インドでは毎年ディーワーリー祭の時期に期待作が一気に公開される傾向にある。去年のディーワーリーには、「Veer-Zaara」(2004年)、「Mughal-e-Azam」(リバイバル版:2004年)、「Aitraaz」(2004年)、「Naach」(2004年)という全く趣を異にした期待作4本が同時公開され話題を呼んだ。今年のディーワーリーもやはり期待作が3本同時公開となった。「Kyon Ki…」、「Garam Masala」(2005年)、「Shaadi No.1」(2005年)である。通常、インドでは新作映画の封切日は金曜日なのだが、今年は変則的にディーワーリーの翌日の11月2日(水)がそれらの映画の封切日となった。
ジャイサルメール旅行から帰って来た後、まず観たのは、プリヤダルシャン監督、サルマーン・カーンとカリーナー・カプール主演の「Kyon Ki…」。PVRプリヤーで鑑賞。題名の意味は「なぜって・・・」。プリヤダルシャン監督はケーララ州出身の映画監督で、「コメディーの帝王」と称される有名監督の一人である。最近公開されたプリヤダルシャン監督のヒンディー語映画では、「Hungama」(2003年)や「Hulchul」(2004年)が記憶に新しい。今年のディーワーリーは、どういう風の吹き回しか、プリヤダルシャン監督の映画が2本同時公開となった。この「Kyon Ki…」と「Garam Masala」である。まだ「Garam Masala」は見ていないが、前者は悲劇、後者は喜劇のようで、プリヤダルシャン監督の才能の幅を見せ付ける一人舞台のようになっている。「Kyon Ki…」の音楽監督はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、サルマーン・カーン、カリーナー・カプール、リーミー・セーン、ジャッキー・シュロフ、オーム・プリー、スニール・シェッティーなど。
アーナンド(サルマーン・カーン)は、悪ふざけの行き過ぎにより妻のマーヤー(リーミー・セーン)を溺死させてしまい、精神に異常をきたしてしまった男だった。アーナンドの兄は、彼をクラーナー院長(オーム・プリー)の経営する精神病院に入院させる。クラーナー院長は厳格な人間で、病院の医者、従業員、患者たちから恐れられていた。その病院では、昔アーナンドの父親の家で働いていた使用人の息子で、現在は医者になったスニール(ジャッキー・シュロフ)や、クラーナー院長の娘のタンヴィー(カリーナー・カプール)が働いていた。 タンヴィーは、36番の番号札を付けていた精神患者のおばさんを手厚く看病していたが、完治したと同時にそのおばさんは彼女のことをすっかり忘れてしまっていた。それに心を痛めていたタンヴィーは、そのおばさんの代わりに36番の番号札を付けて入院して来たアーナンドに当初は冷たく接していた。一方、スニールはかつての雇い主の息子と哀れな状況で再会したことに心を痛めると同時に運命を感じ、彼の治療に全力を尽くすことを心に決めていた。 アーナンドはまるで5歳の子供のように悪戯好きで、病院で問題を起こしてばかりいた。クラーナー院長もアーナンドを要注意人物と認識するようになる。一方、スニールはタンヴィーに、アーナンドのアルバムを渡し、彼の治療に協力するように頼む。タンヴィーはアーナンドの過去を知り、彼に対する態度を変え、愛を持って接するようになる。医者と患者の関係は、次第に恋愛へと発展して行った。タンヴィーの献身により、アーナンドは正気を取り戻す。 ところがクラーナー院長は、娘の結婚相手にカラン(スニール・シェッティー)を選んでいた。ところが、アーナンドとタンヴィーが恋仲にあることを知ったクラーナー院長は、アーナンドを意地でも退院させないことを決め、地下に閉じ込める。アーナンドは脱走してクラーナー院長に飛びつき首を絞める。警備員が急いで駆けつけたことによりクラーナー院長は一命を取り留めるが、アーナンドに手術を施して植物人間にし、復讐を遂げる。植物人間となったアーナンドを見たスニールは、彼のために何もしてやれなかったことを謝り、彼の顔に枕を押し付けて殺す。一方、アーナンドと駆け落ちをしようとしていたタンヴィーは、アーナンドが死んだことにショックを受け、精神異常者となってしまう。
ヒンディー語映画界のスターたちの間では、「Koi… Mil Gaya」(2003年)でのリティク・ローシャンの知能障害児の好演以来、精神に異常をきたしたり、何らかの障害を持つ主人公を演じて映画賞を獲得してやろうという安易な潮流ができているように思われる。その傾向はハリウッドでも顕著で、例えばトム・ハンクスなんかがその罠にはまっているように思われる。「Kyon Ki…」もその流れで作られたような気がしてならなかった。
もっとも、サルマーン・カーンが今までのヒーロー像を覆す役を演じたのはこれが初めてではない。「Tere Naam」(2003年)では既に半植物人間を演じているし、「Phir Milenge」(2004年)ではエイズに冒されて死んでいく人の役を演じた。しかし、今回の「Kyon Ki…」の演技は、これまで以上にサルマーン・カーンの「スターから演技派への脱皮」の野望をヒシヒシと感じた。ただ、野望は感じたのだが、それが必ずしも成功していたとは思えない。子供のようにはしゃぐ彼の演技にはまだ自分を捨て切れていない部分がかなり残っていた。やっぱり無駄に筋肉を見せびらかしているし、踊りも相変わらず固い。
その点、ヒロインのカリーナー・カプールの演技は光っていた。サルマーンに比べると活躍の場は少なかったが、シリアスな役をしっかりと演じていて大女優の片鱗を見ることができた。僕は彼女の「今にも泣きそうで鼻の先っぽや頬がほんのりと赤くなっている」表情が大好きである。イケイケギャルのイメージの強いカリーナーではあるが、僕は彼女には悲劇女優の才能の方があると思っている。
しかし、演技の点で最も光っていたのは、オーム・プリーとジャッキー・シュロフであろう。オーム・プリーは既に演技派男優として誰もが認めているのでこれ以上賞賛する必要はないが、ジャッキー・シュロフの脇役演技の秀逸さが光っていた。かつてはジャッキーも主役をはれる男優だったが、いつの間にか脇役男優に甘んじることが多くなってしまっている。「Devdas」(2002年)のチュンニー・バーブーなどは名演であった。だが、実はジャッキーは脇役の方が演技力を発揮できる男優かもしれない。ジャッキーの演じるスニールが、アーナンドに自分のことを必死に思い出させようと努力するシーンなどは、彼の演技力のおかげで映画の見所のひとつにまで磨き上げられていたと思う。
しかしながら、「Kyon Ki…」は万人に受けるような傑作映画とは言いがたかった。一番盛り下がるのは、アーナンドの過去のシーン。マーヤーと出会い、恋に落ち、そして彼女が死んでしまうという一連の流れが、かなり幼稚な手法で描かれていてガッカリした。この過去のシーンは欧州のどこかでロケが行われていたが、どこの国なのかは特定できなかった。教会の神父がインド人だったり、白人の修道女たちが突然ヒンディー語を話し出すのも唐突すぎる。精神病院の中のシーンも、プリヤダルシャン監督お得意のコメディータッチが随所に活かされていたが、見ているこっちがバカになるほど低レベルなお笑いで引いてしまった。僕は映画館に「おかあさんといっしょ」を見に来たんじゃない!この映画の中で最大の爆笑シーンは、アーナンドがマーヤーに告白するシーンではなかろうか?マーヤーの前で自動車のウィンドウをウィーンと上げると、そこに「I Love You」と書いてあるのだ。これは恥ずかし過ぎる。ただ、終盤に入るとストーリーがまとまって来る。アーナンドが死に、タンヴィーが精神患者になってしまうというアンハッピーエンドで終わるところは意外だった。
「Kyon Ki…」の音楽で名作と呼べるのは、テーマ曲の「Kyon Ki Itna Pyar」のみであろう。マーヤーの死がアーナンドの精神障害の原因となっていることを見抜いたタンヴィーが、マーヤーになりすまして、アーナンドとマーヤーの思い出の歌であるこの「Kyon Ki Itna Pyar」を歌うシーンは感動的である。そしてその歌詞「なぜなら私はあなたのことをこんなにも愛しているから・・・」は、そのままタンヴィーのアーナンドに対する気持ちの発露となっている。
主人公の名前がアーナンド(享楽)と名付けられたのは、若き日のアミターブ・バッチャンが出演する「Anand」(1970年)に対するオマージュなのではないかと思う。だが、「Anand」のエンディングにあった「感動的アンハッピーエンド」のラサ(情感)は、「Kyon Ki…」にはなかった。
アーナンドが付けられた36番という番号の意味は、ヒンディー語をよく知る人なら分かるだろう。ヒンディー語で「36」と言ったら、「仲が悪い」という意味なのだ。その理由はヒンディー語の数字の形を見れば分かる。まるでお互いが背をそむけたような形になっているのだ。
コメディーの帝王が挑戦した悲劇映画は、残念ながら精彩を欠いていた。インド各地に勢力を持つサルマーン・カーン親衛隊たちが大挙してこの映画を観るために映画館に押し寄せるだろうが、長続きはしないだろう。