所が映画に出て来て、それに気付くことができると嬉しい。特に普通の観光客が行かないような場所だと嬉しさ倍増だ。インドを旅行すればするほど、インド映画の楽しみも増えて行く・・・。これだからやめられない。

 音楽は「Hum Dil De Chuke Sanam」(1999年)、「Devdas」(2002年)と同じイスマーイール・ダルバール。CDを買って聞いていたときは、上記ふたつの映画の相の子のような音楽で、イスマーイールの才能の限界が知れたような気になっていた。ところが映像を伴って見てみると、やっぱりいいな、と思えた。それほど典型的インドっぽい音楽でもないのだが、映画に挿入されると、インドの雰囲気にピッタリ来る。土臭いインドにも合うし、宮殿インドにも合う。彼の音楽には、インド映画にインド風味をさらに加える不思議な力があると思う。

 さて、題名の「Shakti(力)」だが、これは何を意味しているだろうか?一見すると、暴君である父ナルスィンハの絶対的権力を表しているように見える。しかしヒンディー語で「シャクティ」と言った場合、それは一般的な「力、パワー」の意味も表すが、狭義には自然の持つ力(無常の人間や生物とは違う、永遠に存在し続ける力)か、女性の持つ力(新しい命を生み出す力)のどちらかだ。この映画では後者、女性の力を示していたと思う。ナルスィンハの支配する村では暴力による恐怖政治が行われていたが、息子を守るために超人的な力を発揮するナンディニー、そしてナンディニーとラージャーを助けるために、自らに火を放ってまで夫を説得したシェーカルの母。この2人のシャクティが、ナルスィンハの心を動かしたのだった。現にナルスィンハの家に祀られていたのは、シャクティの女神であるドゥルガーだった。

 暴力シーンが多かったのが子供や家族のためによくなかったかもしれない。また、この映画をインドについて何も知らない外国人が見たら、「インドってやっぱり怖くて汚ない国なんだな」と再認識してしまう怖れもある。ナンディニーが初めてインドにやって来るシーンなんか、全ての外国人が一斉に「そうだ、そうだ」とうなずきそうだ。それでも、日本で公開するのに足る作品に思えた。今のところ、僕の中の勝手な日本公開待機中ヒンディー語映画は「Lagaan」(2001年)、「Devdas」、そしてこの「Shakti」だ。

 ちなみに、この映画のタイトルはポスターでは「Shakti」と綴られていたのだが、映画のプリントではなぜか「Shakthi」だった。いわゆる姓名診断のような習慣がインドにもあり、綴りをわざと変えたりすることが時々ある。例えば去年「Asoka」(2001年)という映画があったが、「Ashoka」という綴りは占い師によって好ましくないとされ、わざわざ「Asoka」に変えたらしい。「Shakti」もそれと同じようなものかもしれない。それか、南インドの言語で歯音の「t」をアルファベットで書き表すときに「th」を使うので、それかもしれない。結局推測だけで詳しい理由は分からないので、一応「Shakti」と綴ることにしておいた。