Jab Khuli Kitaab

3.5
Jab Khuli Kitaab
「Jab Khuli Kitaab」

 2024年11月26日にインド国際映画祭でプレミア上映され、2026年3月6日からZee5で配信開始された「Jab Khuli Kitaab」は、50年連れ添った70代の老年カップルが離婚の危機の中、絆を取り戻すまでを描いた感動作である。題名は「本が開いたとき」という意味。開く前の閉じていた本とは、胸の奥にしまってあった秘密を指し、それが明るみに出たことで離婚に向かうことになる筋書きを端的に表現している。

 監督はサウラブ・シュクラー。演技をすれば小太りの個性派俳優で一度見たら忘れないインパクトがあるが、時々監督もしていて、過去に「Raat Gayi Baat Gayi?」(2009年)などを撮っている。彼は舞台劇出身の俳優・監督・脚本家であり、この映画も彼が書いた舞台劇を原作としている。

 主演はパンカジ・カプールとディンプル・カパーリヤー。共に往年の名俳優である。他に、アパールシャクティ・クラーナー、マーナスィー・パレーク、サミール・ソーニー、ナウヒード・サイラシー、スニール・パルワル、デーヴィヤーニー・ラタンパール、アーブリー・ママージーなどが出演している。アーブリーは「Ahaan」(2019年/邦題:アハーン)で主演をしていたダウン症の俳優である。

 ウッタラーカンド州ラーニーケートに住む74歳のグジャラート人ゴーパール・チャンドラ・ナウティヤール(パンカジ・カプール)には、50年連れ添った70歳のアヌスヤー(ディンプル・カパーリヤー)という妻がいた。二人の間には、パラム(サミール・ソーニー)、スジャーター(デーヴィヤーニー・ラタンパール)、そしてダウン症のドールー(アーブリー・ママージー)という3人の子供がいた。パラムは拝火教徒のファルナーズ(ナウヒード・サイラシー)と結婚し、スジャーターにはジグネーシュ(スニール・パルワル)という夫がいた。ドールーはダウン症ということもあって独身のままだった。

 アヌスヤーは2年前に昏睡状態になったまま目を覚まさず、ゴーパールは看病をし続けていた。ところがある日突然意識を取り戻し、おもむろにシャミーム・アンサーリーというゴーパールの部下と浮気をしたことを彼に打ち明け謝罪する。ゴーパールはその告白にも驚いたが、妊娠のタイミングがシャミームとの浮気と近いことから、長男のパラムがシャミームの子供ではないかと疑う。そして悩んだ結果、裁判所に行って弁護士RKネーギー(アパールシャクティ・クラーナー)に離婚の相談をする。ネーギーは老年の夫婦が死を前にして離婚をすることに面食らいながらも相談に乗る。

 幸か不幸か目を覚ましたアヌスヤーは快方に向かう。ネーギーから、離婚のためにはアヌスヤーの署名が必要だと言われ、ゴーパールはアヌスヤーに離婚を願い出る。最初はかたくなに拒絶していたアヌスヤーであったが、最終的には同意し、裁判官アーシャー(マーナスィー・パレーク)の前に出る。ただ、アヌスヤーが離婚に同意していないと言い出したため、双方がきちんと気持ちを固めてから3週間後に再出廷することになる。

 ゴーパールの方もいざ離婚を前にして熟慮するようになり、シャミームについて調べたり、詩人だったシャミームの真似をして詩を作り始めたり、腕を振るって御馳走を作ったりする。そうこうしている内にゴーパールとアヌスヤーの仲は深まっていく。また、ドールーの縁談がまとまるといううれしい知らせもあった。相手は拝火教徒のグルシェールであった。ゴーパールとアヌスヤーは再出廷して離婚の手続きを進めるが、6ヶ月間の冷却期間もきちんと取ることにする。

 結婚50周年を祝うパーティーが開催された。そのとき、ゴーパールの知らないところで自宅が抵当に入っていたことが発覚し、アヌスヤーと共謀してそれを主導したパラムをゴーパールが公衆の面前で殴るという事件もあった。既に借金は完済しており、自宅が競売に掛けられることはなく、誤解であったが、そのときゴーパールはパラムに「不義の子」と口走ってしまい、傷ついたパラムは家族を連れて帰ってしまう。

 その後、ドールーとグルシェールの結婚式が行われたが、そのときには既にゴーパールとアヌスヤーはなかった。数ヵ月前に相次いで亡くなっていた。結局二人が離婚することはなかった。

 2年間昏睡状態の妻を優しく看病する夫。そんな描写から物語は始まる。誰もが、生と死を主題にした「よくある感動作」だと考えるだろう。だが、「Jab Khuli Kitaab」はそんな単純な筋書きの映画ではない。ちょっとした刺激から妻アヌスヤーは目を覚まし、まだ朦朧とした意識の中で、夫ゴーパールに、おもむろに過去の不倫を暴露するのである。そこからは感動ドラマというよりもブラックコメディーであった。

 ゴーパールは74歳ながら器が小さく、妻が50年前に犯した過ちを看過することができない。タイミングを考えると、もしかしたら長男パラムが自分の子ではないかもしれないという疑問は、さらに彼を激しく突き動かした。ゴーパールは妻との離婚を決意し、弁護士ネーギーに相談する。もちろん、70代の夫婦が離婚をするなど、かなりレアなケースである。しかも妻は死の床に伏しているのだ。ネーギーは狼狽しながらも対応する。この辺りの時間帯は面白おかしく演出されている。

 長いこと昏睡状態にありながらもアヌスヤーの方が度胸が据わっており、多少の抵抗はしたものの、最終的にはゴーパールから切り出された離婚を受け入れる。だが、離婚を前にして今度はゴーパールが躊躇する。こうして猶予時間が生まれ、その間にこの老年夫婦がお互いの絆を確かめ合うという構成になっている。パンカジ・カプールの頑固親父っぷりは、まるで素であった。ディンプル・カパーリヤーは普段もっと気っぷの良い役柄を演じる傾向にあるが、前述の通り、昔ながらのインド人女性を体現した控えめの振る舞いに見えて、芯がしっかりしており、その堂々ぶりがゴーパールを逆に怖じ気づかせていた。二人とも素晴らしい演技であった。

 この老年夫婦の離婚ドタバタに加えて、少なくとも2つの要素が織り込まれていた。ひとつは異宗教間結婚である。ナウティヤール家は、ウッタラーカンド州在住ではあったものの、その出自はグジャラート州ヴァドーダラーにあり、彼らはグジャラート人ヒンドゥー教徒であった。だが、ゴーパールの長男パラムは拝火教徒の女性ファルナーズと恋愛結婚していた。その結婚にもっとも反対していたのはアヌスヤーだったとされている。

 もうひとつはダウン症だ。末っ子のドールーはダウン症であり、それが理由で独身のままだった。だが、物語の終盤に同じくダウン症の娘を持つ家族から縁談が舞い込み、ナウティヤール家に明るい話題ができる。ただ、その家族は拝火教徒であった。家族はアヌスヤーの顔色をうかがうが、彼女は「問題ないし、今までも問題なかった」と言って、感涙のファルナーズを抱きしめる。

 これらの要素は、ゴーパールとアヌスヤーのメインストーリーに有機的に絡み合っていたわけではなく、正直いってなぜ異宗教間結婚やダウン症のような微妙なトピックを混ぜ込んだのか、その意図を正確に読み取ることはできなかった。原作となった舞台劇のプロットをそのまま映画化しているだけの可能性があり、この複線的な展開は舞台劇の文法にのっとっているとも考えられる。それでも、きれいにまとまっていない分、逆に物語に現実感が出ていたかもしれない。

 もうひとつ、うまくまとまっていなかったのは、ネーギーとアーシャーの関係だ。どうもアーシャーは既婚女性のようであったが、ネーギーは彼女に必死にアプローチを掛けていた。この二人の関係がもっとメインストーリーに絡んでくれば、映画らしい有機的な展開になっていただろう。

 最後にアヌスヤーは「時間は偉大な治療者だ」とつぶやく。この一言にこの映画の全てが凝縮されている。ゴーパールは50年という時間を裏切られたと考えてアヌスヤーに離婚を突き付けるが、アヌスヤーも50年という時間を盾に離婚を拒否する。離婚寸前まで至った二人ではあるが、やはり離婚までの猶予期間の中で今まで過ごしてきた時間を吟味でき、初心に立ち戻ってお互いを理解し合うことができた。代わりにゴーパールとパラムの父子関係が悪化してしまうが、それも時間が解決してくれるという前向きな余韻が残された。そしてゴーパールとアヌスヤーは離婚する前に後を追うように相次いで亡くなり、家族には二人が離婚をしようとしていたことなど全く知られず、思い出だけが残された。これも時間という偉大な治療者の御業であろう。そして気付いたときには、冒頭数分で予想された感動ドラマ的結末に回帰しているのである。

 「Jab Khuli Kitaab」は、70代の夫婦が離婚に直面しながら共に歩んできた50年を振り返る筋書きで、シルバーロマンス映画と呼んで差し支えない。物語の中には、昏睡、透析、ダウン症、認知症、アルツハイマー病など、いかにも映画的なキーワードが並ぶが、あえてシリアスに染めず、むしろコミカルにまとめているところが小気味よい。多少いろいろな要素を詰め込みすぎて消化不良に陥っているきらいもあったが、全体的に夫婦が連れ添うという習慣を素直に美しく捉えることができるような感動作に仕上がっている。