現代ではほとんど使われなくなってしまった用語だが、インド映画史をひもとくと、「パラレル映画(Parallel Cinema)」と呼ばれる映画カテゴリーが一時的に隆盛を極めたことが分かる。これは、メインストリームの逃避主義的・商業主義的な娯楽映画の対立軸として設定された概念で、社会の現実や人間の内面をリアルに描いたリアリズム重視の社会派映画や実験的な芸術映画の数々を指し、ある種の芸術運動でもあった。国際的な映画史上の用語に合わせて「ニューウェーブ」「ニューシネマ」のような言い方をされることもあるが、インドでは「パラレル映画」という用語の方が一般的だ。「パラレル」とは、大衆から熱狂的な支持を受けている商業主義映画とは一線を画した、インテリ層向けの「もうひとつのインド映画」といった意味合いを持つ。ただ、大衆娯楽映画とパラレル映画は完全に「パラレル(並行)」、つまり相互不干渉ではなく、むしろ相互に積極的に影響を与え合ってきた。パラレル映画自体は既に廃れてしまったが、その理念は残り、現代のインド映画にも少なからず影響を与えている。
パラレル映画の勃興
一般的に「パラレル映画」といった場合、「広義のパラレル映画」と「狭義のパラレル映画」に大別される。
「広義のパラレル映画」とは、1950年代のカルカッタを起点とし、「Do Bigha Zamin」(1953年)のビマル・ロイ監督や「Pather Panchali」(1955年/邦題:大地のうた)のサティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)監督に代表されるような、自発的に起こったリアリズム映画志向の潮流を指す。ラーイ監督がヴィットリオ・デ・シーカ監督の伊映画「自転車泥棒」(1948年)やジャン・ルノワール監督の仏映画「河」(1951年)に多大な影響を受けたことは有名な話だが、この潮流に含まれるインドの映画監督たちは一様に、海外のリアリズム映画に触発されていた。

映画という技術はその発明以来、製作や興行のためにある程度の資本を必要としていた。しかも1930年代にトーキー映画が普及し、映像に音声が載せられるようになると、さらに多額の資本と高度な技術を要するようになった。インドの娯楽映画産業はインド独立前に既に巨大化していたが、独立後も引き続き、大手スタジオが大資本を投じて映画を作っており、一般人の参入は不可能のように見えていた。映画の内容についても、投資金を回収するために商業的な成功を第一にした大衆向けの単純明快なストーリーが主流だった。
デ・シーカ監督やルノワール監督の作品は、大規模なセットがなくても、職業俳優を起用しなくても、映画を作ることができ、また、低予算で映画が完成すれば巨額の興行収入がなくても赤字を回避できるということを示し、「持たざる者」が映画の世界に飛び込む勇気を与えてくれたのである。
よって、1950年代から既に「パラレル映画」の萌芽が見られていたのだが、政府が関与する形で本格的に「パラレル映画」が運動として顕在化したのが1960年代以降だった。これを「狭義のパラレル映画」と定義している。「狭義のパラレル映画」の勃興には、独立インドの初代首相ジャワーハルラール・ネルーの展望と、彼が主導した政策が大きく関与している。
今でこそインドは「世界一の映画大国」と見なされているが、インド社会は必ずしも映画を好意的に受け入れて来なかった。たとえば、「インド独立の父」マハートマー・ガーンディーは、映画を「社会悪」としか見ておらず、生涯で鑑賞した映画も「ラーマーヤナ」を題材にした宗教映画「Ram Rajya」(1943年)1本のみだったといわれている。映画に対する大半のインテリ層の見方もガーンディーのものとそう変わらず、映画は「教養のない者の野蛮な娯楽」と考えられていた。実は、しつけの一環として子供に対して「映画禁止」を強いている家庭は、現代まで少なからず存在する。「Last Film Show」(2021年/邦題:エンドロールのつづき)の主人公サマイの家庭もそんな教育方針だった。
だが、ネルー首相は師であるガーンディーに比べて映画に非常に理解があり、「映画は人々の生活に多大な影響を与え、人々を教育する力を持っている」と信じていた。そして、単にセンセーショナルなものやメロドラマ的なもの、または犯罪を助長するようなものを排除し、生活に芸術的・審美的な価値をもたらすような良質な映画を奨励すれば、映画産業が国家建設の支えになるという明確なビジョンを持っていた。
ネルー首相のこの理念はいくつかの具体的な形となって表れた。1952年にはインド国際映画祭(IFFI)が創設され、良質な映画が顕彰されるようになった。1960年には映画融資公社(FFC)が設立され、映画製作を国が財政的に支援する体制が整えられた。FFCは現在の国家映画開発公社(NFDC)である。また、同じ1960年にはプネーに国立のインド映画テレビ学校(FTII)が設立され、公的に映画やテレビの分野で活躍する人材の育成が始まった。
ここで注目すべきは、ネルー首相が「排除すべき」と問題視していた種類の映画とは、間違いなくメインストリームの大衆娯楽映画を指していたことだ。首相肝いりで始まった映画振興政策は、決して現行の映画産業をそのまま発展させることを目的としていなかった。むしろ、現行の映画産業とは別の映画産業を新たに創出し、それを強化することで、結果的に大衆娯楽映画をインド社会から駆逐することを目的としていた。
FFCは設立当初、財政規律を重視しており、確実に投資が回収できるように、ラーイ監督に代表される実績のある監督への融資を優先していたが、1968年から方針転換し、低予算オフビート映画の製作を希望する若手の映画メーカーたちにも積極的に貸し付けを行うようになった。また、FTIIで教えられていたのは専ら西洋の映画理論や技術で、リアリズム重視であった。「映画は社会変革の道具である」という理念を掲げていたリトウィク・ガタク監督のような筋金入りのマルクス主義者が教授陣にいて影響力を行使したことで、FTIIでは左派的な学生運動も盛んになった。その結果、反体制的なイデオロギーを持ったリアリズム重視の映画を志向する人材が育成された。こうして、FTIIで西洋的な方法論を学び、左派的なイデオロギーに染まった人材が次々に輩出されるようになり、彼らがFFCから資金援助を受け、低予算だが高品質な映画作りをこぞって開始したのである。これが「狭義のパラレル映画」になる。
つまり、「広義のパラレル映画」が民間発の自発的なリアリズム映画志向の高まりであったとするならば、「狭義のパラレル映画」は官製のリアリズム映画運動であった。ただ、ラーイ監督の「Pather Panchali」がカンヌ映画祭で受賞するなど、1950年代にインド映画の国際的な評価が高まったことも1960年代以降のパラレル映画の盛り上がりと密接な関係を持っているため、これらを完全に切り離して考えるのは適切ではない。あくまで政府の関与が入ったことを機に、既に萌芽を始めていたパラレル映画運動が1960年代末に大きく開花したと見なすべきである。
しかしながら、「広義のパラレル映画」と「狭義のパラレル映画」の間には、大きな断絶も感じられる。それは、政治的な思想信条の有無だ。FTIIでマルクス主義文学やネオレアリズモ、ヌーヴェルヴァーグを浴びるように学んだ若者たちにとって、映画とはインド社会の不都合な真実を告発するための武器だった。彼らは、国家の近代化政策の失敗、農村の封建的な搾取、都市の労働階級の困窮などを好んで映画の題材にした。皮肉なのは、彼らが取り組んだ政府批判的な映画作りを支えたのが、政府機関であるFFCまたはNFDCから提供された資金だったことだ。
さらに大きな皮肉は、パラレル映画が対立軸に設定していた大衆娯楽映画の方が、政府から資金援助を受けられないばかりか、むしろ政府から目の敵にされ、税金、検閲、法的な締め付けなどによって抑圧されてきたことである。そうでありながら、この時代の大衆娯楽映画には、政権支持のメッセージを含んだ作品も少なくなかった。それには切実な理由がある。大衆娯楽映画の映画メーカーたちは巨額の私財を投じて映画作りを行っており、事業の継続のためには採算が最優先であるため、政府や国民に迎合した作品作りからどうしても逃れられないという宿命があった。この構造自体は現代まで変わっておらず、近年はモーディー政権支持の映画が増えていることがよく指摘されるが、実は今に始まったことではない。一方、パラレル映画の映画メーカーたちは政府から資金援助を受けていたために商業的な興行収入のプレッシャーからほぼ解放されており、大衆に媚びる必要もなかったため、純粋に知的な良心と芸術的野心に従い、国家の欺瞞や近代化の限界を冷徹に批判することができたのである。
以下、「パラレル映画」といった場合は、1960年代以降の「狭義のパラレル映画」を指すこととする。
パラレル映画の黄金期
一般的に「パラレル映画元年」とされているのは、1969年である。この年に、ムリナール・セーン監督の前衛映画「Bhuvan Shome」(1969年)が劇場一般公開され、商業的な成功を収めたことは映画業界にセンセーションを巻き起こした。また、国家映画賞では、「Bhuvan Shome」が作品賞、監督賞、主演男優賞を受賞した他、同作でも撮影監督を務めたFTII卒業生のKKマハージャンが、マニ・カウル監督の「Uski Roti」(1969年完成、1970年認証)とバース・チャタルジー監督の「Sara Aakash」(1969年完成、1970年公開)という、これまた前衛映画にて、撮影監督賞を受賞した。これら3作はFFCから融資を受けていた。1969年に起こったこの3作の快挙により、FTIIの卒業生による作品を中心に新感覚の映画に注目が集まり、FFCも若手の映画人材への支援を積極化させた。その結果、堰を切ったように、大衆娯楽映画とは異なる新しいインド映画群がリリースされ、それらがまとめて「パラレル映画」と呼ばれるようになったのである。

ちなみに、「パラレル映画(Parallel Cinema)」という用語は、映画情報誌「マードゥリー」でこれらの新感覚映画を包括する概念として使われたヒンディー語の熟語「サマーンタル・シネマ(समांतर सिनेमा)」の英訳だとされている。初出は1970年であり、1975年のIFFIでシンポジウムの題名として大々的に使われたことで一般化した。やはりこの辺りからパラレル映画が本格的に始まったと考えるべきである。また、どうも「パラレル映画」という名称が定着した後に、「マサーラー映画」や「ボリウッド」という用語が登場したらしいことは興味深い事実だ。大衆娯楽映画の対立軸が確立し、その名称が「パラレル映画」に固定されたことで、今度は大衆娯楽映画を包括できるような呼称が必要になり、「マサーラー映画」や「ボリウッド映画」といった名称が徐々に確立していったというわけだ。以下、大衆娯楽映画の呼称を「マサーラー映画」に統一する。
パラレル映画の旗手とされる監督としては、上述のムリナール・セーン、マニ・カウル、バース・チャタルジーに加え、「Ankur」(1974年)、「Nishant」(1975年)、「Manthan」(1976年)などのシャーム・ベーネーガルや、「Aakrosh」(1980年)や「Ardh Satya」(1983年)などのゴーヴィンド・ニハラーニーなどが挙げられる。

また、パラレル映画の勃興に伴って、パラレル映画を中心に演技をする俳優の一団も現れた。そのような俳優としては、ナスィールッディーン・シャー、オーム・プリー、シャバーナー・アーズミー、スミター・パーティルなどが代表的である。俳優については、シャバーナーのようにFTIIの卒業生もいるが、デリーの国立演劇学校(NSD)で主に舞台劇を学んだ俳優たちもパラレル映画に流れ込んだ。彼らは、きらびやかな衣装やカメラ映えする化粧などを拒否し、貧しい農民や汚らしい売春婦などを進んで演じて、役者魂を見せた。
以上はヒンディー語映画を中心に紹介したが、パラレル映画運動はヒンディー語映画以外の言語にも広がっている。パラレル映画はベンガル語映画から発祥したことは既に述べた通りだが、他にも、グジャラーティー語の「Bhavni Bhavai」(1980年)を撮ったケータン・メヘター監督、マラヤーラム語の「Kummatty」(1979年/邦題:魔法使いのおじいさん)を撮ったGアラヴィンダン監督や「Elippathayam」(1981年)を撮ったアドゥール・ゴーパーラクリシュナン監督、カンナダ語の「Ghatashraddha」(1978年)を撮ったギリーシュ・カーサラヴァッティ監督などが代表的である。
パラレル映画とマサーラー映画の相違点として、よく歌と踊りの有無が挙げられる。ダンスシーンやソングシーンはマサーラー映画に不可欠な要素だが、パラレル映画にはそれがないという言説である。現在では、歌と踊りがないインド映画も存在することは知られるようになっているが、その発端がこのパラレル映画にあったとされることもある。だが、これは間違った見解である。大半のパラレル映画にも歌と踊りはちゃんと入っており、マサーラー映画と共通の構造を感じ取ることができる。異なるのはその扱い方だ。パラレル映画では、マサーラー映画よりもより慎重に歌や踊りをストーリーに自然に溶け込ませる工夫がなされ、その楽曲にはポップスよりも古典声楽や民謡などが好んで用いられた。マサーラー映画の歌曲はスターの魅力を最大限引き出すことが重視され、現実逃避の傾向にあるが、パラレル映画の歌曲は、民衆の口から発せられた日常の音声の再現が重視され、現実直視に比重が置かれた。よって、パラレル映画にも歌と踊りは入っているといっても、マサーラー映画とは随分印象が異なる。
1969年がパラレル映画元年だとしたら、その絶頂期は1983年と見なされることが多い。この年、「Ardh Satya」が公開され、予想を上回る商業的な成功を収めたのである。警察内部の腐敗と暴力の連鎖に苦悩する一人の警官を描いた、歌も踊りもないダークなリアリズム映画だったが、大都市の映画館でハウスフル(満席)が続く大ヒットになった。「Razia Sultan」(1983年)や「Pukar」(1983年)など、ちょうど同時期に公開された大予算型のマサーラー映画が振るわなかったこともあって、「Ardh Satya」のこの成功は際立ち、パラレル映画の歴史的快挙として記憶されている。

また、パラレル映画御用達の俳優たちは世界中の映画祭に引っぱりダコとなり、カンヌやベルリンなどに招かれてインド映画の国際的なブランドアンバサダーになった。ところが、国際的な脚光とは裏腹に彼らは低予算映画に低額のギャラで出演していたために常に生活に困窮しており、質素な生活を余儀なくされていた。
パラレル映画の衰退
1980年代、インドの映画産業全体は大きな困難に直面していた。それはテレビとビデオの普及である。インドでカラーテレビの放送が始まったのはデリーでアジア競技大会が開催された1982年で、それとちょうど同じ時期にビデオデッキ(VCR)の輸入規制緩和も行われ、ビデオで映画を鑑賞するという新たな習慣が急速に広まった。テレビやビデオを購入できる富裕層が映画館に足を運ばなくなったため、映画館側は集客のために低所得者層向けの大衆娯楽映画を以前よりも強く求めるようになった。
1983年に絶頂期を迎えたパラレル映画であったが、このときには既にテレビとビデオが市場を侵食し始めていた。大衆から支持を集めるマサーラー映画は、より単純明快に、より暴力的に、そしてより豪華絢爛に進化することで何とか食いつなぎ生き残ることができたが、インテリ層の支持が重要なパラレル映画は途端に集客力を失っていった。
パラレル映画の衰退をテレビやビデオなどの外的な要因に求めることもできるが、パラレル映画を支えたシステムや担い手たちの内的な問題も指摘しておかなければならないだろう。
FFC、そしてNFDCは、確かにパラレル映画の勃興を支えた重要な機関であった。映画の製作を財政的に支援する体制は持っていたが、致命的な欠点として、映画の配給ネットワークまでは持っていなかった。映画を上映し収益を得るためには民間の興行主から協力を仰がなければならなかった。映画が上映されなければ興行収入は得られず、興行収入が得られなければNFDCからの借金は返せない。現代の感覚ならば、監督や俳優が映画を興行的に成功させるためにプロモーションにまで責任を持つべきだが、パラレル映画を推進した監督たちには芸術肌のエリートが多く、海外の著名な映画祭での受賞のみを追い求め、インド国内での商業的な成功の追求を忌避する傾向にあった。
これらの要素が合わさり、NFDCから融資を受けて完成したはいいが、一度も劇場で公開されないままお蔵入りする作品が積み重なって、やがてNFDCの財政は悪化していった。それにもかかわらず、お役所特有のぬるま湯体質だったNFDCは、焦げ付いた融資を厳しく取り立てることをしなかったため、負の連鎖が続き、新たな映画への融資が不全に陥るほど深刻な火の車となった。
1991年、インドは市場開放し、映画産業にも海外から最新技術が流れ込んできた。たとえばこの頃にインド映画でも徐々にCGが使われるようになる。だが、そのおかげで映画の製作費は高騰し、低予算映画では大予算型のマサーラー映画に太刀打ちできなくなった。「Hum Aapke Hain Koun..!」(1994年)や「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年/邦題:シャー・ルク・カーンのラブゲット大作戦)のようなファミリー向け娯楽映画の大ヒットはマサーラー映画を完全によみがえらせたが、その一方でパラレル映画の息の根を完全に止めてしまった。
よって、パラレル映画の運動は1969年を元年として始まり、1970年代から80年代にかけてマサーラー映画と平行して一定の勢力を有していたものの、時代の変化や内的な問題によって勢いを失い、1990年代半ばには消え去ったと考えていい。一般に「末期のパラレル映画」とされているのは、ケータン・メヘター監督の「Mirch Masala」(1987年)やゴーヴィンド・ニハラーニー監督の「Drohkaal」(1994年)あたりである。これ以降の作品に「パラレル映画」の呼称を使うことはあまりない。

ただ、それはパラレル映画で名を馳せた人材が消え去ったことを意味しない。パラレル映画運動の中で数々の名作を送り出してきた監督や、パラレル映画を中心に演技をしてきた俳優たちは、マサーラー映画に活躍の場を移し、その質の向上や多様性の拡大に寄与するようになった。2000年代にマルチプレックス時代が到来すると、彼らの多くは新しく創出された観客に向けて、パラレル映画時代に培った精神にのっとって、新感覚の映画を送り出すようになる。たとえばシャーム・ベーネーガル監督は、パラレル映画からマルチプレックス映画にスムーズに移行できた映画監督の一人だといえる。
また、常々感じる疑問は、パラレル映画の映画人たちが果たして本当にマサーラー映画に対抗しようとしていたのかということだ。彼らも映画界に身を置く以上、大スターの存在を認めており、本心では機会があれば彼らと仕事をしたいと思っているように感じられてならない。パラレル映画の監督や俳優たちが、国際的な成功とは裏腹に日々の生活にも困窮していたという話は既にした。パラレル映画を代表する俳優から、「パラレル映画は自分たちに何ももたらさなかった」という愚痴を聞いたこともある。
とてもインド的だと感じたエピソードがある。パラレル映画の監督や俳優たちも結婚し、やがて子供ができる。子供が成長すると、自分の親が映画の仕事をしていると知り、誇りに感じるようになる。すると、友達から「本当に君の親は映画監督なのか、映画俳優なのか」と聞かれる。子供なので、映画といえばシャールク・カーンなどの大スターが出演している作品しか知らない。子供が親が関わった映画名を口にしても周囲の友達は誰も知らない。そして「嘘つき」呼ばわりされる。すると親は子供から「シャールク・カーン主演の映画を撮ってよ」「シャールク・カーンと共演してよ」などと頼まれる。そうすると、子供に弱いインド人のこと、どれだけ今までマサーラー映画を敬遠してきたとしても、子供のために大スター主演の映画に関わるチャンスをうかがうようになる。そして結局、メインストリームに取り込まれていくのである。
