日本のメディアがインド映画について紹介する際、「キスは御法度」という説明を加えることがあるのだが、これは完全な間違いである。確かにキスが規制されていた時代は一時的に存在するのだが、黎明期から現代まで、インド映画には数多のキスシーンが存在する。一方、ヌードは話が別だ。セミヌードシーンこそあれ、女性の乳首や男女の性器などの局部が露出した完全なヌードシーンはインド映画にはほとんど存在しないと考えていい。
しかしながら、いくつか例外もある。今まで多くのインド映画を観てきた中で、局部の露出を伴うインド映画を全く目にしなかったわけではない。
まず、「インド映画」という言葉を広く取って、「インド系の監督がインドを主題にして撮った映画」ということにした場合、真っ先に思い出されるのがミーラー・ナーイル監督の「Kama Sutra: A Tale of Love」(1996年)である。この映画は「カーマ・スートラ 愛の教科書」という邦題と共に日本でも劇場一般公開されたので、知っている人も一定数いるだろう。
インドの古典的な性愛奥義書である「カーマスートラ」を題名に冠しているだけあり、エロティックな主題の映画であり、性的な描写も多い。ナーイル監督はインドで生まれ育っているものの、米国に渡りニューヨークを拠点に活動する映画監督だ。また、劇中でヌードシーンやセックスシーンを演じた女優たちはインド系移民の子孫である。撮影はインドで行われているものの、言語は英語であり、ナーイル監督は最初からインドでこの映画を上映することを考えていなかったと思われる。よって、いくら便宜的に「インド映画」の範疇を広げたとしても、「Kama Sutra」の存在をもって「インド映画にヌードシーンがある」と主張することは不可能だ。案の定、この映画はインドで上映を禁止された。
「Kama Sutra」より前の映画に「Bandit Queen」(1994年/邦題:女盗賊プーラン)がある。この映画には複数のレイプシーンの他、主演スィーマー・ビシュワースが裸で公衆の面前に立たされるシーンがあり、ほとんどヘアヌードだ。国際版ではそのシーンも入っているが、インド公開版ではそれらのシーンはカットされて公開されたようである。
インドの一般的な映画館で上映されたインド映画の中で一本だけ、女性の乳首の露出を見た映画がある。それは「Sins」(2005年)という映画である。カトリック教会の神父が若い女性と性的関係を持つという、実話に基づく物語で、筋書きからしてエロティックなのだが、映像的にもかなり攻めており、ヒロインのスィーマー・レヘマーニーの乳首が2、3回露出していた。インド映画で乳首の露出があるとは露にも思っていなかったので、かなりの衝撃を受けた。これをもって乳首露出が解禁されたのかと思ったのだが、その後に続く映画はなく、今になって思えば単なる事故だった可能性が高い。
一般公開された映画において女優が乳首を露出した例は、個人的な記憶では上記の「Sins」のみなのだが、「インドで開催された映画祭で上映されたインド映画」に範囲を広げると、もう少し例が見つかる。性的な描写においてもっとも先進的なのはおそらくベンガル語映画界で、Q監督の「Love In India」(2009年)や「Gandu」(2010年)にその片鱗を見出せるが、群を抜いているのはアミターブ・チャクラボルティー監督の「Cosmic Sex」(2012年)だ。性的な主題をスピリチュアルに昇華させた映画で、ヒロインのリーはヘアヌードまで披露し、インド映画の境界を押し広げた。しかし、ベンガル語映画は全く門外漢なので、「Cosmic Sex」の後、ベンガル語映画界において性描写がどのような展開を見せたのかは不明である。
ちなみに、意外にインドの観客は真面目で、映画にヌードシーンが登場すると、怒って映画館を出て行ってしまう人がいる。「Sins」や「Cosmic Sex」の鑑賞時に、映画の途中で席を立つインド人観客の姿を目撃した。
過激な性描写は、OTTプラットフォームでやりやすくなっている。なぜなら検閲の対象になっていないからだ。たとえば、ウェブドラマ「Forbidden Love」(2020年)では女性の乳首が堂々と映し出されていた。
ヌード事件
基本的にインド社会はヌードに対して厳しく、その価値観は映画の外でも適用される。今まで映画俳優のヌードを巡っていくつかの事件が起きてきた。
例えば男優ミリンド・ソーマンのヌード写真は今でも語り継がれている。ミリンドがまだ俳優ではなくスーパーモデルとして知られていた1995年、以下のような広告写真が発表され、物議を醸した。相手は1992年のミス・インディア、マドゥ・サプレーで、タフ・シューズ社の広告だった。二人とも靴しか身に付けていない状態で抱き合っており、大蛇が二人の間に絡まっている。
まだ経済自由化されて間もない頃で、インド社会にもまだまだ耐性がなかった。猥褻物陳列容疑に加えて動物虐待の訴訟も起こされたが、結局二人が罰せられることはなかった。
ミリンドは最近も再びヌードで話題になった。2020年11月4日、ミリンドが自身の55歳の誕生日に、裸でビーチを走っている写真をSNSにアップロードしたのである。
今回は靴を履いておらず、足の先まで完全な全裸だったことも人々の目を引いた。
アーミル・カーンもヌードで話題になった男優だ。「Ghajini」(2008年)で見事な上半身を披露したアーミルは、「PK」(2014年/邦題:PK ピーケイ)で完全な全裸になり、ポスターでもその姿を露にした。カセットプレーヤーのみが彼の名誉を守っている。
やはりこのポスターを「猥褻」だとして、ポスターの撤回やアーミルが全裸になるシーンの削除を裁判所に訴える人が現れたが、最高裁判所はこの全裸の姿を「創造性の一部」として、訴えを却下した。
ランヴィール・スィンのヌード写真事件も記憶に新しい。2022年、印Paper誌にランヴィール・スィンのヌード写真が掲載され、物議を醸した。1972年の米コスモポリタン誌に掲載された男優バート・レイノルズのヌード写真のオマージュとされている。
多分に漏れず、ランヴィールは「女性の情緒を侵害した」として訴訟を起こされたが、多くの女性たちは、「私は女性だが、情緒は侵害されていない」として、勇気を持ってヌードを披露したランヴィールを支持した。この写真のおかげでランヴィールは「今もっともセクシーなインド人男優」の称号を獲得した。
これまで男性のヌード写真ばかりを紹介してきたが、もちろん、インドでも女優のヌードが問題になることもある。ただ、男優のヌードがジョークとして片付けられやすいのに対し、女優のヌードの場合は問題が大きくなり過ぎることが多い。
ヒンディー語映画史の各時代には「セックスシンボル」と呼ばれる女優がおり、それぞれその時代の限界に挑戦してきた。21世紀に入ってからも、ビパーシャー・バス、マッリカー・シェーラーワト、サニー・リオーネなど、入れ替わり立ち替わり「セックスシンボル」と呼ばれる女優たちが登場し、「スキンショー(肌見せ)」と呼ばれる見所を提供してきた。
ただ、サニーは元ポルノ女優なので別格だが、その他のいわゆる「セックスシンボル」女優たちが映画の外でヌード写真などで物議を醸した話はあまり聞かない。むしろ、十分な知名度を獲得すると、露出度競走から下り、正統派の女優を目指し始めることの方が多い。
2010年代にヌードで話題になった女優といえばプーナム・パーンデーイだ。ただ、女優と呼んでいいか、戸惑いもある。なぜなら彼女は、ヌード騒動で名を売って映画での主演を勝ち取ったからであり、女優としてヌードを披露したわけではないからだ。
プーナムが最初に知名度を獲得したのは、2011年のクリケット・ワールドカップのときだった。元々モデルをしていた彼女は、ワールドカップでインド代表が優勝したらヌードになるとSNS上で宣言し注目を集めた。しかも、幸か不幸か、このときインド代表は本当に優勝してしまう。インド中の視線がプーナムに集まり、「脱ぐか、脱がないか」が騒がれることになった。
結局このときプーナムは脱がなかったのだが、その後も、突然「10月13日はノーブラの日」と宣言してノーブラ写真をアップロードしたり、クリケット選手をヌードのご褒美で応援するキャラを継続したり、そしてエロティックな映画に出演したりもして、すっかりお騒がせ女優として定着した。彼女のTwitterをのぞくと度々セミヌード写真がアップロードされているし、時々有名人に噛みついたり事件を起こしたりして、常に話題作りをしている。
2020年代に入って、プーナム・パーンデーイの路線を継承する女優が新たに登場した。ウルフィー・ジャーヴェードである。今のところTVドラマ女優に留まっているが、露出度の高い奇抜なファッションをすることで世間の注目を集めており、「第二のプーナム・パーンデーイ」だといえる。物好きなプロデューサーや監督が彼女を映画に起用するのも時間の問題であろう。
ただ、あくまで彼女は、関心があるのはファッションだとしており、将来的にヌードになることはないと述べている。