バガト・スィン

 インドは長らく英国の植民地になっていたものの、民族自決を信じる独立活動家(フリーダムファイター)たちが独立運動を行い。その結果、東西パーキスターンの分離という痛みは伴ったものの、1947年に独立を勝ち取った。子供たちは学校でその歴史を叩き込まれるため、大半のインド人は独立活動家たちの献身的な活動と独立の達成を誇りに思っている。

 20世紀前半のインドで活躍した独立活動家の中で日本でも知名度の高いのは、モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー、通称マハートマー・ガーンディーであろう。「インド独立の父」の異名を持つガーンディーは、南アフリカ在住時代に人種差別撤廃運動を主導する中で確立した非暴力不服従の理論をインド帰国後も活用すると同時に、塩や糸車といった分かりやすいシンボルを使って、一部インテリ層の活動だった独立運動を庶民の間に広げ大衆化し、最終的に英国植民地政府に独立を認めさせた。「独立闘争」とはいうものの、20世紀のインドにおいて英国植民地政府に対する本格的な武装蜂起があったわけではない。独立を実現するために血は流れたため「無血開城」とまではいかないが、比較的穏便な形で英国人がインドの支配権をインド人に委譲できたことは、ガーンディーが打ち立てた非暴力の理念に依るところが大きい。

 ただ、必ずしも全ての独立運動家たちがガーンディーの手法に賛成だったわけではない。例えば「ネータージー(指導者)」の愛称を持つスバーシュチャンドラ・ボースは、武力によるインド独立を追求し、亡命の末に日本軍と連携してインパール作戦を実行した。それより前には、ラーシュビハーリー・ボースらによる爆弾テロ事件もあった。ラーシュは新宿中村屋の娘と結婚し、「中村屋のボース」と呼ばれた。

 インドは、仏教やジャイナ教を生んだ宗教的土壌から非暴力が尊重される一方で、力に物を言わせる男性的な価値観ももてはやされる国で、独立運動家の中でも武力による独立の道を選んだ人物には根強い人気がある。先述のスバーシュチャンドラ・ボースも地元ベンガル地方を中心に非常に人気があるのだが、殊にヒンディー語映画界となると、一番人気はバガト・スィンである。日本人にはほとんど知られていない独立活動家であろうが、インドでは様々な場面で彼の顔や名前を目にする。

バガト・スィン
バガト・スィン

 バガト・スィンは1907年に旧パンジャーブ州ライヤルプルで生まれた。幼少時から独立運動に強い関心を示し、当初はガーンディーの非暴力不服従による独立運動を支持したが、アムリトサル虐殺事件などを経て過激派に転向し、英国人警察官の殺害に関与して潜伏生活を送った。バガトは23歳という若さで亡くなったが、彼の短い生涯の中でもっとも有名な事件は、デリー中央議事堂爆弾投下事件である。1929年4月8日、バガトは同志バトゥケーシュワル・ダットと共にデリーの中央議事堂に現れ、議会進行中に2つの爆弾を議事堂の床に投下した。そして二人はその場に留まり、「インキラーブ・ズィンダーバード(革命万歳)!」というスローガンを連呼した。バガトとバトゥケーシュワルは逮捕され、公判によって無期懲役が言い渡された。その後、バガトは英国人警官殺害の罪にも問われ、共謀者のシヴァラーム・ラージグルとスクデーヴ・ターパルと共に死刑が宣告された。彼らの死刑は1931年3月23日に執行された。

 バガト・スィンの短い生涯は伝説と化して人々の間で語り草になっている。たとえばバガト・スィンはスィク教徒(参照)であり、髪を伸ばしてターバンを着用していたが、英国人警官を殺害し逃亡するときには、その髪を切って洋装し、官権の目を逃れたとされている。爆弾投下事件を起こして逮捕された後、バガトは「政治犯」であると自称し、牢屋で仲間たちと共に待遇改善を求めてハンガーストライキを行い、無理矢理食べ物を食べさせようとする看守たちに抵抗した。このハンガーストライキの様子は新聞などで盛んに報道され、インド人庶民の共感を呼び、独立の気運を高めたといわれている。死刑執行日の朝、バガトはレーニンの伝記を読んでおり、刑場に連れにきた看守に対して読み終わるまで少し待つように頼んだという。また、絞首刑になる前にバガトはラージグルとスクデーヴと抱擁し合い、首吊り縄にキスをして、「インキラーブ・ズィンダーバード」とスローガンを叫んで勇敢な最期を遂げた。

 法による支配を敷いていた英国側から見たらバガト・スィンは犯罪者でありテロリストであるが、英国人の圧政に苦しんでいたインド人側から見たら、自らの命を犠牲にして英国人の横暴とインド独立の正当性を訴えた英雄に他ならない。最大限の尊敬を込め、「シャヒード(殉死者)」の称号と共に呼ばれることもある。

 そんなこともあって、バガト・スィンはガーンディー以上に映画の中で言及されやすい人物だ。彼の伝記映画も今まで何本も作られているが、21世紀のヒンディー語映画の中ではアジャイ・デーヴガン主演の「The Legend of Bhagat Singh」(2002年)とボビー・デーオール主演の「23rd March 1931: Shaheed」(2002年)が代表である。これらは奇しくも同日に公開された。さらにこれらよりも早く同年にはソーヌー・スード主演の「Shaheed-e-Azam」(2002年)も公開されている。2002年には実に3本ものバガト・スィン映画が公開されたのである。ただし、どれもそれほどヒットした映画ではない。

The Legend of Bhagat Singh
「The Legend of Bhagat Singh」

 バガト・スィンが登場する大ヒット映画というと「Rang De Basanti」(2006年)が挙げられる。バガト・スィンがメインキャラの映画ではないが、スィッダールトがバガト・スィン役を熱演した。「Rang De Basanti」は2000年代を代表する名作青春群像劇なのだが、バガト・スィンをはじめ、日本人にはあまり馴染みのない独立運動家たちが多数登場するため、日本市場で受け入れられにくい点が残念である。

Rang De Basanti
「Rang De Basanti」

 さらに、過去に目を転じると、「Shaheed Bhagat Singh」(1963年)にてシャンミー・カプールが、「Shaheed」(1965年)にてマノージ・クマールが、「Amar Shaheed Bhagat Singh」(1974年)にてスニール・ダットの弟ソーム・ダットがバガト・スィン役を演じている。

 最近では大ヒット映画「RRR」(2022年/邦題:RRR)のスタッフロール曲「Etthara Jenda」の歌詞でバガト・スィンが「パンジャーブ地方の雄牛」として歌われていた。

Etthara Jenda
「RRR」の「Etthara Jenda」

 バガト・スィン映画の定番曲というのも存在する。それはバガト・スィンにも思想的に影響を与えた独立運動家ラームプラサード・ビスミルが作った詩をメロディーに乗せたものだ。「Sarfaroshi Ki Tamanna(自己犠牲の願望)」と「Mera Rang De Basanti Chola(私の服を黄色に染めてくれ)」である。後者は先に紹介した映画「Rang De Basanti」の題名にもなっている。

 そういうわけで、最後に「Sarfaroshi Ki Tamanna」の最初の一節を紹介する。この詩は1921年のアムリトサル虐殺事件を受けて書かれたとされている。

सरफ़रोशी की तमन्ना अब हमारे दिल में हैサルファローシー キ タマンナー アブ ハマーレー ディル メン ハェ
देखना है ज़ोर कितना बाज़ू-ए-क़ातिल में हैデークナー ハェ ゾール キトナー バーズーエカーティル メン ハェ

今、自己犠牲の願望が私の心にある
敵の腕にどれだけ力があるか見物だ