インド人の10代くらいの若者の間で、カリーナー・カプールはまるで一昔前の「モーニング娘。」的な熱狂的人気を誇っているが、日本人インド映画ファンの間では、割と彼女に対して冷めた感情を持っている人が多いように思われる。見た目通りのわがまま娘であることや、顔がでかくて美人というより変人顔であることなどが原因だろう。しかし僕は割とカリーナー好きで、彼女の出演する映画は必ずチェックしている。特に彼女の登場シーンが毎回毎回笑わせてくれるので、いつも期待している。「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)の彼女の登場シーンは傑作である。彼女にはこのまま大スターとコマーシャリズムの王道を歩んで行ってもらいたいと思っている。
一方、ラーフル・ボースという男優がいる。ラーフルは2002年の最高傑作映画「Mr. and Mrs. Iyer」で主演を務めた男優で、その他にも質の高いヒングリッシュ映画に出演している。僕がもっとも注目している男優である。最近少しナンパなヒンディー語映画に出演するようになっており、個人的に彼の将来を危ぶんでいる。彼には是非このままミスター・ヒングリッシュ映画として、硬派な路線を歩んで行ってもらいたいと思っている。
まるで全く別の路線を進んでいたと思われるカリーナー・カプールとラーフル・ボースだが、何を間違ったか、その二人の共演する映画が登場した。2004年1月9日公開の「Chameli」である。僕はてっきり、この映画も典型的カリーナー映画で、彼女のアイドル振りが遺憾なく発揮される娯楽映画かと思った。だから、カリーナーとラーフルの共演は、つまりラーフルの商業主義への迎合と受け止め、僕は彼の評価を一段階下げることまで考えながら、映画館に足を運んだのだった。
しかし、映画開始から数分で、僕の予想がいい意味で裏切られたのを感じた。ラーフルが商業主義映画に出演したのではなく、なんとあのカリーナーが社会派映画の世界に果敢にも挑戦したのだった。はっきり言って新年早々すごい映画が登場したと思った。監督は「Joggers’ Park」(2003年)、「Mumbai Matinee」(2003年)、「Ek Din 24 Ghante」(2003年)など、個性的映画を撮ったアナント・バーラーニーだったが、撮影中に急死したようで(それを聞いたときは非常にショックだった。若く才能のある監督だと思っていたのだが!)、その後を「Calcutta Mail」(2003年)のスディール・ミシュラーが引き継いだようだ。
ムンバイーに住む金融コンサルタントのアマン(ラーフル・ボース)は、最愛の妻を交通事故で亡くし、その悲しい思い出から抜け出せないでいた。ある大雨の日、彼の自動車がエンストしてしまい、雨宿りをせざるをえなくなった。そこで出会ったのが、その界隈を縄張りにしていた売春婦チャメーリー(カリーナー・カプール)だった。最初アマンはチャメーリーと話そうともしなかったが、彼女のやたら達観した言葉を聞いている内に、彼女に心を開くようになる。彼女の口癖は「世界はこんなだからさ」だった。チャメーリーはヒジュラー(いわゆるニューハーフ)のハスィーナーと、若者ラージャーとの駆け落ちを助けて、「愛があればいいじゃないかい」と言う。 チャメーリーはアマンに身の上話を聞かせる。「あたいはガルワールに住んでたんだよ、とっても大きな家だったさ、でも父さんが病気になってね、叔父さんに無理矢理ムンバイーに連れてこさせられて、売春宿に入れられたんだ。」その話を聞いてアマンは心を痛めるが、チャメーリーは急に笑い出し、「ハッハッハ、全部嘘だよ、この話を聞かせれば男は500ルピー多めに払ってくれるのさ」と言う。その後、チャメーリーは「ある晩、姉さんと一緒に寝てたら、母さんの悲鳴が聞こえたのさ。誰かが母さんを連れ去ったんだ。その後どうなったのか、母さんは二度と帰って来なかったよ」と語り、正直なアマンはまた心を痛めるが、「これも嘘だよ。この話を聞かせれば1,000ルピーアップさ」と言う。 チャメーリーは売春宿の総元締めのナーヤクや、マフィアのウスマーンなどと関わっており、多額の借金を抱えていた。それを聞いたアマンは、代わりにウスマーンに3万ルピーを払うが、話がもつれたことによりもみ合いになり、アマンは誤ってウスマーンをナイフで刺してしまう。アマンとチャメーリーは警察に連行される。警察もマフィアと変わらないくらい腐敗していたが、アマンは友人のコネクションを使って何とか釈放してもらう。ナーヤクや入院中のウスマーンとも警察に話をつけてもらって、チャメーリーを解放してもらう。しかし、その過程でアマンは、チャメーリーが語った嘘の身の上話が全て真実だったことを知る。 いつの間にか雨は止み、夜が明けようとしていた。チャメーリーはアマンに「実際はどうであれ、あんたは売春婦と一晩過ごしたことになるね。奥さんが知ったら怒るだろうね。いいかい、二度と私の世界に来るんじゃないよ」と言って別れる。 家に帰ったアマンは、今まで悲しい思い出に触れるのが嫌でしまい込んでいた、死んだ妻の写真を取り出す。「世界はこんなだからさ」というチャメーリーの言葉が、アマンに過去と向き合う力を与えたのだった。妻が死んで以来連絡が途絶えていた、妻の父とも電話をすることができた。そして「愛があればいいじゃないかい」というチャメーリーの言葉を思い出しながら、またチャメーリーの元を訪れるのだった。
ラーフル・ボースの演技の素晴らしさは再三語っているので言うまでもないが、この映画で驚いたのは、カリーナー・カプールの演技である。彼女にこんな演技力があったとは思ってもみなかった。売春婦の役というのも驚きである。「プリティ・ウーマン」(1990年)のジュリア・ロバーツのような、理想化された売春婦像ではない。ムンバイーの売春街に住む、最悪に汚ない売春婦である。映画中、チャメーリーも言っている。「あれ旦那、チャンドラムキーみたいな売春婦を想像してたかもしんないけど、実際の売春婦ってのはこんななんだよ。」なんと彼女の着ているけばけばしい衣装は、本物の売春婦が着ているものと同じで、たった250ルピーほどらしい。タバコもプカプカ吸っている。カリーナーのようなアイドル女優がこんな役に挑戦するとは、全くの驚きであり、しかも素晴らしい演技で二重の驚きだった。これは、「Devdas」(2002年)での馬鹿馬鹿しいほど豪華絢爛な売春婦像への、カリーナー・カプールからの挑戦状とも言える。実際の彼女がどんな立ち振る舞いで、どんな話し方をしているのか知らないが、売春婦役の彼女は、まるでそれが地であるかのような、迫真の演技だった。
映画の前半は、アマンが雨宿りのために駆け込んだ、商店街の軒先のみを舞台に展開される。そこへチャメーリーを取り巻く各種の登場人物がやって来て、チャメーリーのキャラクターが次第に浮き彫りにされていく。特に印象的なのは、コーヒー売りの少年ジョンである。チャメーリーは売春街でコーヒーを売り歩くジョンを実の弟のようにかわいがっており、ジョンが裏社会に足を踏み入れないように、また裏社会から大きく羽ばたけるようにサポートしていた。また、ヒジュラーのハスィーナーと、政治家の息子のラージャーとの恋愛も、チャメーリーの心の優しさをチラッと見せてくれる。代わる代わる登場人物がやって来る前半は舞台劇のようで、多分この映画は何かの舞台劇の脚本を元に作られたのではないか、と思われた。
後半になると、アマンが次第にチャメーリーの住む世界に深入りするようになり、泥沼にはまっていく。マフィアのウスマーンの追っ手から逃れ、タクシーを拾うことができ、一旦アマンはチャメーリーと別れた。だが、タクシーの運転手が「あの女の命は長くないだろうよ」と呟いたことにより、アマンは取って返してチャメーリーの借金を肩代わりするのだった。
映画冒頭から、アマンは憂鬱な表情を見せているが、その原因が何なのか明かされない。断片的に過去の映像が流され、彼の妻の姿が映される(妻の役はリンキー・カンナーである)。最後の最後で、妻は既に死んだことが明らかにされる。妻が産気づき、アマンは自動車を走らせて病院に急いでいたのだが、そのとき交通事故に遭って、妻と、生まれようとしていた子供を失ってしまったのだった。彼はその責任を自分一人に押し付け、孤独な悲しみに陥っていたのだった。その悲しみから救い出してくれたのが、悲しい過去を持ちながらもふてぶてしく生きているチャメーリーの哲学だった。
特にチャメーリーの話す言葉は、スラングがかなり入っているので、教科書的ヒンディー語の知識だけでは聴き取りが難しいだろう。しかし、悪口の勉強にはなる。ムンバイヤー・ヒンディー特有の「アパン(自分を指して使う言葉)」という言葉も使われている。放送禁止用語も相当セリフに入っているようで、「ピー」という音が入ったり、急に嵐や雷の音が大きくなったりして聞こえない部分がある。
この映画は、今までカリーナー・カプールを馬鹿にしていた人々に是非観てもらいたい。また、「Mr. and Mrs. Iyer」でラーフル・ボースのファンになった人(いるのかな?)にも絶対にオススメの映画である。カリーナー・カプールの生の歌声を聞くことができるのも、けっこう貴重かもしれない(相当音痴である)。ちなみに「チャメーリー」とはジャスミンのことである。