
2025年5月1日公開のタミル語映画「Retro」は、「Jigarthanda DoubleX」(2023年/邦題:ジガルタンダ・ダブルX)などで日本でも人気急上昇中の奇才カールティク・スッバラージ監督の最新作である。スッバラージ監督がカンナダ語の大ヒット映画「K.G.F」シリーズ(2018年・2022年)のエッセンスをタミル語映画風に料理したらどうなるかを見せつけるような怪作だ。
音楽監督は「Kalki 2898 AD」(2024年/邦題:カルキ2898-AD)サントーシュ・ナーラーヤナン。主演は「Soorarai Pottru」(2020年/邦題:ただ空高く舞え)などのスーリヤー。彼はプロデューサー陣にも名を連ねている。ヒロインは「DJ: Duvvada Jagannadham」(2017年/邦題:仕置人DJ)や「Housefull 4」(2019年)などのプージャー・ヘーグデー。
他に、ジョージュ・ジョージ、ジャヤラーム、ナーサル、プラカーシュ・ラージ、ヴィドゥなどが出演している。また、「RRR」(2022年/邦題:RRR)にカメオ出演していたシュリヤー・サランがアイテムソング「Love Detox」でアイテムガール出演している。
タミル語オリジナル版に加えて、ヒンディー語、テルグ語、マラヤーラム語、カンナダ語の吹替版も同時公開された。鑑賞したのはヒンディー語吹替版である。
1960年、トゥーティコーリン。ギャングのボス、ティラガン(ジョージュ・ジョージ)の妻サンディヤーは子供がなく、殺された唖の子供を養子にする。その子の腹部には葉のような印があった。彼らはその子をパーリヴェル・カンナンと名付け、パーリと呼んだ。パーリは決して笑わない子供だった。サンディヤーの死後、ティラガンはパーリを殺し屋として育てた。
1993年、パーリは獣医ルクミニー(プージャー・ヘーグデー)と結婚することにした。ルクミニーは仏教徒であり、暴力を嫌っていた。パーリは結婚を機に殺し屋の仕事から足を洗おうとした。その際、彼はティラガンがアフリカのシエラレオネに密輸していた「ゴールドフィッシュ」を押収する。ティラガンはその在処をパーリに問いただすが、彼は答えなかった。ティラガンがルクミニーを殺そうとしたため、結婚式場でティラガンの一味とパーリの間で戦いが起きる。パーリはルクミニーの目の前でギャングたちを次々に殺し、父親の右腕を切り落とす。ルクミニーは絶望し、パーリは逮捕された。そのままルクミニーは家族と共に姿をくらました。
1998年、パーリはルクミニーがアンダマン&ニコバル諸島のブラック島にいるとの情報を得る。パーリは秘密カルトのファイターになる約束で人身売買マフィアの手引きを得て脱獄する。パーリはそのまま人身売買マフィアを打ちのめして逃げ出す。そして、笑いの医者チャップリン・ローリー(ジャヤラーム)を拉致し、彼自身が笑いの医者としてブラック島に診療所を開くという名目で上陸する。
パーリはルクミニーと再会するが、彼女は彼を許していなかった。パーリは島の人々を笑わそうとするが、自身が笑うことができず、なかなかうまくいかない。しかも島の人々も支配者によって奴隷扱いされており、顔に笑いはなかった。彼らはラジャヴェル(ナーサル)とマイケル(ヴィドゥ)という父子によって代々支配されていた。マイケルは「ラバー・カルト」という闘技場を作り出し、犯罪者と島の人々を戦わせて楽しんでいた。
パーリとルクミニーは次第に打ち解け、彼は笑うことができるようになった。だが、マイケルはパーリが脱獄したことやまだ暴力を行っていることをルクミニーに明かし、彼は振られてしまう。パーリはマイケルのカルトにファイターとして加わることを決意する。パーリは闘技で活躍し、マイケルに気に入られる。奴隷たちはパーリを暗殺しようとするが、彼の腹部にある印を見て急にひれ伏す。実はパーリはこの島の生まれであり、奴隷たちを解放してくれる救世主であった。ラジャヴェルは救世主の誕生を恐れ、奴隷の子供たちを殺していた。救世主には三叉の槍の印があるとされており、パーリの腹部にあったのはまさにそれだったのである。パーリは双子として生まれ、逃がされたために助かっていた。自身の出生の秘密を知ったパーリは実の父母とも再会する。
パーリは奴隷たちと協力してマイケルとラジャヴェルに反旗を翻す。マイケルを捕らえ、ラジャヴェルの邸宅に突入する。ラジャヴェルは奴隷に殺されるのを潔しとせず自殺する。知らせを聞いて島に来ていたティラガンは、マイケルを助け、軍勢を率いてパーリを攻撃する。だが、パーリは「ゴールドフィッシュ」を持って待ち構えていた。「ゴールドフィッシュ」とはバズーカ砲であった。ティラガンとマイケルは降参する。こうしてパーリとルクミニーはティラガンとマイケルも見守る中、結婚する。
「Retro」のストーリーの下敷きになっているのはクリシュナ神話である(参照)。冒頭でクリシュナ神話が語られるが、それがヒントになっている。マトゥラーの支配者カンサ王は、従兄妹デーヴァキーの8番目の子供に殺されるという予言を聞いて恐れ、デーヴァキーとその夫ヴァスデーヴァを幽閉し、デーヴァキーが生む子供を次から次へと殺していた。新月の夜に生まれた8人目の子供がクリシュナであったが、彼は父親ヴァスデーヴァによって密かに外に運び出され、親戚ナンダとヤショーダーの元で育てられることになった。成長したクリシュナは予言通りにカンサ王を殺す。
「Retro」の主人公パーリは、ヒロインのルクミニーを追ってたまたまブラック島までやって来たのだが、この島こそが彼の生まれ故郷であった。この島は英領時代から封建領主によって支配されており、住民たちは代々奴隷にされてきた。支配者のラジャヴェルは、腹部に三叉の槍の印を持つ子供に殺されるという予言を聞いてそれを恐れており、奴隷が生む子供たちをいちいちチェックしていた。パーリこそが救世主であったが、彼の出生は秘密にされ、密かに島の外部に運び出される。舞い戻ったパーリは予言通りに支配者を打倒し、奴隷たちを解放し、島に平和をもたらす。
とはいってもパーリの性格はクリシュナと正反対だ。クリシュナは女性にモテモテのチャーミングなキャラクターだが、パーリは生まれてから一度も笑ったことがないという堅物であった。当然、モテモテとは程遠い。育ての母親が死ぬと葬儀はヴァーラーナスィーで行われたが、そこでパーリが出会ったのがルクミニーだった。ルクミニーは仏頂面の彼に「笑うと最高よ」と言う。それが彼の初恋であり、一生続く最後の恋であった。映画の中でパーリが初めて笑ったのは、ブラック島でルクミニーと再会し、彼女から受け入れられたときだった。
「笑い」はストーリーの背骨になっている。主人公は中盤まで決して笑わないし、ブラック島の住民たちも先祖代々続く奴隷生活の中で笑いを忘れてしまっていた。その一方で笑いの医者チャップリンが登場し、笑いこそが万能の薬だと触れ回る。笑わないという特徴は、パーリの出生に秘められた秘密への伏線にもなっている。そして、クライマックスで、奴隷たちはロケットランチャーを肩に担ぎながら、支配者マイケルの前で大笑いする。その笑いはマイケルたちの士気をそぎ、彼らはひれ伏す。抑圧されていた者が笑いを取り戻すことでその抑圧を打破するという終わり方は、「Jigarthanda Double X」の終盤、警察の襲撃を受けながらも踊りながら死んでいったシーザーの姿と重なる。笑いこそが、病気のみならず、恐怖や臆病をも打破するというメッセージは、平和主義的な響きもある。
ただ、「Retro」は決して暴力を否定していなかった。暴力を否定する力は働いていた。それがルクミニーの存在である。ルクミニーはなぜか仏教徒という設定で、暴力を嫌っており、パーリにも非暴力主義を強いていた。育ての父親を手伝って殺し屋稼業をしていたパーリは、ルクミニーとの結婚を機にギャングから足を洗おうとするが、それは許されず、結局暴力の道に舞い戻ってしまう。ここでいったんルクミニーとの縁は切れる。だが、脱獄したパーリはルクミニーに会いに行き、笑いの医者として更生をアピールする。パーリが非暴力主義者になったことを信じられるようになったルクミニーは彼を受け入れようとするが、エキセントリックな悪役マイケルが現れ彼を挑発したため、やはり彼は暴力に巻き込まれてしまう。映画の中では、パーリが怒りを解放し暴力で発散している場面の方が多かった。
ストーリー展開はスピーディー、というより目まぐるしい。このスピード感には「K.G.F」シリーズの影響を強く感じる。あらかじめ伏線を張るよりも、現在の時間軸でとりあえず物語を進め、唐突に思える展開があったときに一瞬だけ回想シーンを差し挟んでなぜそうなっているのかを種明かしする手法が好んで採用されているが、これも「K.G.F」シリーズで見られたものだ。たとえば、パーリとルクミニーがどのように再会し結婚を決めたのかのエピソードもこの手法で語られていた。もちろん、世間と隔絶した島で殺し合いをゲーム化しているカルト組織が跋扈するような世紀末的設定も「K.G.F」シリーズそのままである。
映像的な挑戦としてどの観客の脳裏にも強く記憶に残るであろうシーンは、序盤にあるパーリとルクミニーの結婚式だ。この部分だけは15分ほどの長回しになっており、その時間の中で楽しげなダンス、緊迫感あるセリフの応酬、そして乱闘と暴力がカットなしで連続して映し出される。ちょうど「Retro」の公開前には世界中で、エピソード全体をワンテイクで撮ったNetflixドラマ「アドレセンス」が話題になった。時間的にその影響を「Retro」に見出すことはできないが、「Retro」では踊りが入っている分、より複雑な動きがある。スッバラージ監督らしい実験であり、それを見事に撮り切っている。
「Retro」は、見事なストーリーテーリングで定評のあるカールティク・スッバラージ監督が「K.G.F」的な手法と設定を駆使して作り上げた娯楽大作である。笑わない男が主人公の、笑いを主題にした映画だ。最初から最後まで超高速で進んでいくため、ついていくのに苦労するが、決して分かりにくい筋書きではない。そこがスッバラージ監督のうまいところだ。序盤の15分長回しシーンも必見である。興行的にも大ヒットしているが、それだけのことはある力作である。