
2025年8月29日からAmazon Prime Videoで配信開始された「Songs of Paradise」は、カシュミール地方初の女性歌手ラージ・ベーガムの伝記映画である。ラージ・ベーガムは1927年、シュリーナガルに生まれ、ラジオ・カシュミールで2,000曲以上のカシュミール語歌曲を録音し、「カシュミールのナイチンゲール」と呼ばれた。2016年に亡くなっている。
監督はダーニシュ・レーンズー。カシュミール出身、米国で映画作りをする監督で、過去に「Half Widow」(2017年)などの作品を撮っている。キャストは、サバー・アーザード、ソーニー・ラーズダーン、ザイン・カーン・ドゥッラーニー、シーバー・チャッダー、リレット・ドゥベー、タールク・ラーイナー、シシル・シャルマー、バシール・ローンなどが出演している。
サバーは著名な演劇家サフダル・ハーシュミーの姪であり、「Dil Kabaddi」(2008年)で女優デビューした。その後、「Mujhse Fraaandship Karoge」(2011年)などの出演はあったものの、女優として大成したわけではない。ただ、ナスィールッディーン・シャーの息子イマード・シャーや、リティク・ローシャンなどと付き合っており、男性遍歴は隅に置けない。ソーニー・ラーズダーンは「RRR 」(2022年/邦題:RRR)や「Gangubai Kathiawadi」(2022年)などで有名なアーリヤー・バットの母親であり、往年の名女優である。
基本的にはヒンディー語映画だが、セリフの半分以上はカシュミーリー語である。ラージ・ベーガムをモデルにしたヌール・ベーガムが歌う曲も全てカシュミーリー語だ。
ルーミー(タールク・ラーイナー)は伝説的な歌手ヌール・ベーガム(ソーニー・ラーズダーン)について調査するため、シュリーナガルを訪れる。通常、ヌールは取材を拒否していたが、ルーミーの熱意にほだされ、彼の取材を受け入れる。ヌールは音楽の師であるマスタージー(シシル・シャルマー)との出会いから語り出す。
ヌールの本名はゼーバー・アクタル(サバー・アーザード)といい、貧しい仕立屋(バシール・ローン)の娘だった。父親はゼーバーの良き理解者だったが、母親ハミーダー(シーバー・チャッダー)は常に彼女に厳しく当たっていた。ゼーバーはマスタージーの家で小間使いをしていたが、歌の才能を見出され、ラジオ・カシュミールで開催されたコンペティションに出場させられる。ゼーバーはコンペティションに出場した初の女性歌手となり、しかも詩人アーザード・マクブール・シャー(ザイン・カーン・ドゥッラーニー)に認められて優勝し、デビューを決める。ゼーバーは父親やアーザードの助けを得ながら、母親に内密で歌を歌い続けた。ゼーバーは芸名として「ヌール・ベーガム」を名乗り始める。
ヌールの名はたちまちカシュミール渓谷中で有名になり、ボンベイの映画界にまで届くようになった。ヌールはファンからの要望に応えてライブパフォーマンスをするが、アーザードとの熱愛をメディアに書き立てられ、とうとう世間に正体がばれてしまう。父親は近所の人々から暴行を受け、母親は怒り狂って彼女を家に閉じこめる。責任を感じたアーザードは、叔母(リレット・ドゥベー)と共に彼女の家を訪れ、ヌールにプロポーズする。こうして二人は結婚することになる。
ヌールと結婚したアーザードも嫌がらせを受けるようになった。そこで二人は家を離れ、ダル湖に新居を構える。ラジオ・カシュミールの一室にはヌールが歌った歌のレコードがたくさん収納されていた。だが、あるとき火災が起こり、それらが全て焼失してしまう。失望したヌールであったが、女性たちが表に出て歌を歌うようになり勇気づけられる。
ルーミーはヌールの話を聞いている内に、彼女の歌を現代に再生しようと思い立つ。そして、彼女の孫娘スライヤー・ヌールと共に彼女の歌のリメイクをする。
かつて、カシュミール地方では、女性が人前で歌を歌うことは考えられなかった。女性が歌う歌といえば、農作業をしているときに歌う労作歌か、赤子を寝かしつけているときに歌う子守唄くらいであった。だが、元々天性の歌声を持っていたゼーバーは音楽家に見出され、ラジオで歌声を披露するようになる。
もちろん、ゼーバーは「歌を歌う女性は恥知らず」という差別や偏見と戦わなければならなかった。コンペティションへの参加、そこでの優勝、ラジオでの歌声披露、あらゆるステップで彼女は壁にぶち当たった。だが、その一方で、彼女を支えてくれる人々もいた。マスタージー、アーザード、そして何より父親である。
当初、ゼーバーの素性は「ヌール・ベーガム」という芸名によって隠されていたが、彼女の正体が世間に知れ渡ると、批判的な人々の直接的な攻撃が彼女や、彼女と結婚したアーザードに向けられることになった。それでも、彼女の歌声を認める人々も存在し、彼女の名声は徐々に高まっていった。彼女が国家的な賞を受賞したことで、彼女を「カシュミールの誇り」と考える人々が大半を占めるようになり、ようやく彼女は大手を奮って歌を歌うことができるようになる。
彼女の功績は単に歌手として成功しただけではなかった。1950年代から彼女は男女平等にこだわった。ラジオ・カシュミールで働き出した後、彼女は男性歌手と賃金の格差があることに気付き、局長に直談判して、賃金の平等を勝ち取った。ラジオ局には男性用トイレしかなかったが、彼女が要求したことで、女性用トイレもできた。こうして男性によって独占されていた職場に彼女はひとつずつ女性の居場所を確保していったのである。
彼女が社会に与えた影響の中で、特に「革命」および「嵐」などの大袈裟な表現と共に称賛されていたのが、女性たちの意識変化だ。何もカシュミール渓谷で美しい歌声を持っていた女性はゼーバーが最初ではなかったし、唯一でもなかった。女性たちは家事をすることを求められ、最初から才能を試す場を与えられていなかった。だが、ゼーバーが初の女性歌手としてデビューしたことで、彼女を目標として歌で身を立てようとする女性たちが次から次へたくさん現れたのである。
「Songs of Paradise」は、ラージ・ベーガムの人生をベースとしながら、彼女の功績をフィクションで彩り、女性が社会の中で居場所を確保していく様子を郷愁あふれる美しい音楽と共に描きだした作品である。ただし、このような作品の限界として、描写の仕方が一面的だった。つまり、ラージ・ベーガムおよびヌール・ベーガムを決して悪く描いていなかった。彼女の人生に何の汚点もなかったのだろうか。たとえばアーザードとの関係は非常に気になるところだが、表層的にしか触れられていなかったように感じた。確かに彼女の人生の辛い時期も描かれてはいたが、基本的には一辺倒なサクセスストーリーである。そのために映画としての深みには欠けた。
サバー・アーザードは既に40歳近い女優であるが、20代の女性を演じてもあまり違和感はなかった。しゃべり方に特徴があり、それが素朴なカシュミール人女性役にうまくはまっていた。彼女の母親はカシュミール人であり、もしかしたら最初からカシュミール語ができたのかもしれない。時々カシュミール語のセリフをしゃべっていた。
老齢のヌール・ベーガムを演じたソーニー・ラーズダーンにもカシュミール人の血が流れている。既に大御所となった時代のヌールを貫禄たっぷりに演じていた。
ヌール・ベーガムが歌っていた歌は、本物のラージ・ベーガムの歌声を録音した音源を使ったわけではなく、現代になって新たに録音したもののようである。彼女の歌声を担当していたのはマスラトゥンニサーという新人歌手のようだ。ヌール・ベーガムの歌声には、多くの歌好きから一発で認められるほどの「何か」がないと説得力がない。果たしてマスラトの歌声にそれがあったかと問われると答えに窮するが、素朴さはあった。
全編、シュリーナガルを中心に、カシュミール地方で撮影が行われている。2025年4月22日にはペヘルガームで凄惨なテロ事件があったが、その直前までカシュミール地方の経済は観光業の盛況などもあって急成長しており、撮影にも支障がなかったのだと思われる。「地上の楽園」と歌われたカシュミール地方の自然や街並みはやはり美しく、映画に独特の魅力を加えている。
「Songs of Paradise」は、カシュミール人女性として初めて人前で歌を歌った伝説的歌手ラージ・ベーガムの生涯を、フィクションを交えて映画化した作品である。ラージ・ベーガムが成し遂げたことの大きさがよく分かる作品である一方、彼女を決して悪く描いていないため、映画としての深みには欠けた。カシュミーリー語のセリフが多く、歌は全てカシュミーリー語である。さらに、シュリーナガルなどで実際に撮影が行われており、リアルさがある。キャスティングされた俳優たちの多くにもカシュミール人の血が流れており、こだわりを感じる。宝石箱のような映画である。