ラブ・ジハード

 「ジハード」というアラビア語の単語は、2001年の9/11事件以降、急速に世界中に広まった。日本語でもそのまま「ジハード」で通用するようになって久しいが、「聖戦」と訳されることも多い。世間の一般的な認識では、イスラーム教徒が異教徒と戦ってイスラーム教を拡大しようとする行為が「ジハード」であり、自爆テロなども「ジハード」の一環とされているとしていいだろう。

 「ジハード」という名詞は「努力する」という動詞から派生して出来ている。宗教的な文脈において「ジハード」は内面的な努力と外面的な努力に分けられ、特に外面的な努力が異教徒との戦いとして解釈されている。ちなみに、「ジハード」とセットで「ムジャーヒディーン」という言葉もよく普及した。「聖戦士」などと訳されることもあるが、これは「ジハードを行う者たち」という意味になる。

 インドは、イスラーム教を国教とする姉妹国家パーキスターンとの対立や、カシュミール問題などの理由から、イスラーム教過激派や原理主義者たちによるジハードにさらされてきた国だ。国是としてセキュラリズム(世俗主義)を掲げているものの、多数派を占めるのはヒンドゥー教徒であり、内外のイスラーム教徒にとってインドは「異教徒の国・政府」としてターゲットになりやすかった。これまでイスラーム教徒テロリストによるハイジャック事件、爆弾テロ事件、襲撃事件がいくつも起こってきた。

 そんな中、2009年頃から「ラブ・ジハード(Love Jihad)」という用語をメディアでチラホラ目にするようになった。「国際ロマンス詐欺」と同じ響きを持った言葉だが、決して過小評価していいものではない。「ラブ・ジハード」という行為、より正確にいうならば、「ラブ・ジハード」に対する恐怖感が、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で宗教対立の火種になっており、その防止のために立法も行われるなど、大真面目に捉えられている。

 「ラブ・ジハード」とは、イスラーム教徒男性が、ヒンドゥー教徒などの非イスラーム教徒の女性と意図的に恋愛関係になり、彼女をイスラーム教に改宗させて結婚し、子供もイスラーム教徒として育てる一連の行為をいう。その目的は、非イスラーム教徒の人口減と、イスラーム教徒の人口増だとされる。最終的にはインドの宗教人口比をひっくり返し、イスラーム教徒が多数派の国を目指しているとさえ警告される。自爆テロなど、異教徒の殺傷を伴うジハードを「ハード・ジハード」と位置づけるならば、婚姻によってイスラーム教徒を増やすジハードは「ソフト・ジハード」だ。

 当然、インドでは異宗教間の結婚は合法である。また、イスラーム教徒と非イスラーム教徒が結婚する際、イスラーム教徒が別の宗教に改宗するよりも、非イスラーム教徒がイスラーム教に改宗するケースの方が多いのも確かだ。だが、「ラブ・ジハード」という言葉は、それがイスラーム教徒によって組織的に、かつ強制的または詐欺的に行われているという恐怖をヒンドゥー教徒の間に植え付けるために使われることが多い。実際にイスラーム教徒の個人や団体がそのようなコンセプトの下に異教徒との結婚を推進しているかどうかは別の話である。

 統計上、分離独立以来、ヒンドゥー教徒の人口は漸減し続け、イスラーム教徒の人口は微増傾向にあることは事実である。独立直後の1951年にヒンドゥー教徒の人口は全体の84.1%、イスラーム教徒は9.8%だったが、2011年にはヒンドゥー教徒は79.8%に減り、その代わりにイスラーム教徒は14.2%に増えている。つまり、独立後60年の間にヒンドゥー教徒の人口は4ポイント減り、イスラーム教徒の人口は4ポイント増えた。

 とはいっても、イスラーム教徒の人口がヒンドゥー教徒の人口を圧倒する日がすぐに来ることはないのも統計を見れば明らかだ。それにもかかわらず、多数派のヒンドゥー教徒の間には漠然とした不安があり、「ラブ・ジハード」という言葉はその不安を巧みに刺激する。

 ヒンドゥー教至上主義を掲げるインド人民党(BJP)は、ラブ・ジハードをヒンドゥー教徒の票田作りに活用している可能性がある。BJPが与党のウッタル・プラデーシュ州では、2017年に「女性の安全を守るため」と称して「アンチ・ロミオ部隊」が設立された。公共の場でいちゃつく男女を取り締まるのが仕事だが、真の目的はイスラーム教徒男性によるラブ・ジハード防止だとされている。さらに同州では2020年に違法改宗禁止条例(Prohibition of Unlawful Religious Conversion Ordinance)が成立し、改宗を伴う結婚に対して強い規制が掛けられるようになった。法令上は特定の宗教コミュニティーをターゲットにしたものには見えないが、明らかにイスラーム教徒が行っていると勝手に決め付けているラブ・ジハードの規制を目的にしたもので、ヒンドゥー教徒の女性たちを守る姿勢を鮮明にし、支持につなげる狙いがある。


 もっとも、ヒンディー語映画界は昔から異宗教間結婚が恒常的に行われてきた業界だ。例えば「キング」シャールク・カーンはイスラーム教徒だが、妻のガウリーはヒンドゥー教徒である。「ミスター・パーフェクト」アーミル・カーンはやはりイスラーム教徒だが、彼の元妻キランはヒンドゥー教徒だった。ガウリーもキランも結婚に際して改宗はしていないはずである。カリーナー・カプールはヒンドゥー教徒だが、イスラーム教徒のサイフ・アリー・カーンと結婚した。彼女についてもヒンドゥー教徒のままといわれている。

 ただ、ヒンディー語映画界には確かに異宗教間結婚をして改宗した者もいる。サイフ・アリー・カーンの母親シャルミラー・タゴールはヒンドゥー教徒だったが、イスラーム教徒のマンスール・アリー・カーンと結婚する際に改宗した。しかし、そのような例は意外に少数である。

 イスラーム教への改宗が重婚に利用される生々しい例が見られるのもヒンディー語映画業界である。サニー・デーオールなどの父親ダルメーンドラは既婚であったが、「Sholay」(1975年)などで共演したヘーマー・マーリニーと恋に落ち、現行の妻と離婚せずに彼女と結婚しようとした。インドでは宗教ごとに民法が分かれており、イスラーム教徒男性は4人までの女性と同時に結婚をすることができる。そのため、ダルメーンドラはヘーマーと共にイスラーム教徒に改宗し、合法的に彼女を2人目の妻として迎え入れた。そこに宗教に対する敬虔さや真摯さは全く感じられない。

 このような業界であるため、基本的にヒンディー語映画はラブ・ジハード陰謀論に対しては否定的である。異宗教間結婚はドラマチックに描かれることもあるが、イスラーム教徒が組織的にヒンドゥー教徒などの女性を狙っているとするラブ・ジハードを裏付けするような言説は見られない。「Afwaah」(2023年)ではラブ・ジハードが登場するが、これも政治的な陰謀の一環で、実際にラブ・ジハードが起こっていたわけではない。「The Great Indian Family」(2023年)にもラブ・ジハードの言及があったが、批判的な論調だった。

Afwaah
「Afwaah」

 上述のアンチ・ロミオ部隊も映画に時々登場するが、やはり批判的または風刺的な描写が大半である。例えば「Hotel Milan」(2018年)や「Operation Romeo」(2022年)にアンチ・ロミオ部隊が登場したが、アンチ・ロミオ部隊を支持する内容ではない。ヒンディー語映画界は基本的に恋愛を後押しし、異宗教間結婚も認める立場である。

Operation Romeo
「Operation Romeo」

 そんな常識を打ち破ったのが「The Kerala Story」(2023年)だった。スディープトー・セーン監督はまず、「In the Name of Love!」(2022年)というドキュメンタリー映画にて、ケーララ州で多くの女性がラブ・ジハードの被害に遭っている現実について警鐘を鳴らした。そして翌年に公開されたこのフィクション映画「The Kerala Story」で、より広く人々にこの問題を訴えかけた。この映画は必ずしも完成度が高くなかったものの、スキャンダラスな内容が受けて大ヒットし、大きな影響力を持つことになった。

The Kerala Story
「The Kerala Story」

 「The Kerala Story」では、単にラブ・ジハードの目的がヒンドゥー教徒女性などの改宗によるイスラーム教徒の人口増加だけではなく、テロリストの供給でもあることが主張されていた。ラブ・ジハードの被害に遭って改宗した女性は、テロリストの妻にされたり、自身が自爆テロリストになったりするのである。より深く掘り下げられてはいたが、イスラーム教徒への憎悪をさらに煽る内容にもなっており、批判的に観る必要がある。