Shahid

4.0
Shahid
「Shahid」

 21世紀は9/11事件で幕を開けた。戦争が国家間で争われることが減った代わりに、国家はテロと戦わざるをえなくなった。テロに対抗するため、各国は法律や規則を強化したが、その一方で、一般市民は窮屈な生活を余儀なくされ、不便を被るようになった。インドでも、テロが起こるたびに、面倒な手荷物検査が増えたり、飛行機の機内に液体を持ち込めなくなったりと、段々と圧迫が増して来た。結局、テロで一番迷惑を被るのは一般市民であった。

 面倒が増えたり、迷惑を被ったりするだけならまだしも、テロリストと勘違いされて、大した証拠もないのに逮捕され、なかなか進まない裁判の判決を刑務所で何年も待ち続けるような目に遭ったら、悲惨だ。いわゆる冤罪である。だが、あまりにテロの恐怖に支配された社会では、「テロリストかもしれない」というだけで、多数の犠牲者を出す恐れのあるテロを予防するという名目の下に、拘留が正当化されてしまうところがある。インドにおいて元々マイノリティーとして肩身の狭い生活を送っていたイスラーム教徒は、度重なるテロの影響で、そのような不当な扱いを受けるようになった。

 2013年10月18日公開の「Shahid」は、テロ事件の容疑者として誤認逮捕された貧しいイスラーム教徒の弁護をし続けた実在の弁護士シャーヒド・アーズミーの半生を描いた作品である。1993年のボンベイ暴動から2006年のムンバイー同時多発テロまで、実際にムンバイーで起こった事件を背景にして、ストーリーが展開する。監督はハンサル・メヘター。「Citylights」(2014年)や「Aligarh」(2016年)など、最近は硬派な映画を撮っている監督だ。音楽はカラン・クルカルニー。キャストは、ラージクマール・ラーオ、ムハンマド・ズィーシャーン・アユーブ、ティグマーンシュ・ドゥーリヤー、ケー・ケー・メーナン、プラバル・パンジャービー、プラブリーン・サンドゥー、バルジンダル・カウルなど。

 1993年のボンベイ暴動でイスラーム教徒を殺戮するヒンドゥー教徒暴徒たちを目の当たりにしたシャーヒド・アーズミー(ラージクマール・ラーオ)は、パーキスターン占領下のカシュミールに渡り、テロリストになるための軍事訓練を受ける。しかし、訓練に付いて行けず脱落し、ボンベイに戻って来る。その後、警察に逮捕され、テロリストであることを強制的に自白させられる。シャーヒドは刑務所の中で、過激思想を吹き込むオマル・シェーク(プラバル・パンジャービー)と出会い、感化されかけるが、ワール・サーブ(ケー・ケー・メーナン)に教育を続けるべきだと諭され、刑務所内で勉強をし始める。刑期を終え出所した後、シャーヒドは大学へ行き、弁護士の資格を取得する。

 シャーヒドは初め、弁護士マクブール・メーモン(ティグマーンシュ・ドゥーリヤー)の下で働いていたが、後に兄アーリフ(ムハンマド・ズィーシャーン・アユーブ)の資金援助を得て独立する。彼は、最初期の顧客であるマリアム(プラブリーン・サンドゥー)と恋に落ちる。マリアムは離婚しており、子供もいたが、シャーヒドは彼女に求婚し、結婚する。だが、シャーヒドの母親(バルジンダル・カウル)はその結婚にいい顔をしなかった。

 シャーヒドは、テロリストに協力した容疑で逮捕された貧しいイスラーム教徒の弁護を中心に仕事をするようになる。多くの容疑者は証拠不十分のまま拘置所に抑留され続けていた。シャーヒドは多くの無実のイスラーム教徒の無罪を勝ち取り、徐々に名声を得ていく。ただ、彼の過去も次第に知れ渡って来ていた。

 シャーヒドの行為を面白く思わない者もおり、彼は度々脅迫の電話を受けていた。2006年のムンバイー同時多発テロとの関連を疑われて逮捕されたファヒーム・カーンの事件を担当しているとき、シャーヒドは何者かに暗殺される。だが、友人の弁護士が後を引き継ぎ、ファヒーム・カーンの無罪を勝ち取る。

 テロは21世紀のヒンディー語映画の中心テーマである。ヒンディー語映画が特に注力しているのが、9/11事件後、一般のイスラーム教徒たちが国内外で被って来た差別・偏見と不利益である。シャールク・カーン主演の「My Name Is Khan」(2010年)が米国における事例を扱っているとしたら、この「Shahid」は、インド国内のイスラーム教徒の受難をよく描写している作品だと言える。

 「Shahid」は実在の弁護士シャーヒド・アーズミーの半生にもとづいて作られた映画ではあるが、そのストーリーからは、インドが陥っている、テロリストを再生産し続ける負のスパイラルが浮き上がって来る。テロが起こると、その容疑者としてイスラーム教徒が逮捕される。もちろん、それが真犯人ということもあるだろうが、冤罪・誤認逮捕ということもあり得る。もし冤罪だったとしても、インドの司法システムは時間が掛かり、その人は長い期間自由を拘束されることになる。最終的に無罪判決が出ればいいのだが、そうだとしても、5年、10年と刑務所で過ごして出て来た人が容易に職にありつけることはない。もし、その不当な抑留期間にインドの社会全体に対する憎悪を蓄積していたとしたら、無実だった人が仕方なしに本当のテロリストになることもあり得る。

 シャーヒド・アーズミーの場合は、1993年のボンベイ暴動がきっかけだった。1992年のバーブリー・マスジド破壊事件に端を発した、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間のコミュナル暴動であり、特にイスラーム教徒に対する殺戮が行われた。シャーヒドがその直後にパーキスターン領カシュミール(POK)に渡って軍事訓練を受けたのは、この報復のためであろう。コミュナル暴動の被害者は、テロリストの予備軍になり得ることが示されていた。ただ、シャーヒドは途中で嫌気がさし、結局テロリストにはならなかった。

 しかしながら、一度POKに渡って軍事訓練を受けた者に対する当局の目は厳しかった。シャーヒドは逮捕され、拷問を受ける。そしてテロリストであることを自白させられ、7年間、ニューデリーにあるティハール刑務所に服役することになる。ティハール刑務所でシャーヒドは主に2種類のタイプの仲間と出会う。ひとつは過激思想を植え込もうとする人物、他方は彼に勉強を勧める人物。幸い、シャーヒドは後者を選んだが、ここでも、テロリストが再生産される仕組みが暗示されていた。刑務所においてリクルートが行われ、テロリストが誕生して行くのである。

 弁護士となったシャーヒドが主に弁護を担当したのは、テロリストとして逮捕され長期間拘留されている貧しいイスラーム教徒たちであった。彼らは、大した証拠もなしに逮捕され、大した証拠もなしに有罪とされそうになっていた。シャーヒドは、時に感情に訴えながら、時に明確な理論を提示しながら、彼らの無罪を主張する。検察側は、確固たる証拠を提示できないばかりか、証拠の偽造や偽の証人などによって無理に裁判を進めようとする。何も打つ手がなくなると、「容疑者は危険だから刑務所から出すべきではない」と捨て台詞を吐くのみとなった。シャーヒドは、次々と無実のイスラーム教徒たちの無罪放免を勝ち取って行く。だが、もしシャーヒドのような人物の助けが得られず、長期に渡って拘留されることになっていたら、彼らが本当にテロリスト化してもおかしくはない。司法システムの不備が、必要以上にテロリストを生産しているとしか思えない。

 主演のラージクマール・ラーオは、「Kai Po Che」(2013年)で一躍有名になった男優である。ハンサル・メヘター監督のお気に入りのようで、ここ最近の監督作には必ず彼を起用している。ちょっとずるくて臆病な男を演じさせると非常に巧いが、今回はもっとストレートな役を演じており、こちらもよく演じられていた。

 プロデューサー陣にアヌラーグ・カシヤプが名を連ねているが、キャストを見ると、彼が推薦して起用されたと思われる俳優もちらほら見える。ムハンマド・ズィーシャーン・アユーブやティグマーンシュ・ドゥーリヤーなどである。ラージクマール・ラーオもそうかもしれない。劇中、紅一点と言えるプラブリーン・サンドゥーは元々パンジャービー語映画界で活躍している女優である。

 ちなみに、「Shahid」が描く弁護士シャーヒド・アーズミーは、実はアヌラーグ・カシヤプの恩人とも言える人物である。カシヤプ監督のデビュー作「Black Friday」は、ボンベイ連続爆破テロ事件の実行犯たちの行動を追ったドキュメンタリータッチの映画であるが、内容がセンシティブだったため、なかなか公開の許可が下りなかった。この映画の公開を巡って裁判を争ったのがシャーヒドであり、2007年にやっと「Black Friday」は日の目を見ることになった。この後、カシヤプ監督は「Dev. D」(2009年)などの成功によってヒンディー語映画界の風雲児として知られるようになった。現在、ヒンディー語映画界の新しい動きは、彼かその周辺から起こっていることが多く、もっとも目の離せない監督となっている。その彼が、「Shahid」をプロデュースしたのは納得ができる。

 「Shahid」は、テロリストとして誤認逮捕された貧しいイスラーム教徒たちの弁護を行った正義の弁護士シャーヒド・アーズミーの半生をもとにした伝記映画である。テロが世界共通の問題として浮上し、イスラーム教徒が疑いの目で見られるようになった時代、インドにおけるイスラーム教徒たちの受難をもっとも誠実に描写した作品でもある。ラージクマール・ラーオをはじめとした俳優陣の演技も素晴らしい。多くの国際映画祭で受賞をしており、国家映画賞の監督賞と主演男優賞にも輝いている。低予算ながら興行的にも成功だったようで、2013年の重要な作品のひとつと言えるだろう。