米国でセクシャルハラスメントや性的暴行を告発する「#MeToo」運動が吹き荒れたのは2017年のことだったが、インドでも遅ればせながら2018年に「#MeToo」運動が盛り上がり、ヒンディー語映画界においてもセクハラを受けたとする女優などが声を上げるようになった。だが、男尊女卑の風潮が強いインドでは、女性を巡る問題の解決はまだまだ初歩的な段階にあると言える。そもそも、女児堕胎が根強く残るインドでは、女性は生を受ける段階から差別的な待遇を受けることになる。そのような社会であるため、セクハラ、性的暴行、家庭内暴力などは、まだこの世に生まれることができた「恵まれた」女性の問題と言ってもいいかもしれない。よって、夫から一発だけビンタを受けた女性は、世間からも特に問題視されないのが普通だ。その問題に果敢に切り込んだヒンディー語映画が「Thappad(ビンタ)」である。2020年2月28日に公開された。
監督はアヌバヴ・スィナー。「Cash」(2007年)や「Ra.One」(2011年)などのコテコテの大衆向け娯楽映画も撮っているが、シリアスな映画も撮れる非常に器用な監督だ。タープスィー・パンヌー、新人のパヴァイル・グラーティー、ディーヤー・ミルザー、マーヤー・サラオ、ラトナー・パータク・シャー、タンヴィー・アーズミー、ラーム・カプールなどが出演している。
舞台はデリー。ヴィクラム(パヴァイル・グラーティー)とアムー(タープスィー・パンヌー)は幸せな夫婦だったが、ある晩、ホームパーティーで、仕事上の理不尽な扱いに激昂したヴィクラムが上司に食ってかかり、それを止めようとしたアムーに1発平手打ちをしてしまった。それ以降、アムーは人が変わったようになる。アムーは実家に帰り、弁護士に相談して、離婚調停に入る。あらすじにしてしまうと、このような簡潔なものとなる。
序盤は完璧とまで言えるほど幸せな夫婦の姿が描写される。仕事に打ち込む夫、それを献身的に支える妻、そして仲睦まじい夫婦。冗長とも言えるほど、そんな何の事件性もないような幸せな日常が延々と繰り返される。だが、1発の平手打ちが、全てを変えてしまう。
夫のヴィクラムにも言い分はあった。彼はロンドンの支店長になるのが夢で、3年間掛けてその夢のために準備をして来た。アムーも夫の夢の一員となり、ロンドン行きを楽しみにしていた。彼はプレゼンテーションを成功させ、その夢を掴む。だが、企業内で政治力が働き、土壇場で、社長の親戚がヴィクラムの上司としてロンドンに赴任することになる。それに憤ったヴィクラムは、自宅で開催したホームパーティーの場で上司に詰め寄り、それを止めようとした妻をつい叩いてしまったのである。酒に酔っ払っていたこともあった。ヴィクラムがアムーに暴力を振るったのはこれが初めてであった。
もちろん、妻に手を上げることはあってはならないことだ。いくら仕事で思うようにいかないことがあったとは言え、または酒に酔っ払っていたからとは言え、それは決して許されることではない。
ところが、アムーはその平手打ちにショックを受けて実家に帰ってしまったのではなかった。公衆の面前で起こったその平手打ちを見た周囲の人々が取った反応に強い違和感を覚えたのだった。夫婦の中ではよくあること、女は我慢するもの、家庭を円満にするには妻がある程度犠牲にならなければならない、たった1発の平手打ちで裁判沙汰にするのは合理的ではない、などなど。ヴィクラムを擁護し、アムーを説得する人は多くいたが、アムーに寄り添って物事を考える人は皆無であった。この出来事が、彼女の目を覚ましてしまう。
ヴィクラムは、会社から自分の価値を認められてないと感じ、会社を辞めるとまで言い出す。だが、ヴィクラムからビンタを喰らったアムーも同様であった。ヴィクラムのために人生を捧げたのに、ヴィクラムからは何の価値も見出されていないことが分かってしまったのである。
そうすると、序盤で描写されていた「仲睦まじい夫婦」の見方も180度変わる。それは、妻が夫に献身する姿が描かれていただけだった。それを「円満な夫婦」と呼ぶならば、それは男女が平等でない関係を認めることになる。
ヴィクラムとアムーの関係に変化が生じたことで、まるで池に波紋が広がるように、周囲の人間関係も変化して行く。ヴィクラムの母親は夫と別居状態にあったが、アムーが実家に戻り、彼女の世話ができなくなったことで、血圧が上がって倒れ、それがきっかけで夫との関係が戻る。アムーの母親はかつて声楽をたしなんでいたが、結婚を機に歌うのを辞めていた。それは、結婚後は女性は家庭を守るものという世間のプレッシャーがあり、自ら選んだ道でもあった。だが、アムーの父親は、彼女のそういう気持ちを知らなかった。アムーの父親は彼女に再び歌うように促す。他にも、いくつもの関係に副作用的に変化が訪れる様子が描かれているが、それら全ては、女性がいかに生きるかというテーマにつながっていた。
「Thappad」は、夫が妻についしてしまった1発の平手打ちという、一見大したことの出来事が、社会から知らず知らずの内に押しつけられている男女不平等や女性差別の有様を浮き彫りにする様子を、丁寧に、スローペースで追って行く作品で、見事な映画だった。完全に女性の視点から作られた映画だと感じたが、アヌバヴ・スィナー監督は男性である。もし男性のスィナー監督がこのような女性視点の優れた映画を作ることができるなら、インドにおけるジェンダー平等は悪い方向には進まないと感じた。フィルムフェア賞作品賞などを受賞しているが、それに値する映画である。