Mohabbatein

5.0
Mohabbatein

 2000年10月27日公開の「Mohabbatein」は、「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)を大成功させたアーディティヤ・チョープラー監督とシャールク・カーンが再びコンビを組んだ作品であり、同年最大のヒット作になった重要な作品である。2022年8月11日に改めて鑑賞し、このレビューを書いている。

 監督は前述の通りアーディティヤ・チョープラー。彼にとっては2作目の監督作になる。音楽監督と作詞家は、「Dilwale Dulhania Le Jayenge」と同じジャティン・ラリトとアーナンド・バクシーであり、万全の態勢だ。プロデューサーはもちろん、アーディティヤの父親ヤシュ・チョープラーである。

 オールスターキャストの映画に見えるが、実際には当時駆け出しの若い俳優たちが多く、大スターと呼べるのはアミターブ・バッチャンとシャールク・カーンぐらいである。しかも、アミターブ・バッチャンは政界進出や事業に失敗したりして低迷しており、映画の仕事が全くなかった。アミターブが復活するのは、2000年から始まったクイズ番組「Kaun Banega Crorepati」で司会を務めたことが大きいが、この「Mohabbatein」の成功もそれに寄与したといっていいだろう。アイシュワリヤー・ラーイが特別出演しているのも目を引くが、彼女にしてもこの映画の撮影時に人気が出たため、起用したときは端役しか想定されていなかったという。そうすると、シャールク・カーンの人気に重度に依存したキャスティングだといえる。

 その他のキャストは、ウダイ・チョープラー、ジュガル・ハンスラージ、ジミー・シェールギル、シャミター・シェッティー、キム・シャルマー、プリーティ・ジャーンギヤーニー、アムリーシュ・プリー、シェーファーリー・シャー、アヌパム・ケール、アルチャナー・プーラン・スィン、ヘレン、パルザーン・ダストゥール(子役)、サウラブ・シュクラーなどである。

 主演の一人、ウダイは、プロデューサーであるヤシュ・チョープラーの息子にしてアーディティヤ・チョープラー監督の弟である。彼にとってはこれが俳優デビュー作だ。彼をスターに押し上げようとするチョープラー家の思惑が感じられる作品でもあるのだが、残念ながらウダイはルックスに恵まれておらず、この映画を含む多数のヒット作があっても、彼はスターにはなれなかった。

 題名の「Mohabbatein」は、「愛」「恋」という意味の「मुहब्बतムハッバト」の複数形である。ヒンディー語映画ではよく使われる単語だ。その題名が示すとおり、複数の恋愛模様を平行して描いた複合的ロマンス映画になっている。

 山間の町ダラムプルに位置するグルクルは、ナーラーヤン・シャンカル学長(アミターブ・バッチャン)が25年間運営してきたインド随一の全寮制男子大学であった。厳格なシャンカル学長の教育方針「伝統、尊厳、規律」の下、学生たちは厳しく管理された大学生活を送っていた。恋愛などもってのほかだった。

 このグルクルに新入生として入ってきたヴィクラム(ウダイ・チョープラー)、サミール(ジュガル・ハンスラージ)、カラン(ジミー・シェールギル)は、寮で同じ部屋になり、親友となる。

 ヴィクラムは、近隣の女子校セント・メリーズ・スクールに通うイシカー(シャミター・シェッティー)と出会い、恋に落ちる。サミールにはサンジャナー(キム・シャルマー)という幼馴染みがおり、ずっと彼女に恋していたが、ここ数年は離れ離れになっていた。風の噂でサンジャナーがダラムプルに住んでいると聞いていた。サミールは町でサンジャナーと再会するが、彼女にはディーパクという恋人がいることを知る。カランは、ダラムプル駅でキラン(プリーティ・ジャーンギヤーニー)と出会い、恋に落ちるが、彼女は軍人の夫の帰りを待ちわびていた。夫は空軍のパイロットだったが、2年前に国境で行方不明になっていた。キランの義父カンナー少将(アムリーシュ・プリー)は息子の生存を信じていた。

 ある日、グルクルに突然、新しい音楽教師がやって来る。名前をラージ・アーリヤン(シャールク・カーン)といった。ラージは有志学生のための音楽教室を開く。ヴィクラム、サミール、カランはラージから音楽を学ぶと同時に恋愛の手ほどきを受ける。ラージに応援や支援の下、三人はそれぞれの恋愛を前へ進めていく。

 ところが、シャンカル学長はラージが学校内に新しい風を吹き込んでいることを危惧し、彼に辞表の提出を求める。ラージは、契約期間が終わるまでは辞表は提出しないと言い、シャンカル学長に挑戦する。シャンカル学長はその挑戦を受けて立つ。また、ラージは自身の身の上話をシャンカル学長に初めて打ち明ける。実はラージは、グルクル始まって以来、唯一、退学となった元学生だった。ラージは、シャンカル学長の娘メーガー(アイシュワリヤー・ラーイ)と恋に落ちるが、退学処分となり、追放されてしまう。メーガーはそれを苦に自殺し、シャンカル学長はますます頑固になって、愛を信じず、畏怖を重視してきたのだった。

 シャンカル学長は校則を厳格化し、学生たちが恋愛をしないようにますます締め付けを厳しくする。だが、ヴァレンタインデーの日、ヴィクラム、サミール、カランは学校を抜け出し、それぞれイシカー、サンジャナー、キランに告白をして、恋愛を成就させる。学校を抜け出したことがシャンカル学長にばれ、三人は退学処分になる。だが、ラージがシャンカル学長に彼らの赦免を懇願した。シャンカル学長は条件として、学生たちの前で自己批判をすることを要求する。

 しかし、シャンカル学長は、ラージがメーガーの遺志を継いでグルクルに戻り、彼に愛の素晴らしさを教えようとしていたことを知る。土壇場でシャンカル学長は引退を表明し、新たな学長にラージを任命する。

 物語の軸となるのは、ヴィクラムとイシカー、サミールとサンジャナー、そしてカランとキランの関係である。それぞれ異なった恋愛模様になっている。

 ヴィクラムとイシカーは一目惚れから始まる恋愛を象徴している。ヒンディー語のロマンス映画の定番だ。当初、イシカーはヴィクラムを拒絶していたが、徐々に彼に惹かれていき、最後には結ばれるというお決まりのパターンである。イシカーは大富豪の娘であり、それを鼻に掛けていたところもあったが、ヴィクラムは、自分の大富豪の御曹司だが、それとは関係なくイシカーに恋をしたと言う。恋に落ちるのに、相手の経済力は関係ないということを言いたいのだろう。ただ、実はヴィクラムは御曹司でもなんでもなかった。彼は、自分の父親は大富豪ではないと明かした上で、愛の告白をする。

 サミールとサンジャナーは、幼馴染み系の恋愛であると同時に三角関係でもある。サミールは、近所に住んでいたサンジャナーと子供の頃から仲良く遊んで育ち、いつしか彼女に恋するようになった。父親の転勤でサンジャナーは遠くへ行ってしまうが、それでもサミールはサンジャナーのことを想い続けていた。サミールは久しぶりにサンジャナーに再会するが、彼女にはディーパクという恋人がいた。しかも彼は大富豪の御曹司であった。ちなみに、サミールはアルバイトをしなければ学費が払えないほど貧しい家庭であった。しかし、ディーパクがサンジャナーを雑に扱ったため、サミールは自身の存在をアピールするチャンスを手にし、そのまま彼女に愛の告白をする。実はサンジャナーもサミールのことが好きだったが、サミールは一言もそんなことを言わなかったため、二人の関係は発展しなかった。好きな女性にはきちんと想いを伝えるべきだというメッセージがもっとも強く表れていたのがこの二人のエピソードであった。

 カランとキランの恋愛はもっとも複雑かつ挑戦的だ。何しろキランは既婚女性である。ただ、キランの夫は過去2年間音信不通だった。空軍のパイロットで、軍用機を操縦中に国境地帯で行方不明になっていた。だが、キランも義父も彼が生きていると信じ続けていた。カランは、キランの甥のピアノ教師になって家に出入りするようになり、彼女との距離を縮める。だが、キランは彼の愛の告白を、既婚であることを理由に拒絶する。しかしながら、キランの義姉ナンディニー(シェーファーリー・シャー)は、キランの夫は既に死んでいると断言し、いつまでも空の希望を信じ続けてキランの幸せを阻害するよりも、彼女に幸せを選ぶ自由を与えるように訴える。キランの父親はその言葉を聞いて心を変え、キランのスィンドゥール(既婚女性の証)を消して、彼女を解放する。 キランの父親カンナー少佐を演じるのはアムリーシュ・プリーであり、サイドストーリーながら、彼の最後のこの行為は、「Dilwale Dulhania Le Jayenge」の伝説的なラストシーン「जा, सिमरन जाジャー スィムラン ジャー」の再来である。ただし、インドでは女性の再婚が社会的に容認されておらず、カランとキランが結び付くためには、映画では描かれていないハードルをもう少し超えなければならないだろうということを付け加えておく。

 この3つの恋愛に加えて、ラージとメーガーの恋愛が語られる。かつてグルクルの学生だったラージは、メーガーと恋仲になり、学校を放校される。グルクルを退学処分になると(なぜだか分からないが)どの大学にも再入学・編入不可となり、人生は台無しになってしまう。それでもラージは犠牲を厭わず恋愛の道を選んだ。それはメーガーも同じことで、ラージのいない人生など考えられず、彼女は自殺をしてしまう。

 メーガーを失ったラージは、メーガーの父親であるシャンカル学長に愛の素晴らしさを教えるために音楽教師としてグルクルに戻ってくる。よって、ラージとメーガーの恋愛は「Mohabbatein」の物語の起点になるものだ。しかしながら、断片的にしか語られていない上に、あまりにお伽話的で、恋物語としてはもっとも弱い内容になっている。退学処分になったラージが、命を懸けてメーガーを連れていこうとした形跡もない。ラージは「愛の伝道師」を気取ってグルクルに舞い戻っているが、彼は恋愛を「した」だけで、一度した恋愛に責任を持って向き合ったとはいえない。

 あとはオマケ程度だが、町中で食堂を経営するカーケー(アヌパム・ケール)とプリートー(アルチャナー・プーラン・スィン)の中年恋愛も描かれていた。この二人は「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)でも似たような関係であった。

 「Mohabbatein」は3時間30分以上の超長尺映画であるが、実はさらに多くのカップルの恋愛模様も詰め込もうとしていたようだ。例えば、シャンカル学長の妻、メーガーの母親が全く言及されていないが、実はシュリーデーヴィーにオファーが出されていたようである。また、カンナー少佐の長男で、ナンディニーの夫も劇中には登場しない。彼も軍人であり、ずっと家にいなかった。この役はミトゥン・チャクラボルティーにオファーが出されていたようである。3つ、4つどころではなく、複数の恋愛模様が重層的に語られる、さらなる壮大なロマンス映画が想定されていたと思われる。

 もっとも、「Mohabbatein」は分かりやすい二項対立の映画でもある。シャンカル学長は変化が嫌いな人間で、グルクルの伝統を死守しようとしていた。それに対しラージは変化を象徴しており、メーガーの遺志を継いで、グルクルに人間らしい感情をもたらそうとしていた。シャンカル学長は恐怖に基づいた規律を人生で何より大事な成功の鍵だと考えていた。その一方でラージは愛を学校に充満させようとしていた。

 シャンカル学長はサンスクリット語のガーヤトリーマントラを愛唱していたが、メーガーはヒンディー語の宗教歌「Om Jai Jagdesh Hare」を歌っていた。また、シャンカル学長は東からの風を「伝統」だと呼び、西からの風を「異変」だと感じていたが、これは東洋と西洋と置き換えてもいいだろう。ただ、この辺りまでくると、うがち過ぎかもしれない。

 ラストシーンでシャンカル学長はラージを後継者に任命するが、これはヒンディー語映画界の世代交代を示唆するものだったのかもしれない。当時、アミターブ・バッチャンの映画スターとしてのキャリアは地に墜ちており、新たにスターとして台頭したシャールク・カーンを次世代の大スターとしてスクリーン上で公式に認めたと受け止めることもできる。また、1990年代にスターダムを駆け上がったシャールク・カーンが学長に就くことで、さらに新たな世代の台頭を促そうとする宣言にもなっていた。ただ、その後、アミターブ・バッチャンの人気は盛り返し、シャールク・カーンも全く後進にスターの座を譲ることなく、2000年代が過ぎて行ったのである。

 「Dilwale Dulhania Le Jayenge」ではパンジャーブ州の菜の花畑が印象的な使われ方をしていたが、「Mohabbatein」では落ち葉が重要なアイテムとして使われていた。日本では落ち葉というと秋の象徴であり、もの悲しいイメージがある。それは、その後に到来すべき寒い冬を予兆するものだからだろう。だが、インドでは夏の前に木々が葉を落とすため、落ち葉の印象もだいぶ変わる。ラージはメーガーに、落ち葉にラブレターを書いて渡した。ラージからそれを聞いたヴィクラム、サミール、カランら学生たちも、ラージを真似て落ち葉のラブレターを書いた。「Mohabbatein」によって落ち葉は愛の告白の象徴になったのである。ヴァレンタインデーに落ち葉のラブレターが出て来たことからも、インドでは夏の前に落葉があることが分かる。

 2022年現在から「Mohabbatein」を改めて観ると、細かい部分にもついつい目が行ってしまう。おそらくこの映画で登場した町はセットだろうが、今はなき合弁会社「ヒーロー・ホンダ」の看板があったり、通信会社「エアテル」の昔のロゴが見えたりと、時代を感じた。また、カランが寮の部屋にパソコンを持ち込んでいたのが気になった。2000年にパソコンを持っている学生は相当レアだった。

 グルクルは「大学」ということになっていたが、その校則の厳しさ、男子校、制服があるという点など、限りなく「高校」っぽい。おそらく20歳前後の学生たちが通っているはずで、大学であることには間違いがないはずだが、どうも学校の描写はいい加減である。ラージによる音楽教室以外に、授業のシーンもほとんど出て来ないし、ラージ以外の教師の存在感もほとんどない。

 時間の経過がよく分からない映画でもあった。しかしながら、物語が始まってから終わるまで、おそらく1年半以上の時間が過ぎているはずである。なぜならまず、例年3月に祝われるホーリー祭の描写があり、次に2月14日のヴァレンタインデーがあったからだ。インドの大学が8月頃に始まるということから考えても、ヴィクラム、サミール、カランたちは映画のラストまでに2年生に進級していたはずだ。

 キランの夫は空軍パイロットで、2年前に国境で飛行中に行方不明になったとされていた。2000年公開の映画において2年前というと1998年になるが、ふと思い付くのは1999年5~7月に勃発したカールギル紛争である。インドとパーキスターンの間で、カシュミール地方の領有権を巡る対立の延長線上にある「宣戦布告のない戦争」であり、映画公開時、印パ関係は冷え込んでいた。グルクルの閉ざされた扉は、印パ関係の閉ざされた国境であり、シャンカル学長の厳格な態度は、印パ政府の強硬姿勢だと捉えることも可能かもしれない。

 アミターブ・バッチャンとシャールク・カーンは当時から既に確立された俳優だったため、彼らの演技についてとやかく評する必要はないだろう。ただ一言、二人とも素晴らしい演技であった。特別出演ながらアイシュワリヤー・ラーイの美しさも際立っていた。若い俳優たち6人の中から大スターに成長した者はいないが、もっとも俳優として成功しているといえるのはジミー・シェールギルである。むしろ、キランの義姉ナンディターを演じたシェーファーリー・シャーがその後、「Monsoon Wedding」(2001年)やウェブドラマ「Delhi Crime」(2019年)などを経て、演技派女優として大成した。

 映画の成功以上に「Mohabbatein」の挿入歌は名曲揃いである。どれもインド人から歌い継がれている曲ばかりだ。「Humko Humise Chura Lo」、「Aankhein Khuli」、「Chalte Chalte」など、甲乙付けがたい。ダンスシーンが多めだが、ダンスシーンもよく出来ており、邪魔に感じない。古き良きインド映画の姿がある。

 「Mohabbatein」は、アーディティヤ・チョープラー監督の第2作であり、2000年最大のヒット作になったロマンス映画である。3時間半以上のとても長い映画だが、20世紀のロマンス映画の総集編でもあり、新世紀・新時代へ向けた世代交代と変革を予告する作品でもあった。音楽も心から離れない。文句なく傑作である。