Mirch Masala

4.5
Mirch Masala
「Mirch Masala」

 1987年2月13日公開の「Mirch Masala(唐辛子粉)」は、ヒンディー語映画界において、メインストリームの豪華絢爛なマサーラー映画への対立軸として1970年代から80年代に掛けて盛り上がったパラレルシネマ運動の中で作られた作品のひとつである。ハワイ国際映画祭やモスクワ国際映画祭で受賞するなど、国際的に高い評価を獲得した。

 監督は、グジャラーティー語映画「Bhavni Bhavai」(1980年)で一躍脚光を浴びたケータン・メヘター。主演はナスィールッディーン・シャーとスミター・パーティル。二人とも撮影当時パラレルシネマの寵児であった。ただ、スミターは1986年に31歳で夭逝しており、本作は彼女の死後に公開され、遺作の一本となった。

 他に、ラージ・バッバル、オーム・プリー、スレーシュ・オベロイ、ディープティー・ナヴァル、ベンジャミン・ギーラーニー、パレーシュ・ラーワル、アモール・グプテー、ディーナー・パータク、ラトナー・パータク・シャー、スプリヤー・パータク、モーハン・ゴーカレー、ラーム・ゴーパール・バジャージなどが出演している。そうそうたる顔ぶれである。

 ちなみに、ラージ・バッバルとスミター・パーティル、ナスィールッディーン・シャーとラトナー・パータク・シャーは夫婦であり、ディーナー・パータクはラトナー・パータクとスプリヤー・パータクの母親である。

 英領時代、インド西部の地方に赴任した徴税官(ナスィールッディーン・シャー)は、とある村に住む気丈な女性ソーンバーイー(スミター・パーティル)に目を付けた。ソーンバーイーにはシャンカル(ラージ・バッバル)という夫がいたが、二人の間に子供はいなかった。シャンカルは鉄道に就職が決まり町へ行ってしまった。ソーンバーイーは村に一人で暮らしていた。徴税官は何度もソーンバーイーを手込めにしようとするがなかなかうまくいかない。とうとう直接手を出そうとするが、ソーンバーイーは彼に平手打ちを喰らわした。

 怒った徴税官は部下を差し向け、逃げるソーンバーイーを追わせる。ソーンバーイーが逃げ込んだのは、ジーヴァン・タークル(ラーム・ゴーパール・バジャージ)が村で運営する唐辛子粉工場であった。工場の門番アブー・ミヤーン(オーム・プリー)は門を閉め、徴税官の部下たちを閉め出す。

 徴税官は村長(スレーシュ・オベロイ)を呼び出し、ソーンバーイーを説得するように命じる。村長はパンチャーヤト(村落会議)を開き対応を協議する。村の教師(ベンジャミン・ギーラーニー)は、ここでソーンバーイーを差し出したら徴税官の欲望はますます歯止めが掛からなくなると警鐘を鳴らすが、大半の村人たちは村の安全を優先し、ソーンバーイーには犠牲になってもらう方向に傾く。だが、村長の説得にもアブー・ミヤーンやソーンバーイーは応じず、工場の扉は開かれなかった。

 村長の妻サラスワティー(ディープティー・ナヴァル)は村の女性たちを集め、村長の決定に抗議するが、村長は彼女たちを力でねじ伏せる。工場に閉じこめられた女性たちの中にも、徴税官と望んで一晩を過ごしたパッラヴィー(ラトナー・パータク・シャー)など、ソーンバーイーが徴税官のところへ行けばいいと言う者もいた。

 とうとう堪忍袋の緒が切れた徴税官は部下を引き連れて工場までやって来て、10を数える。アブー・ミヤーンは開門せず、力尽くで扉が破られる。アブー・ミヤーンは銃を撃って応戦するが、徴税官の部下たちによって射殺される。徴税官は工場の中に入って来るが、女性たちが唐辛子粉を彼に浴びせかける。

 映画の大半では、僻地の村に巣食う封建制度の支配構造が描かれる。村の郊外に駐屯した徴税官は、最新機器であるレコードプレーヤーを持ち込み音楽をたしなんでおり、一見すると文化的な人間に見えるが、本性は横暴かつ野蛮であり、目下の者には容赦なかった。政府の権力を傘にして村人たちに対しても好き勝手をしていた。そんな彼が村に住む、美しく気の強い女性ソーンバーイーに目を付けたところから物語が始まる。

 かといって彼だけが悪人というわけではない。村をまとめ役であるはずの村長もしっかりと封建制度の中で自分勝手な行動をしている。サラスワティーという妻がありながら夜は妾の家で過ごし、悪びれもしない。先進的な考えを持つサラスワティーは娘を学校に送ろうとするが、村長は怒って娘を学校から連れ戻す。女性に教育は必要ないというのが村長の考えであり、娘が学校へ行くなどもってのほかだった。ソーンバーイーが徴税官の欲望の対象になり窮地に陥っても、彼女を救おうとはせず、事なかれ主義を貫いていた。映画の主題は女性問題ではなかったが、女性の地位の低さも随所で垣間見えた。サラスワティーが村の女性たちを集めて村長の決定に抗議するが、それも一瞬で蹴散らされる。

 その中で一人不正に歯向かったのはソーンバーイーであった。徴税官の邪な誘いを断ったばかりか、彼に平手打ちを喰らわす。彼女の勇気ある行動は、唐辛子粉工場の女性たちをも奮い立たせ、最後は一致団結して徴税官に手痛い一撃を喰らわせる。唐辛子粉工場の労働者らしく、彼女たちが武器にしたのは唐辛子粉であった。パラレルシネマでは、虐げられてきた人々が最後に牙をむく姿がよく描かれるが、「Mirch Masala」のラストシーンもよく記憶されている。

 「Mirch Masala」が優れているのは、単にサバルタン(従属的社会集団)の反逆を肯定的に描いた点のみならず、支配者が権力と暴力をちらつかせて理不尽な圧力を掛けてきたときに、被支配者の集団心理がどのように動くかを克明に追った点である。村長も決して最初から徴税官の命令に盲従したわけではない。彼は村や村人の尊厳を守る責務を十分に認識していた。話し合いで解決しようとする努力も見せた。だが、それでも効果がないと分かると、村全体を守るために一人を犠牲にせざるをえないという結論に達するのである。村人の中には、支配者の小さな要求を聞き入れることが後々どれほど大きなトラブルを招くかよく理解している者もいた。反対の声を上げるなら、まだ村に大した被害が出ていない今だった。だが、「平和」と「自己犠牲」という美しい言葉を臆病さと偽善の隠れ蓑にし、もっとも立場の弱い者の犠牲を集団で強いて社会の秩序を守っていこうとする集団心理が徐々に人々を支配していくのである。

 唐辛子粉工場に立て籠もった女性たちも決して一枚岩ではなかった。長老的な女性(ディーナー・パータク)や、尻軽女的に描かれていたパッラヴィーは、危機が迫る中、ソーンバーイーの犠牲を強いる発言をするようになっていた。だが、門番のアブー・ミヤーンは一貫して不正は不正だと主張して徹底抗戦の構えであったし、一時は外に出て行こうとするソーンバーイーを止めもしていた。そして、工場内で臨月の女性が女児を生んだことで空気が変わり、唐辛子粉という武器を使って徴税官に反撃するのだった。

 題名にもなっている唐辛子粉は、いくつかの事象を象徴しているといえる。まずはその色だ。赤は共産主義の色であり、左翼的なイデオロギーが支配的だったパラレルシネマの精神を象徴している。唐辛子粉は、唐辛子を石臼で製粉して作られる。石臼でつぶされる唐辛子は、虐げられた貧しい人々の象徴だ。そしてその辛さは、虐げられた者のみが経験した人生の痛みである。さらに、唐辛子粉が舞う中で目を見開いて徴税官を凝視するソーンバーイーの姿を見て、原始の血生臭さをもっともよく残したカーリー女神を想起しないインド人はいないだろう。

 パラレルシネマはマサーラー映画へのアンチテーゼとして生まれたリアリズム映画の運動だが、「Mirch Masala」にはインド文明が大切に育んできた歌と踊りの伝統が息づいており、決してマサーラー映画の対局にある映画ではないと感じた。ラージャスターン地方やグジャラート地方の民謡や民俗舞踊が効果的に織り込まれ、郷愁をかき立てた。

 俳優たちの演技も素晴らしい。スミター・パーティル、ナスィールッディーン・シャー、オーム・プリーなど、一級の俳優たちの一級の演技を楽しむことができる。端役ではあったものの、パレーシュ・ラーワルやラトナー・パータク・シャーなどもピンポイントで迫真の演技をしていた。

 撮影監督ジャハーンギール・チャウダリーの手による映像も素晴らしく、唐辛子粉工場の小さな通用門から差し込む朝日など、まるで絵画のような、ハッとする映像がいくつもあった。

 「Mirch Masala」は、パラレルシネマ運動から生まれた数ある傑作の一本である。リアルなロケーションで撮影されたリアリズム映画で、虐げられた者が追いつめられた末に起こす反逆が描かれる。それと同時にインド西部の郷愁あふれる音楽や舞踊がストーリーを盛り上げており、これは「インド映画」だと胸を張れる土着性もある。必見の映画である。