Fire

4.5
Fire
「Fire」

 「Fire」は、初めて同性愛を本格的に取り上げたインド映画として歴史に名を刻むエポックメイキングな作品である。しかも、女性同士の同性愛である。インド系カナダ人映画監督ディーパー・メヘターの作品であり、彼女がこの映画の後に撮った「1947: Earth」(1998年)と「Water」(2007年)と合わせて「エレメント3部作」と呼ばれている。1996年9月6日にトロント国際映画祭でプレミア上映され、インドでは1998年11月5日に劇場一般公開された。ただし、ムンバイーやデリーなどでヒンドゥー教過激派たちによる映画館襲撃があり物議を醸したことでも知られている。

 音楽はARレヘマーン。「Bombay」(1995年/邦題:ボンベイ)で使われたメロディーが再利用されている。キャストは、ナンディター・ダース、シャバーナー・アーズミー、クルブーシャン・カルバンダー、ジャーヴェード・ジャーファリー、ランジート・チャウダリー、ヴィナイ・パータク、アヴィジート・ダット、ラーム・ゴーパール・バジャージなどである。

 スィーター(ナンディター・ダース)はデリー在住のジャティン(ジャーヴェード・ジャーファリー)と結婚し、彼の家に嫁いできた。家には、ジャティンの兄アショーク(クルブーシャン・カルバンダー)とその妻ラーダー(シャバーナー・アーズミー)、アショークとジャティンの母親ビージー、そして住み込みで働く使用人のムンドゥー(ランジート・チャウダリー)がいた。ビージーは脳卒中で倒れた後に言葉がしゃべれなくなり寝たきりの生活を送っていた。

 結婚してすぐにスィーターはジャティンにジュリーという中国人の恋人がいることを知る。ジャティンはジュリーとのデートで忙しくなかなか家に帰らなかった。アショークとラーダーの間に子供はいなかったが、その原因はラーダーに卵子がないからだった。それが分かって以降、アショークは宗教指導者スワーミージー(ラーム・ゴーパール・バジャージ)の敬虔な信徒となり、半ば宗教生活を送っていた。夫に顧みられず孤独なスィーターは、同じく孤独なラーダーとすぐに仲良くなる。

 スィーターには男装癖があった。彼女は徐々にラーダーとの関係を詰めていき、彼女が主導する形でレズ関係になる。二人の異変に気付いていたのはビージーとムンドゥーだけだった。あるとき、ムンドゥーはビージーの前でアダルトビデオを観ながらマスターベーションをしているところをラーダーに見つかり、追い出されてしまう。スワーミージーの取りなしにより許されるが、密かにラーダーを想っていたムンドゥーは、スィーターとラーダーが一線を越えていることに我慢ならなくなり、ある日それをアショークに伝える。アショークは我が目で二人がベッドで愛撫し合っているのを目撃してしまう。

 スィーターはすぐに家を出て行く。ラーダーは家に残ったが、アショークと言い合いになり、サーリーに火が付く。アショークは彼女が危険な状態になっても無視し、ビージーと共にどこかへ行ってしまう。ラーダーは命からがら家を抜け出し、スィーターの待つニザームッディーン廟へ行く。

 「Fire」は確かに2人の女性主人公スィーターとラーダーがレズ関係になる筋書きの、LGBTQ映画の一種である。だが、本作は単に同性愛を面白おかしく取り上げただけの作品ではない。むしろ、女性の性欲という、インドではさらにタブーな領域に踏み込んでおり、その上で通り道として同性同士の情事に欲望のはけ口が求められたのであり、レズビアンは映画の本質ではない。題名の「Fire」も、第一には「欲望」のメタファーだと捉えるべきである。

 スィーターとラーダーは、おそらく10歳以上の年齢差がある設定であるが、どちらかといえば若いスィーターの方がレズ行為を主導する立場にあった。スィーターには男装癖があったようで、もしかしたら昔から内に男性的な性的指向を抱えていたのかもしれない。確かにスィーターもラーダーも夫との関係で悩んでおり、それぞれに欲望のはけ口を求めていたが、先にそれを自覚し、相手に対して行動に移すのはスィーターの方である。そしてラーダーはスィーターに促される形で、その新しい世界に恐る恐る足を踏み入れていた。その新しい世界は、ラーダーの見る夢または追憶の中で、「海」とも表現されていた。彼女はスィーターと出会ったことで、今まで一目見たいと切望していた「海」を見ることができたのである。

 スィーターの夫ジャティンは、結婚前から付き合いのあった中国人女性ジュリーと関係を続けており、スィーターの前でもそれを隠そうとしなかった。スィーターも夫がジュリーと夜な夜なデートしていることを黙認していた。おそらくスィーターにとってジャティンはアレンジド・マリッジの相手であり、まだ愛着も湧いていなかったのだろう。夫が外で別の女性と会っていることにも大して無関心だったが、彼女は欲望を抱えることになった。

 ラーダーは不妊症であり、子供が産めなかった。夫のアショークはそれを理由に彼女と離婚しようとしたりはしていなかったが、宗教家にのめり込み、出家者のような禁欲生活を志向するようになる。アショークは必死に自身の性欲を押さえ込もうとするが、ラーダーの性欲については無関心だった。

 それぞれの夫に欲求不満を抱えたスィーターとラーダーが出会い、接近する中で、スィーターの主導により徐々に肉体の接触が始まる。二人は、寝たきりのビージーをそっちのけで外出するようになり、やがてお互いの身体をむさぼり合うようになる。

 スィーターとラーダーが直面した問題は、決して個人的なものとは描かれていなかった。外に女を作っているジャティンのような夫や、何だかよく分からないものにのめり込んでいるアショークのような夫に悩まされている女性も世の中にはいるかもしれないが、「Fire」が描き出そうとしていたのは、そんな一家庭の矮小化された問題ではなく、家父長制というより広いシステムの中で抑圧され続けてきた女性の欲望もしくは女性の存在である。

 映画の中では、「ラーマーヤナ」でよく物議を醸すアグニパリークシャー(火の試練)が何度も言及される。羅刹王ラーヴァナに誘拐されたスィーター姫をラーマ王子は助け出すが、スィーター姫は貞操を疑われ、身の潔白を証明するために火の中に飛び込むのである。もし潔白ならばスィーター姫は燃えないとのことだった。火の神アグニはスィーター姫の潔白の証人となり、火の中にあっても彼女を燃やさなかった。こうして貞操を証明したスィーター姫だったが、なぜ女性だけこのような試練を受けなければならないのだろうか。インド社会における男尊女卑を象徴するエピソードとしてこのアグニパリークシャーはさまざまな文学、演劇、映画などで参照される。映画の題名「Fire」には、インドの女性が生きていく中でしばしば受けることになるこの不公平なアグニパリークシャーの意味合いも含まれているだろう。

 ただ、「Fire」の中でより試練を経験しているのは、スィーターではなくラーダーの方だ。スィーターもラーダーもインド神話に登場する女性の名前である。考えてみるとそれぞれの性格は入れ替わっている。「Fire」のスィーターは、インド神話に登場するクリシュナの恋人で奔放なラーダーに近いし(参照)、「Fire」のラーダーは、ラーマ王子に常に付き従う良妻の鑑スィーターに近い。

 スィーターとラーダーが最後に待ち合わせた場所はニザームッディーン廟であった。13-14世紀のデリーに生きた聖者ニザームッディーン・アウリヤーを祀るニザームッディ-ン廟はデリー最大のパワースポットである。ニザームッディーン廟で願ったことは何でもかなうと信じられており、宗教を問わず参拝客が訪れる。ニザームッディーンは、愛弟子のアミール・クスローと同性愛的な関係にあったともいわれており、それゆえにスィーターとラーダーの再会の場として設定されたのかもしれない。ただし、「Fire」で「ニザームッディーン廟」として出て来る場所は、実はニザームッディーン廟ではなく、その後継者となるナスィールッディーン・チラーグ・デヘルヴィーの聖廟であり、同じデリーのチラーグ・ディッリーに位置している。

 「Fire」公開当時、シャバーナー・アーズミーはパラレル映画運動を代表する女優として既に有名だった。躊躇しながらもレズビアンという新しい世界に足を踏み入れていく中年女性の冒険をしっかりと演じていた。一方のナンディター・ダースは、それまでいくつかの映画に出演していたものの、「Fire」は大抜擢であり、シャバーナーとのキスも辞さないその大胆な演技によって彼女の名前は世界中に響き渡ることになった。映画中にはヌードシーンがあり、乳首が露出しているが、それは代役のものであり、彼女自身の身体ではないとされている。

 「Fire」は、女性の性欲を主題とし、レズビアンを本格的に取り上げた初のインド映画として、インド映画史上とても重要な作品である。シャバーナー・アーズミーとナンディター・ダースという2世代の実力派女優が共演し、しかも情事を繰り広げるという点だけでも目を引くが、ディーパー・メヘター監督が切り込もうとしているのはインド社会のもっと深い闇である。必見の映画だ。