
2017年10月14日に釜山国際映画祭でプレミア上映され、2018年9月7日にインドで劇場一般公開された「Gali Guleiyan」は、路地が迷路のように入り組むオールドデリーで生まれ育ったとある男性の精神的な迷走を描いたサイコスリラー映画である。実話にもとづく物語とされている。
監督はディーペーシュ・ジャイン。インド生まれながら米国で学んだ人物であり、ロサンゼルスを拠点として映画制作や監督を行っている。キャストは、マノージ・バージペーイー、シャハーナー・ゴースワーミー、ランヴィール・シャウリー、ニーラジ・カビー、アシュワト・バット、オーム・スィンなどである。
題名は、「ガリー・グリヤーン」と読み、意味は「イリッペ通り」になる。イリッペとはインド原産の落葉樹またはその果実で、インドでは一般的に「マフワー」と呼ばれる。「ガリー・グリヤーン」を無理に訳す必要はなく、オールドデリーの架空の路地名だと捉えるべきだ。主人公クッドゥースの家が「ガリー・グリヤーン」にあるという設定になっていた。ちなみに釜山国際映画祭で上映されたときの英題は「In the Shadows」であった。
オールドデリーで生まれ育ち、電気技師として生計を立てるクッドゥース(マノージ・バージペーイー)は、あちこちに密かに監視カメラを設置し、自宅から近所の様子をうかがっていた。唯一の友人ガネーシー(ランヴィール・シャウリー)は時々彼の様子を見に来てくれていた。
あるとき、クッドゥースの店を、疎遠になっていた弟シャウカト(アシュワト・バット)が訪ねてくる。シャウカトは娘の結婚式のために母親からクッドゥースが預かったネックレスを譲ってほしいと頼む。クッドゥースが自宅の倉庫を探していると、彼は隣の家から子供が父親から暴力を振るわれている物音を聞く。クッドゥースはそれが気になって仕方なくなり、監視カメラでその様子を捉えようとするがなかなか成功しなかった。クッドゥースは憔悴していき、時間の感覚も失ってしまう。おかげで店の賃料を払うのを忘れ、追い出されてしまう。
クッドゥースが気に掛けていたのはイドリース(オーム・スィン)という少年だった。イドリースの父親リヤーカト(ニーラジ・カビー)は屠殺屋であった。イドリースは母親サーイラー(シャハーナー・ゴースワーミー)を慕っていたが、父親のことは恐れていた。イドリースは近所のあちこちをのぞき見るのが趣味だったが、あるときリヤーカトの不倫現場を目撃してしまう。しかも、妊娠していたサーイラーはリヤーカトの留守中に流産してしまう。イドリースは父親が弟を殺したと思い込み、詰め寄る。イドリースは怒った父親から家を追い出され、駅からどこかへ逃亡しようとするが、結局父親に連れ戻される。ある晩、イドリースは睡眠中の父親を襲い、殺してしまう。
その物音を聞いたクッドゥースは家の壁を破ってイドリースを止めようとするが、壁の先には何もなかった。実はイドリースこそがかつてのクッドゥースであり、リヤーカトとサーイラーは彼の両親であった。その後、クッドゥースは姿をくらます。
全編はオールドデリーを舞台としている。細い路地が入り組み、まるで迷路のようである。主人公クッドゥースは、そんなオールドデリーの一角に建つ古い家に居を構え、市場で電気屋を営んでいる。クッドゥースの趣味は、密かにあちこちに設置した監視カメラで近所の様子を盗み見ることであった。生活リズムは完全に狂っており、飲まず食わずで何日も過ごしたり、いつ寝ているのか分からなかったりするような毎日を送っていた。唯一の友人ガネーシーが心配して時々訪ねてきてくれていたため、彼は何とか生きていた。
クッドゥースのそんな自堕落な毎日が暗鬱なトーンで描かれるのと平行して、クッドゥースの近所の住む一家の様子も所々に差し挟まれる。それは屠殺屋リヤーカト、その妻サーイラー、そして息子のイドリースの一家だった。リヤーカトは典型的な家父長であり、感情が高ぶるとすぐに暴力を振るうため、サーイラーやイドリースは怯えながら過ごしていた。クッドゥースはイドリースの安否を心配し、彼を助け出そうとするが、なかなか直接会うことができなかった。彼はただ音を聴いてリヤーカトの家の様子を想像していた。
クッドゥースのエピソードとイドリースのエピソードは、交錯しそうで交錯せずに、平行線を保ったまま進んでいく。オールドデリーの風景があまり変わらないため、当初はこれら2つのエピソードが同時代の出来事であるかのように錯覚するのだが、中盤くらいから仕掛けが分かり始める。実はクッドゥースは、自身の子供時代の記憶を思い起こしているだけであった。つまり、イドリースはクッドゥース自身だったのである。
その伏線はいくつか張られていた。たとえば、クッドゥースの弟シャウカトが彼を訪ねてくる場面がある。そのときシャウカトはクッドゥースに「名前を変えたのか」というようなことを聞いていた。そこから、「クッドゥース」という名前は子供の頃からのものではないことが分かる。また、イドリースが友人ギニーと共にビデオパーラーで映画を観る場面がある。そのビデオの媒体はVHSであり、現代ではないことが暗示されていた。さらに、イドリースは覗き見が趣味だったが、これは監視カメラで近所を覗き見するクッドゥースの趣味と共通していた。このように各所にちりばめられたヒントから、イドリースはクッドゥース自身であることが予想できたのである。もちろん、イドリースの友人ギニーはガネーシーであろう。
「現在」の姿であるクッドゥースと、「過去」の姿であるイドリースの間には断絶があり、この間に何が起こったのかは明らかではない。イドリースは父親を殺してしまったので、普通に考えたらその後は少年院に入ることになっただろう。彼が電気技師として生計を立てているのも、少年院で職業訓練を受けたことで技術を身に付けたからなのかもしれない。弟シャウカトについては、クッドゥースとは全く別の人生を歩んでいることが分かる。父親が死んだとき、シャウカトはまだ幼児だったので、彼自身は何が起こったのか理解していなかったと思われる。だが、物心ついてから周囲の人々によって兄が父親を殺したことを伝えられるだろうし、そうなったら、兄と疎遠になるのも分かる。おそらく母親はどこかの時点で死んでしまったのだろう。
イドリースは、暴力を振るい、外で不倫をして母親を裏切る父親に反発し、家出をしようとしていた。迷路のようなオールドデリーから抜け出ようとしていた。母親の胎内にいた弟の死をきっかけに彼は父親にたてつき家を追い出され、いったんは駅まで行ったが、そこからどこかへ旅立つことはかなわず、父親に連れ戻されてしまう。その後、彼がオールドデリーから出た形跡はない。少年院がオールドデリーの外にあったならば彼は外に出たことになるだろうが、オールドデリー内に少年院があったかもしれない。そうだとすると、彼は一生、オールドデリーから出ていないことになる。
オールドデリーの入り組んだ路地は、クッドゥースにとって、交錯する心理状態そのものだ。オールドデリーから抜け出せないということは、彼の心は永遠に偏執とトラウマの中にはまり込んで迷宮入りしてしまっていることを象徴している。それは苦しみでもあるが、どこか居心地の良さも感じてしまっているのかもしれない。一度、彼は路地から出て、シャウカトの住むグレーター・カイラーシュまで出向こうとするが、オートリキシャーに乗ることができず、路地に引き返した。これは、運賃が高かったからというよりも、喧噪と混沌が支配する路地という絶対的なコンフォートゾーンから抜け出ることができない心理状態を示しているといえよう。
だが、最後にクッドゥースは姿をくらます。彼が助け出そうとしていた近所の少年イドリースが、自分自身の過去を投影したものだったことに気付いたときに彼は姿を消したのである。もしかしたら、これがきっかけで彼はオールドデリーの路地から解放されたのかもしれない。もしくは、父親を殺したという過去の自身が犯した大罪に初めて向き合い、自ら命を絶ったのかもしれない。クッドゥースのその後は観客の想像に委ねられている。
ヒンディー語映画界を代表する曲者俳優であり、演技力が高く評価されているマノージ・バージペーイーは、心身がむしばまれつつあるクッドゥースを今回も上手に表現していた。ニーラジ・カビーやランヴィール・シャウリー、そしてシャハーナー・ゴースワーミーといった実力ある俳優たちの演技もさすがであった。イドリース役を演じた子役俳優オーム・スィンには弱さを感じる場面があったが仕方がない。
「Gali Guleiyan」は、日に日に風景が変わるデリーの中にあって、古い街並が残り、今でもどこか中世を感じるオールドデリーの特徴を最大限に活かし、時間差を仕掛けにして、主人公のむしばまれる精神状態を描き出そうとしたサイコスリラー映画である。無名の監督の作品ながらいいキャストを揃えており、説得力のある演技を引き出すことができた。ただ、中盤から先読みができたため、サスペンス性が損なわれていた。佳作である。