Nazar Andaaz

3.5
Nazar Andaaz
「Nazar Andaaz」

 2022年10月7日に公開された「Nazar Andaaz」は、盲目の老人と2人の小悪党が主人公のヒューマンドラマである。ヒンディー語映画では盲人を取り上げることが多く、21世紀だけに限定しても、「Aankhen」(2002年)、「Black」(2005年)、「Golmaal」(2006年)、「Lafangey Parindey」(2010年)、「Dhanak」(2016年)、「Kaabil」(2017年)、「Andhadhun」(2018年)など、多くの例が挙げられる。

 監督は新人のヴィクラーント・デーシュムク。キャストは、クムド・ミシュラー、アビシェーク・バナルジー、ディヴィヤー・ダッター、ラージェーシュワリー・サチデーヴなどである。

 舞台はムンバイー。こそ泥のアリー(アビシェーク・バナルジー)は、盲目の大富豪スディール(クムド・ミシュラー)と出会い、彼の家に招かれ、泥棒を止めることを条件に庭師の仕事を与えられる。その家には、同じく怪しい見た目の女性バヴァーニー(ディヴィヤー・ダッター)もメイドとして仕事をしていた。スディールは弁護士と共に遺書を作成しており、遺産の相続者を決めようとしていた。アリーもバヴァーニーも遺産を手に入れるため一生懸命スディールに尽くす。

 あるときスディールはグジャラート州の港町マーンドヴィーへ行くと言い出す。マーンドヴィーは彼の生まれ故郷だった。アリーとバヴァーニーは彼に付いていくことになる。サイドカーの付いた黄色いスクーターに乗り、彼らはマーンドヴィーを目指す。

 マードヴィーに着いたスディールがまず訪れたのは、青春時代の元恋人モーヒニー(ラージェーシュワリー・サチデーヴ)であった。音楽家を目指したスディールは、ムンバイーへ移住した師匠を追って、モーヒニーを後にした過去があった。久しぶりに出会った二人は話し込む。

 次にスディールが生家を訪ねる。既に廃墟になっていたが、彼は子供の頃の思い出を思い出す。スディールは子供の頃から走るのが夢だった。それを知ったアリーとバヴァーニーは彼を広大な荒れ地に連れて行く。スディールは思い切って走り出すが、途中で倒れてそのまま息を引き取ってしまう。

 葬儀後、弁護士に連れられ、アリーとバヴァーニーはマハーラーシュトラ州カンダーラーへ行く。そこにはスディールが密かに経営していた盲学校があった。スディールの遺志を継ぎ、アリーとバヴァーニーは盲学校の子供たちの世話をすることになる。

 題名の「Nazar Andaaz」に全てのエッセンスが詰め込まれた映画だった。これは普通に訳すと「無視」という意味になる。日本語だと「見て見ぬ振り」というニュアンスになるが、ヒンディー語のこの熟語を逐語訳すると「見るだけ」という方が近い。なぜなら「Nazar」は「視線」、「Andaaz」は「仕草」「態度」みたいな意味だからだ。「見るだけ見て何もしない」という状況から「無視」という日本語訳が導き出される。

 それとは対照的に、物語の中心的なキャラは全盲の盲人スディールである。しかも生まれつきの盲人であるため、生まれてこの方、この世界を見たことがない。無視をする前に視力が無いし、見えることがどういうことなのかも分からないのである。しかし、目が見えないスディールは、縁あって関わった人物を無視しなかった。

 スディールの家には、こそ泥のアリーと、これまた出自の怪しい女性バヴァーニーが住み着くことになった。師匠の音楽家から莫大な資産を受け継いだスディールは、この二人にとってヨダレが出るほどおいしい獲物であった。だが、スディールは彼らに全幅の信頼を置き、家の仕事を任せる。確かに彼らは小悪党かもしれなかったが、スディールの目は彼らの内面に良心と才能を見たのである。実際、彼らはスディールに尽くすようになる。当初はスディールの遺産目当てではあったが、次第にスディールの人柄に感化されていく。

 スディールはアリーとバヴァーニーに連れられて故郷マーンドヴィーを訪れる。そこで彼は青春時代の元恋人モーヒニーと久しぶりに再会する。モーヒニーはスディールに、「あなたの『Nazar』と『Andaaz』はちっとも変わっていない」と言う。スディールが「どう変わっていない?」と聞くと、モーヒニーは「『Andaaz』はいいけど、『Nazar』は悪いまま」と答える。つまり、人柄は変わっていないが目は治っていない、ということを言いたいのだろう。ここでも題名「Nazar Andaaz」が引き合いに出されていた。このシーンはこの映画の最大の山場であり、おそらく監督がもっとも観客に見せたいシーンではなかろうか。

 終盤にスディールは突然死し、アリーとバヴァーニーは彼が密かに経営していた盲学校に連れて行かれる。スディールの遺言の中で、彼らは盲学校の子供たちの面倒を頼まれると同時に、子供たちの中に少しでも潜在性を見つけたら「無視」しないで育ててやって欲しいということを頼まれる。

 スディールは、アリーやバヴァーニーのような小悪党にも良心と才能を見出し、彼らを受け入れた。それと同じように、盲人を盲人だからといって無力扱いするのではなく、彼らの中にも公平に才能を見出して欲しいというのが、スディールのメッセージであり、この映画に込められた監督からのメッセージにもなる。

 スディールを演じたクムド・ミシュラーは、普段は主人公のお父さんなど、脇役として活躍する俳優だ。だが、彼の持つ高い演技力はそんな脇役を演じていても強く滲み出ていた。今回、盲人を主演し、しかも見事な演技で演じ切ったことで、彼の評価はさらに高まることだろう。

 アビシェーク・バナルジーはキャスティング・ディレクターが本業のはずだが、時々端役でキラリと光る演技を見せる曲者俳優でもある。やはり彼にとっても主演に近い役柄はやりがいがあったはずで、タポーリー・バーシャーと呼ばれるムンバイー下層民がしゃべるヒンディー語を駆使し、キャラクターになりきっていた。

 バヴァーニーを演じたディヴィヤー・ダッターは上記の二人を凌ぐキャリアを持つベテランの脇役女優だ。彼女の貫禄ある演技も大きな見所である。

 特別出演扱いであるが、スディールの元恋人モーヒニーを演じたラージェーシュワリー・サチデーヴは1990年代に全盛期だった往年の女優だ。年は取っているが凜とした美しさのある女優で、映画の最大の山場を盛り上げていた。

 「Nazar Andaaz」は、ヒンディー語映画界に数ある盲人映画の中でも非常にメッセージ性の強い映画だ。単純な見方をすれば盲人の存在を訴える映画であるが、この映画が発信するメッセージはそれだけに留まらない。世の中ではとかく外見などに惑わされ、その人の内面を直視することが難しいという現状を改めて訴えかけている。障害者を持ち出した安易な感動ドラマには前々から厳しめの評価をしてきたが、それでもこの映画からは純真さを感じるし、後味よく終わっていることも高く評価したい。