「Umrāo Jān Adā(امراؤ جان ادا)」と言えば、ウルドゥー文学初の小説として知られる有名な文学作品である。巨匠ミルザー・ムハンマド・ハーディー・ルスワーによって1899年に書かれた同作品は、不幸にして娼婦となってしまった女性の人生を描きながら、数々の叙情的な詩を盛り込みつつ、19世紀のラクナウーの繁栄と混乱と没落を浮き彫りにしている。ウムラーオ・ジャーンが実在の人物であったかどうかについては議論があり、実はルスワーの母親だったとの説もあるが、確証はない。「Umrāo Jān Adā」は今まで少なくとも3回映画化された。「Mehndi」(1958年)、「Zindagi Aur Toofan」(1975年)、そして有名なムザッファル・アリー監督、レーカー主演の「Umrao Jaan」(1981年)である。そして2006年11月3日、アイシュワリヤー・ラーイ主演の新「Umrao Jaan」が公開された。奇しくも公開日はアイシュワリヤーの33歳の誕生日の直後、そして共演は、彼女と結婚の噂もあるアビシェーク・バッチャン、監督は「Refugee」(2000年)や「LOC Kargil」(2003年)のJPダッターである。JPダッター監督はこれまで男性中心の映画を撮り続けて来たことで知られており、またラージャスターン州の砂漠をこよなく愛することでも知られた監督だが、今回は初めて、女性中心の映画を作り、しかも映画の8割をラクナウーで撮影した(残りの2割はジャイプル)。間違いなく今年の期待作の一本である。
監督:JPダッター
制作:JPダッター
音楽:アヌ・マリク
歌詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
出演:アイシュワリヤー・ラーイ、アビシェーク・バッチャン、シャバーナー・アーズミー、スニール・シェッテイー、ヒマーニー・シヴプリー、クルブーシャン・カルバンダー、ディヴィヤー・ダッター、アーイシャー・ジュルカー、プル・ラージ・クマール、パリクシト・サーニー、マーヤー・アラグ、ビクラム・サルージャー、ジャーヴェード・カーン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。
ラクナウー在住の文学者ミルザー・ムハンマド・ハーディー・ルスワーは、近所に住む有名な娼婦ウムラーオ・ジャーン(アイシュワリヤー・ラーイ)の素晴らしい歌声を聞き、彼女に会いに出掛ける。ウムラーオ・ジャーンはルスワーを歓迎すると同時に、自分の人生を語り始める。 ウムラーオ・ジャーンの本当の名前はアミーランであった。アミーランは、ファイザーバードのバフー・ベーガム廟に勤める下級官吏(パリークシト・サーニー)の娘として生まれた。幸せな幼年時代を過ごしていたアミーランであったが、ある日父親の仇敵であるディラーワル・カーン(ヴィシュヴァジート・プラダーン)に誘拐されてしまう。ディラーワル・カーンは、相棒のピール・バクシュ(ジャーヴェード・カーン)の助言に従い、彼女をラクナウーで有名な娼館を経営するカーナム・サーヒブ(シャバーナー・アーズミー)に売り渡す。カーナムは、ブアー・フサイニー(ヒマーニー・シヴプリー)にアミーランの養育を任すと同時に、彼女に「ウムラーオ」という名前を与える。 ウムラーオはブアー・フサイニーの夫マウルヴィー・サーヒブ(クルブーシャン・カルバンダー)によって詩学・舞踊・声楽などの英才教育を受ける。カーナムの館には、実の娘のビスミッラー(ディヴィヤー・ダッター)やクルシード(アーイシャー・ジュルカー)という同年代の女の子も住んでおり、彼女たちは一緒に育てられた。やがて幼年時代は過ぎ、青春時代がやって来る。 ラクナウーの王族貴族たちが集う宴においてデビューを果たしたウムラーオは、たちまちの内にラクナウー中の話題となる。そしてウムラーオの常連客となったのが、貴公子ナワーブ・スルターン(アビシェーク・バッチャン)であった。カーナムやクルシードは、ウムラーオに「娼婦が客に恋をしてはならない」と戒めるが、ウムラーオはナワーブ・スルターンに恋してしまう。 だが、運命は思わぬ方向へ向かう。ナワーブ・スルターンの父親は、息子が娼婦遊びに没頭していることを知って怒り、彼を勘当してしまう。一文無しとなったナワーブ・スルターンは、カーナムの娼館からも追い出されてしまう。ウムラーオはただひたすら彼が一財を築いて戻って来るのを待ち続ける。 それと時を同じくして、ウムラーオに一目惚れした男がいた。盗賊ファイズ・アリー(スニール・シェッティー)である。ファイズ・アリーは貴族の振りをしてカーナムの娼館に入り、ウムラーオに熱烈にアプローチする。カーナムも、ナワーブ・スルターンを忘れてファイズ・アリーの相手をするように命令するが、ナワーブ・スルターンのことを愛するウムラーオはそれを受け容れようとしなかった。だが、ウムラーオはナワーブ・スルターンがガリーにいるとの情報を得る。ウムラーオは、ファイズ・アリーを利用してカーナムの娼館を出て、ガリーへ向けて旅立つ。だが、その途中でファイズ・アリーの正体がばれ、彼はガリーの領主に捕まえられてしまう。 情報通り、ナワーブ・スルターンはガリーに滞在していた。だが、ファイズ・アリーが話した嘘の話からウムラーオが自分を裏切ったと信じ込んだ彼は、彼女を捨て、他の女性と結婚してしまう。ウムラーオは傷心のままラクナウーに帰る。カーナムたちはウムラーオを歓迎するが、マウルヴィー・サーヒブは既に他界していた。 そのとき、1857年のインド大反乱が発生した。反乱は鎮圧され、英国軍はラクナウーに進駐した。カーナムの娼館にいた娼婦たちは散り散りになってラクナウーを逃げ出す。ウムラーオは故郷ファイザーバードに戻るが、家族には会うことができず、そこで娼婦業を始める。すぐにウムラーオはファイザーバードの話題となる。ウムラーオはある日、父親が既に死去したこと、また弟が生家に今でも住んでいることを知って、とうとう自分の生家を訪れる。だが、母親(マーヤー・アラグ)や弟は、娼婦となって家の名誉を汚した彼女を突き放す。ウムラーオはファイザーバードにいれなくなり、再びラクナウーに戻ることになった。 ファイザーバードからラクナウーに戻る途中、彼女は1人の乞食に出会う。その男は紛れもなく自分を誘拐して娼館に売り渡したディラーワル・カーンであった。ディラーワル・カーンはすっかり変わり果て、貧困と病苦に喘いでいた。ウムラーオは彼に腕輪を恵むと共に、神様に対して「彼を許してやって下さい。私はもう許しました」と祈る。
この映画を見終わった観客の感想のリトマス試験紙となりそうなのが、ジャーヴェード・アクタルによる歌詞ではないかと思う。新「Umrao Jaan」の歌詞をよしとできれば、この映画はまあまあの評価となるだろう。歌詞が全く気に入らないなら、おそらくこの映画は駄作以外の何者でもないだろう。19世紀の文学作品を21世紀の今、映画化しようとする際、小説が舞台としている19世紀に比重を置くべきか、それとも観客が生きる21世紀に比重を置くべきか、それが最大の論点となるだろう。JPダッター監督のこの「Umrao Jaan」は、もちろん時代考証を全く無視しているわけではないものの、ほぼ完全に21世紀の新しい「Umrao Jaan」を目指した作品であった。その点で、サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督の「Devdas」(2002年)と非常に似通った位置にある作品だ。
映画制作者の苦労と苦悩は、新「Umrao Jaan」の公式ウェブサイトに載っているジャーヴェード・アクタルの以下の言葉に凝縮されている。
19世紀を舞台にした映画を制作する際、監督、脚本家、音楽監督はジレンマに直面する。もし時代を正確に表現するため、19世紀に話され、歌われていた言葉を使うならば、21世紀の観客は理解できないだろう。もし21世紀のことだけを考えたら、19世紀のエッセンスは失われてしまうだろう。よって、2つの時代を橋渡しすることができるような努力が払われなければならない。理想的なのは、19世紀のストーリーとフィーリングを、21世紀の感覚に沿うように、現代の語彙を使って再構築することである。
新「Umrao Jaan」は、19世紀のラクナウーを舞台にし、非常に文学的かつ芸術的な外面を持ちながら、そこで使われている言語はアラビア語・ペルシア語で隅から隅まで装飾された種類のものではなく、現代人でも理解できるギリギリの華美な語彙を含んだ比較的簡素なヒンディー/ウルドゥー語であった。それは挿入歌の歌詞に最も顕著に表れている。ほとんど難しい単語を使わず、映画のストーリーに沿った歌詞を作ることに苦心が払われているのが伺われた。ウルドゥー文学の金字塔を原作としながら、これだけ簡易な語彙を選んでの映画制作は、非常に勇気の要る決断だったと思う。だが、それゆえに、文学者や教養層のサイドからの批判は免れえないだろう。新「Umrao Jaan」に入って行けるか否かはまず、その「21世紀のウルドゥー語」として提案された言語を素直に受け容れられるか否かにかかっている。賛否両論あって然るべきであろう。ちなみに僕は、ひとつの挑戦として積極的に受け容れたいと思っている。「Taj Mahal: An Eternal Love Story」(2005年)で使われていた、誰にも理解できないようなヘビーなウルドゥー語に比べたらマシである。ヒンディー語映画はまず第一に門戸を広く構えた娯楽映画であるべきだ。
だが、それを棚に置いておいても、ストーリーテーリングには詰めの甘さが目立った。いくつかの部分で、不必要なシーンが冗長に、丁寧に描くべきシーンが簡略化されてしまっていたように思えた。JPダッター監督はインタビューの中で、「ウムラーオ・ジャーンよりもアミーランに重きを置いた」と述べていたが、もしアミーランを強調するなら、誘拐されてからカーナムの娼館に売られ、ウムラーオとしての人生を受け容れるまでをもっと丁寧に描写するべきであった。作品中ではこの部分がかなりすっ飛ばして描かれていた。ルスワーの原作では、ファイザーバードからラクナウーに連れて来られるまでの心情や、簡単にアミーランを捨ててウムラーオになってしまったときの心の動きがよく描写されていた。逆に、ナワーブ・スルターンとの逢引や睦言の描写は冗漫すぎた。ロマンス映画としての味付けを濃くしようとしたのだろうが、さじ加減を少し誤っているように感じた。結局ウムラーオも娼婦であり、娼婦の映画に純愛を持ち込むのは強引過ぎないだろうか?原作はもっと割り切った見方でウムラーオの人生を見ている。また、最後、ファイザーバードからラクナウーへウムラーオ・ジャーンが向かうときの道標に、ウルドゥー文字と一緒にデーヴナーグリー文字も書かれていたのは全く時代考証から外れている。あの時代にデーヴナーグリー文字が公共の場で使われることはありえない。JPダッター監督の映画はいつも大味なので、これはもう彼の持ち味と開き直るしかないかもしれない。
しかし映画の最後はとてもよかった。かつてウムラーオを誘拐したディラーワル・カーンは、天罰を受けたのであろうか、いつの間にか乞食に身を落としていた。それを見た彼女は彼を許し、彼のために神様に祈るのである。そういう因果応報性や高い精神性が自然に映画の中に盛り込まれているのは、インド映画の大きな特徴のひとつであろう。
また、ウムラーオが久し振りに生家に戻って母親と再会するシーンなどは無条件で泣けてしまった。幼年時代に指輪をなくして母親から平手打ちをくらった彼女は、全てを失って戻って来たとき、平手打ちすらくらわせてもらえなかったのである。退屈だったり納得できない部分が散見されたものの、泣ける映画であるのは確かだった。
振り付けはヴァイバヴィー・マーチャント。ウムラーオらが踊っていたのは基本的にカッタク舞踊であったが、正統派の舞踊をマスターできているのかどうかは疑問である。どちらかというとアイシュワリヤー・ラーイの顔のアップが多く、身体全体の動きをゆっくり見ることができなかったように思える。コスチューム・デザインを担当したのは、「Taj Mahal」のアンナ・スィン。「Taj Mahal」のコスチュームはまるで「スターウォーズ」のようであったが、新「Umrao Jaan」も思わず衣装に目が行ってしまうほどの過剰な豪華絢爛さであった。振り付けと衣装の点では、僕は「Devdas」の方がより質が高いように思えた。
主演のアイシュワリヤー・ラーイは、ムザッファル・アリーの「Umrao Jaan」でウムラーオを演じたレーカーとの比較を避けられないだろう。だが、アイシュワリヤーは彼女なりの演技でウムラーオを演じ切っており、決して酷評されることはないだろう。その美貌も美しい衣装によく映えていた。だが、彼女は声がどうもよくない。特に怒りや悲しみを表現するときの彼女の声はダミ声で損をしている。やはりラクナウー中をその美貌と才能で虜にしたウムラーオを演じるには、声にも気品がなくてはならない。ラクナウーで使われていた優雅なウルドゥー語も、彼女には使いこなすことができなかったようだ。聞くところによると、元々このウムラーオの役はプリヤンカー・チョープラーがオファーを受けていたらしい。
共演のアビシェーク・バッチャンは、ほとんどアイシュワリヤーの美を眺めているだけの役であったが、映画の中によく溶け込んでいた。ひとつ、父親に勘当されて酔っ払ってウムラーオの部屋を訪れるシーンでは、酔っ払いの演技がいまいちできていなかった。もしかしてアビシェークは下戸なのだろうか?
ムザッファル・アリーの「Umrao Jaan」では、ゴーハル・ミルザーを名優ナスィールッディーン・シャーが演じており、大きな存在感を醸し出していた。だが、JPダッターの「Umrao Jaan」は、プル・ラージ・クマールという比較的無名の男優が演じており、作品中でもその人物設定に深みがなかった。これも聞くところによると、当初はアルシャド・ワールスィーがオファーを受けていたようだ。ゴーファル・ミルザーに魅力がないのは、新「Umrao Jaan」の大きな欠点になりうる。
カーナム・サーヒブにシャバーナー・アーズミーをキャスティングしたのは正解であっただろう。映画中最も素晴らしい演技を見せていた。最近脇役が定着してしまったスニール・シェッティーだが、彼もいい脇役演技をしていた。マウルヴィー・サーヒブを演じたクルブーシャン・カルバンダーや、ブアー・フサイニーを演じたヒマーニー・シヴプリーも好演であった。
ウルドゥー文学を原作にしただけあり、題名の登場の順番は、ウルドゥー文字→ヒンディー文字→アルファベットであった。そしてそれらの題名や「インターヴァル」の文字が、ウルドゥー語のように右から書かれるという演出もあった。
僕が観た回はほぼ満席であったが、新「Umraoo Jaan」は期待されていたほどオープニングで多くの観客を動員できなさそうだ。駄作続きの2002年にもし公開されたら注目されたかもしれないが、今年はヒンディー語映画が我が世を謳歌する2006年である。もしかしたら失敗作に終わって他の傑作の中に埋もれてしまうかもしれない。