
スィッデーシュワリー・デーヴィー(1908-77年)は伝説的なヒンドゥスターニー歌手であった。特にトゥムリーに長けており、「トゥムリー女王」の称号をほしいままにした。彼女の死後に著名な映画監督マニ・カウルが撮った「Siddheshwari」は、スィッデーシュワリー・デーヴィーのドキュメンタリー映画である。この映画の公開年月日については情報が乏しく、1989年とも1990年ともされている。この映画は、国家映画賞の最優秀ドキュメンタリー映画賞を受賞した。
「ドキュメンタリー映画」とはいっても、スィッデーシュワリーの人生や音楽性をインタビューや音源などを使って分かりやすく再現し、彼女の功績をたたえようとした作品ではない。カウル監督自身はこの作品を「ポエティック・ドキュメンタリー」と呼んでいる。左脳ではなく右脳を使って詩的に鑑賞することを求められるドキュメンタリー映画であり、ボーッと観ていると誰がスィッデーシュワリーなのかもよく分からないまま映画は終わってしまう。
理解の手助けになるのは冒頭にヒンディー語と英語で表示される解説文である。この時点では何のことだかよく分からないのだが、一通り見終わった後に再びこの解説文を読み返すと、それぞれのシーンが何を表現していたのかが分かるようになる。事前にスィッデーシュワリーの生涯を調べておくとより分かるようになるが、逆にいえば、事前学習を必要とする伝記ドキュメンタリー映画というのはかなり観客を選ぶ作品だ。スィッデーシュワリーは単なるオブジェであり、カウル監督はこの映画によってドキュメンタリー映画の新たな形を創造しようとしたに違いない。
1908年8月8日にヴァーラーナスィーで生まれたスィッデーシュワリーは、幼い頃に両親を亡くし、叔母であり著名な歌手でもあったラージェーシュワリー・デーヴィーによって育てられた。ラージェーシュワリーの娘カムレーシュワリーはサーランギー奏者スィヤージー・ミシュラーから歌唱の手ほどきを受けていたが、スィヤージーはその様子を横から見ていたスィッデーシュワリーの方に才能を見出し、彼女の訓練をし始めたという。スィッデーシュワリーの名声はオール・インディア・ラジオで歌を歌うようになって全国に広まり、王族から庶民まで彼女の声は愛されることになった。
彼女のこのようなプロフィールが映画の中で紹介されることはない。彼女の人生に起こった重要なターニングポイントが詩的な映像によって表現されている。人物以上に風景や品物に焦点が当てられており、あたかもスィッデーシュワリーよりも、ロケ地となっているヴァーラーナスィーを芸術的に捉えようとしているかのようである。また、バックグラウンドではスィッデーシュワリー自身の歌声が流れ続ける。時折、本人の写真も差し挟まれる。
映画の中で若年期のスィッデーシュワリーを演じているのが当時ほぼ新人だったミーター・ヴァシシュトである。スィッデーシュワリーがガンガー河で裸になって泳ぐシーンがあるのだが、そこで彼女は乳首を露にしており、物議を醸した。
「Siddheshwari」は、他に類を見ないような前衛的なドキュメンタリー映画である。ヒンドゥスターニー歌手スィッデーシュワリーの伝記ではあるが、彼女の人生は客体化されており、ヴァーラーナスィーを映し出した映像や彼女が生前に録音した音源によって、美が追究されている。よって、この映画を観てもスィッデーシュワリーのことがよく分かるわけではない。あくまで芸術映画として鑑賞すべき作品である。