しばらく大作の公開が控えられていたヒンディー語映画界だが、先週から堰を切ったように期待作・話題作の公開が続いている。2010年5月7日の週の目玉は、ヤシュラージ・フィルムスの「Badmaash Company」。監督は、元々テレビドラマ俳優として有名だったパルミート・セーティー。脚本も彼の手によるものだが、報道によると6日で一気に書き上げたものであるらしい。ここ数年堅実に良作にて好演をし続けているシャーヒド・カプールが主演の他、アヌシュカー・シャルマーがヒロインを務めていることで注目を集めている。デビュー作「Rab Ne Bana Di Jodi」(2008年)でいきなりシャールク・カーンと共演を果たし、映画もヒットしたが、その後出演作が途切れていた。「Badmaash Company」が彼女にとって第2作となる。他に目を引くのが東洋人風外見のメイヤン・チャン。インド生まれの中国人で、インディアン・アイドルという米国発タレント発掘番組インド版の第3期でファイナリスト10人の内の一人となった歌手である。本作が彼にとっての俳優デビューとなる。
監督:パルミート・セーティー(新人)
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:プリータム
歌詞:アンヴィター・ダット
振付:アハマド・カーン
衣装:アミーラー・パンヴァーニー、マムター・アーナンド
出演:シャーヒド・カプール、アヌシュカー・シャルマー、ヴィール・ダース、メイヤン・チャン、アヌパム・ケール、キラン・ジューネージャー、パワン・マロートラー、ジャミール・カーンなど
備考:PVRプリヤーで鑑賞。
1994年ボンベイ。大学を首席で卒業したカラン・カプール(シャーヒド・カプール)は、24年間真面目に会社勤めをしていた父親(アヌパム・ケール)のような人生を毛嫌いしており、手っ取り早く大金持ちになることを夢見ていた。大学の親友チャーンドゥー(ヴィール・ダース)とジン(メイヤン・チャン)と共に、ボンベイとバンコクの間で密輸品を運ぶキャリアーをして金を稼ぐ。このとき、同じくキャリアーとして密輸に参加していたモデル志望の女性ブルブル・スィン(アヌシュカー・シャルマー)と出会う。四人は意気投合し、フレンズ&カンパニーという会社を興して、リーボックのスニーカーをバンコクからグレーな方法で輸入する事業を始める。当時のインドでは輸入靴に120%の関税が掛かっていた。それを巧妙な手段により無関税で輸入する方法を編み出し、ボロ儲けしていた。また、カランはブルブルと恋仲になっていた。 ところが、マンモーハン・スィン財務大臣(当時)による経済開放政策が実施され、輸入品への関税が一気に引き下げられた。靴の関税も20%になってしまった。これでは商売あがったりである。四人は会社をたたんで米国へ移動する。米国ではカランの叔父ジャズが服飾品企業を経営しており、彼を頼っての移住であった。 カランはまず、革手袋をインドから輸入する事業に手を付ける。ただし普通の方法ではなく、米国人事業家チャーリーを手玉に取って大金をせしめる。次に住宅ローンを使って購入した家を次々に売買することでさらなる大金を得る。しかし、金に酔ったカランは次第に傲慢になって行く。まずはジンが抜け、次にブルブルが去り、最後にチャーンドゥーも米国人の恋人リンダとの安穏な生活を選んだ。 一人残されたカランはひとまずボンベイに戻る。そこで、25年勤務の表彰を受ける父親の姿を見て、真面目に働くことの大切さを実感する。そのまま米国にとんぼ返りしたカランは、住宅ローン詐欺の疑いで警察に逮捕される。何とか刑事裁判は免れたが、民事裁判によって半年の禁固刑となる。出所したカランは、叔父ジャズの会社で下働きをして地道に生活をする。 ジャズの計らいでカランはブルブルと再会する。ブルブルはカランの子を身ごもっていた。カランが改心して真面目な人間になったのを見たブルブルは、初めて妊娠を打ち明け、結婚を申し込む。二人は結婚することになる。 ところが同じ頃ジャズの会社が大きな危機に直面していた。マドラスから大量輸入したYシャツが、洗濯すると色落ちが激しく、返品されて来てしまったのである。この噂はたちまち市場に伝わり、会社の株価がガタ落ちした。カランは、かつての仲間たちを再び招集し、色落ちするYシャツを、「洗濯するごとに色が変わる新技術のYシャツ」として売り出す。しかもマイケル・ジャクソンのバックダンサーを務めていたチャーンドゥーの妻リンダの協力を得て、そのYシャツをマイケル・ジャクソンに着てもらう。たちまちの内にそのYシャツは大人気となり、株価も回復した。底値のときに大量の株を購入していたために、株価回復後に売却することで大きなボーナスも得る。 このことがきっかけで、カラン、ブルブル、チャーンドゥー、ジンはジャズの会社で働くことになり、カランは父親とも仲直りすることができた。
「大儲けをするには大きなアイデアが必要だ」という格言をもとに、アイデアひとつでインド、バンコク、米国を渡り歩いて派手に金儲けをする主人公の物語であった。時代設定は90年代であったが、古いインドと新しいインドの衝突と葛藤が根幹テーマとしてあり、それは近年のヒンディー語映画の潮流にモロに乗っている。古いインドの象徴は、アヌパム・ケール演じる父親である。ひとつの企業に25年間毎日真面目に勤務し、それを誇りに感じていた。だが、毎日同じ生活を送る父親の退屈そうな人生を見て、新しいインドの象徴である、シャーヒド・カプール演じるカランは、もっと手っ取り早い方法で成功を掴み取ろうとする。だが、カランは金の魔力に酔い、仲間を失い、恋人も失い、逮捕投獄され、全てを失う。その彼の心に響いたのは、25年の皆勤賞を受賞した父親の言葉「この25年間、稼いだお金の内、1銭も不正をして稼いだものではない」であった。父親は以前にもカランに「頭脳を正しく利用しなさい。そうすれば全てうまく行くだろう。しかし間違った利用をすれば、自らの首を絞めることになるだろう」と忠告していた。それらの言葉を思い出したカランは改心し、出所後は底辺の仕事を真面目にこなすようになる。この辺の展開は、正しく生きる大切さをべースにストーリーを構築する「インド映画の良心の法則」に則っている。しかし、辛気くさく映画が終了するのを避けるため、最後にカランのアイデアに活躍の場が与えられる。叔父の会社の危機をチャンスに変え、同時に離れて行ってしまった仲間の心も引き戻す。喧嘩別れした父親との仲直りもエンディングで描写され、ハッピーエンドで幕を閉じる。「悪党会社」という意味の題名の映画ではあるが、良心に訴える典型的なヒンディー語映画であった。
カランは劇中で主に4つのアイデアを実行する。その内、最初のアイデアは時代を反映していてなかなか興味深かった。かつてインドは高関税によって自国産業を守る社会主義的経済体制を採っていた。おかげで自給自足経済が浸透し、「ロケットから爪楊枝まで」自国生産をしていると言われていたが、国際競争から切り離され国に守られた各産業の発展は停滞することになった。高価ながら高品質な輸入品は国民全体の憧れの的であり、全ての人が手にできるものではなかった。ナイキやリーボックなど、国際ブランドのスニーカーも十分に憧れの対象であった。輸入靴には120%の関税が掛けられており、とてもじゃないか庶民の手が出るようなアイテムではなかった。今でも田舎にナイキやリーボックの大きなショールームが突然立っており、こんな田舎でも意外にスニーカーの需要があることに驚くが、それはこの頃に庶民がスニーカーに対して抱いていた羨望感が原因のようである。もっとも、今でも国際ブランドのスニーカーの価格は十分高く、ステータスシンボルとしての実体的な価値は失われていない。
そのような状況の中で、カランは、「靴は片方だけでは価値ゼロだ」という言葉からアイデアを思い付き、バンコクからリーボックのスニーカーを片方ずつ輸入し始める。バンコクのリーボックで購入した靴の片方のみを集めてインドのとある港へ、もう片方を別の港へ送り、インドの税関で片方しか届いていないことを理由に受け取り拒否するのである。税関で受取人が現れなかった荷物は、1ヶ月後に競売にかけられる。しかし、そこで片方だけの靴を買おうとする者は他におらず、最低価格で落札ができる。別々の港で片方だけの靴を落札し、それらをボンベイへ運んでひとつにする。すると、正式な手続きを踏んで輸入したスニーカーなのにも関わらず、無関税状態の低価格で売り出すことが可能となるのである。
この違法スレスレの商売は軌道に乗り、短期間で大金を稼ぎ出すが、すぐに大きな障害に直面する。当時財務大臣を務めていたマンモーハン・スィンが1991年に経済政策を大転換し、経済自由化に踏み切ったのだが、その余波が靴の輸入業にも拡大したのである。映画の時代設定は1994年で、既に経済自由化が実行された後であるが、おそらくストーリー上関連している靴への関税が大幅に引き下げられたのはそのタイミングだったのだろう。ちなみに、関税は120%から20%に引き下げられた。これでは商売にならないと考えたカランは潔くこのビジネスから足を洗い、新天地の米国へ旅立ったのである。
このひとつめのアイデアは時代を反映していてなかなか面白かったのだが、それ以後のアイデアと商売は現実感が希薄であった。次に取り掛かったのは革手袋の輸入。靴と同様に両方ないと価値がないという特殊性を使ったアイデアだったが、ここまで来ると詐欺である。まずはカランとブルブルが米国大手の手袋輸入企業の社長チャーリーから最安値で受注を取り付け、信頼を築く。チャーリーから大量注文を受けたことで行動開始。受注量の2倍を輸入し、片手のみの手袋をペアにしてチャーリーに納入し、金だけ受け取ってトンズラする。次にジンが中国人の振りをしてチャーリーを訪ね、片方のみの手袋を半額で買い取る。最後にチャーンドゥーが出て行って、両方の手袋を合わせてチャーリーに売りつける。カランは、しっかり品物をチェックしなかったチャーリーが悪いと弁明するが、詐欺であることには変わりない。その次にカランが思い付いたのは不動産を使った詐欺。まずはブルブルがローンを使って家を購入する。そしてすぐにその家を2倍の価格で売り出す。その家をジンがローンを使って購入し、その金の半分を使ってローンを返却した後、またすぐに2倍の価格で売り出す。このように仲間内で値段を倍々につり上げて行き、ローンの返済額を除いた差額を懐に入れて行くのである。最後にローンが返済し切れなくなって家は差し押さえになるが、その家の価値は元々売り出されていただけの価格程度しかなく、痛くもかゆくもないという訳である。しかし、現実にこのような詐欺がうまく行くとは思えない。
最後のアイデアは逆転の発想があってまあまあ面白かった。インド製の衣服で品質の悪いものは色落ちが激しいのだが、その色落ちの激しさを新技術として定義し直し、洗濯するごとに色が変化するYシャツとして売り出すのである。それだけでなく、当時存命中だったマイケル・ジャクソンを勝手に広告塔にしてしまうしたたかさも発揮した。米国人がこんな子供だましのアイデアに騙されるほど単純だとは思えないが、これは誰かを騙して金儲けをするような性格のものではなく、欠点を長所に変えて売り出す広告戦略であり、その点で、頭脳を正しく使うことを奨励するストーリーに適合していた。
以上のアイデアが象徴するように、ストーリーの出だしは好調なのだが、米国に渡ってからは単調な展開となる。ここまでカランのキャラクタースケッチや4人の主人公の人間関係の描写も十分ではなく、そのせいでカランの豹変や、仲間が一人また一人とカランのもとから去って行くシーンが唐突に感じられる。再び仲間と結集して返品された大量のYシャツを売り出す終盤の山場は何とかまとめられたという感じだ。後味が悪くならなかっただけでも合格点だと言える。総合的には佳作ぐらいの評価になるだろう。
主演のシャーヒド・カプールは堅実な演技で安定感があった。ヒロインのアヌシュカー・シャルマーは、デビュー作「Rab Ne Bana Di Jodi」とは打って変わって今回かなり大胆な衣装を身に付け、しかも勝ち気なチョイ悪女を演じており、大きなイメージチェンジとなっている。女優のトップまで登り詰めるほどのオーラは感じないが、女優としての成長は十分見られるため、このまま業界に定着して行けるかもしれない。チャーンドゥーを演じたヴィール・ダースは「Love Aaj Kal」(2009年)などへの出演経歴があるようだが記憶にない。根が優しげな顔をしているため、今回のような小悪党の役は荷が重かったように感じた。ジンに暴力を振るわれたリンダを気遣うシーンがもっとも彼自身の人間性をよく表していたと感じた。
ジンを演じた中国人俳優のメイヤン・チャンは、もし台詞を自分の声でしゃべっていたとしたら、十分にヒンディー語がうまく、ヒンディー語映画俳優として実用レベルであった。ジャールカンド州生まれのようなので、ヒンディー語がネイティブレベルであってもおかしくはない。彼が演じるジンは劇中で何度も「中国人」と揶揄されていたが、設定はスィッキム人である。インド東北部に主に住む、東洋系の顔をした人々は、通常のインド人から「チーニー(中国人)」と呼ばれ、まるで外国人であるかのように差別を受けることが多いが、ジンは自分がインド人であることを誇りに思っており、「インド」の名を冠したバーも開いていた。ヒンディー語映画界には、ダニー・デンゾンパやケリー・ドルジと言った、いわゆる東洋人系の顔をした俳優が少しだけ存在するものの、インド映画にメイヤン・チャンのような典型的な中国人顔をした俳優がおおっぴらに出て来ることは非常に珍しい。今回、彼が主人公4人の中に選ばれ、スィッキム人の立場からアイデンティティーに関する発言をいくつかしたことで、インドの中の「非インド系インド人」の存在が自ずからクローズアップされることになり、珍しい効果を生んでいた。昨今のインド映画で同様の問題に触れたのは、「Chak De! India」(2010年)くらいであろう。メイヤン・チャンが今後インド映画界の中で独自の地位を築いて行けば、面白いことが起こりそうだ。しかし、普通に考えたら、風貌が明らかに他の俳優と違うので、インド映画の枠組みの中では使い所の難しい俳優であろう。
他に、アヌパム・ケールが地味ながらも重要な役で出演しており、この映画の本質的メッセージを観客に伝えていた。「マイケル・ジャクソン」が2回出演し、2回目では伝説的なムーンウォークも披露していたが、当然本人ではなく、どこかからそっくりさんを連れて来たのであろう。
音楽はプリータム。彼らしいキャッチーな曲が多かったが、家に持って帰りたいようなレベルの良曲はなく、全て使い捨てのように感じた。音楽の弱さもこの映画の弱点のひとつに数えられるだろう。
時代背景についてはほとんど上で触れたが、もうひとつこの映画で時代を感じさせるものは固定電話であった。90年代という設定で、携帯電話は「サイエンスフィクションの世界」であったため、人物間の連絡は家庭用電話や公衆電話などの固定電話で行われる。カランが、女子寮に住んでいたブルブルに電話をする際も、彼女の個人用電話番号はなく、寮の電話に掛けるしかなかった。カランはお父さんを装ってブルブルを呼び出し、ブルブルも「お父さん」と呼びかけながら応答するのである。こういうシーンに懐かしさも感じるのだが、同時に、既に90年代が時代劇のような扱いになっていることに、時の流れの早さをひしひしと感じさせられた。
ちなみに、劇中ではムンバイーがボンベイと呼ばれていたが、ボンベイがムンバイーに変更されたのは1995年のことである。ボンベイという地名を毛嫌いする極右政党シヴセーナーへの当てつけのように、「1994年ムンバイー、おっと、この頃はまだボンベイだった」とナレーションが入っていた。
「Badmaash Company」は、90年代を舞台に、4人の若者がアイデアひとつで手っ取り早く金儲けをする物語である。だが、結局は真面目に働くことの価値が主張されており、「インド映画の良心」を地で行く娯楽映画となっていた。ストーリーや展開に弱さもあるが、つまらない映画ではない。インド生まれの中国人俳優がかなり重要な役で出演していることも珍しく、注目して然るべきであろう。