
2025年1月17日公開の「Azaad」は、英領インド時代の1920年を舞台にした時代劇映画である。クライマックスに競馬レースが置かれており、「Lagaan」(2001年/邦題:ラガーン クリケット風雲録)に米映画「ベン・ハー」(1959年)を掛け合わせたような作りだ。また、アジャイ・デーヴガンの甥アマン・デーヴガンとラヴィーナー・タンダンの娘ラーシャー・タダーニーのローンチ映画でもある。
監督は「Rock On!!」(2008年)や「Kai Po Che」(2013年)のアビシェーク・カプール。主演はアマン・デーヴガンとラーシャー・タダーニーであるが、アジャイ・デーヴガンとダイアナ・ペンティーも重要な役で出演している。他に、ピーユーシュ・ミシュラー、モーヒト・マリク、ナターシャ・ラストーギー、サンディープ・シカル、アクシャイ・アーナンドなどが出演している。
題名の「Azaad」は、直訳すれば「自由」であるが、映画に登場するマールワーリー種の立派な黒馬の名前が「アーザード」であり、この馬こそが真の主人公といえる。
下のあらすじには「バーギー」という単語が登場する。ヒンディー語で書くと「बाग़ी」であるが、これは「反逆者」といった意味だ。「ゲリラ」に近い言葉である。「डाकू」、つまり「盗賊」と一緒くたにされることが多いが、この映画では「バーギー」と「ダークー」が区別されていた。映画の舞台は、英領インド時代に存在した行政区セントラル・プロヴィンスとされている。これは現在のマディヤ・プラデーシュ州と重なっている。それ以上、実在の地名は言及されなかったが、バーギーやダークーが跋扈するチャンバル谷をイメージしていると思われる。
1920年、セントラル・プロヴィンス。ブーサル村のゴーヴィンド(アマン・デーヴガン)は地主ラーイ・バハードゥル(ピーユーシュ・ミシュラー)の厩舎で働く馬丁だった。ホーリー祭の日、バハードゥルの娘ジャーナキー(ラーシャー・タダーニー)に無礼を働いてしまい、村にいられなくなって逃げ出した。彼は、賞金首のバーギー、ヴィクラム・スィン(アジャイ・デーヴガン)と出会い、彼の乗っている馬アーザードに一目惚れして、彼の一団に加わることになる。
ヴィクラムは、バハードゥルの息子テージ(モーヒト・マリク)の妻ケーサル(ダイアナ・ペンティー)と元々恋仲にあった。ケーサルはヴィクラムの命を助けるためテージとの結婚を了承するが、ヴィクラムはアーザードと共に村を逃げ出すことになり、そのままバーギーになった。テージはケーサルが今でもヴィクラムを愛していると気付いており、ヴィクラムの暗殺を計画していた。ヴィクラムの右腕ビールー(アクシャイ・アーナンド)を買収し、ヴィクラムを罠にはめて、彼を殺すことに成功する。
ヴィクラムの最期を看取ったのはゴーヴィンドだった。ゴーヴィンドはヴィクラムからアーザードを託される。だが、アーザードはヴィクラムを乗せようとしなかった。仕方がないので彼はアーザードを連れて、まずはケーサルに会いに行く。そしてヴィクラムが死んだことを伝える。そのついでに彼はジャーナキーとも会う。ジャーナキーはホーリー祭の後、そのときの出来事を誰にも話していなかった。ゴーヴィンドは取り越し苦労によってバーギーになってしまったことを知る。ゴーヴィンドは自宅に戻るが、父親のブラジ(サンディープ・シカル)は彼が連れて来たアーザードのあまりの立派さを見て、それがトラブルを巻き起こすことを予感する。ゴーヴィンドは怒って再び家出をし、村外れの廃墟にアーザードを隠すことにした。
ゴーヴィンドとジャーナキーは密会を繰り返すようになる。ジャーナキーはゴーヴィンドに、アルド・クンブ祭の競馬レースに出場することを提案する。ジャーナキーに言い寄っていた、英国人ジェームズ・カミングスは、ゴーヴィンドが乗っているアーザードを見て買おうとするがゴーヴィンドは断る。すぐにゴーヴィンドの素性は知れ、バハードゥルはブラジを呼び出して、息子が持っている馬を差し出すように命令する。ゴーヴィンドは、アルド・クンブ祭の競馬レースに出場すると宣言し、もし勝ったら村人たちの借金を帳消しにすること、もし負けたらアーザードを差し出すことを条件として提示する。ジェームズの父親ロード・カミングスはそれを受け入れるが、バハードゥルとテージは何とかしてゴーヴィンドの出場を阻止しようとする。まずはアーザードを盗み出し、地主宅に怒鳴り込んできたゴーヴィンドを捉えて折檻する。夜にジャーナキーはこっそりゴーヴィンドを救い出す。アーザードはどこかへ連れられて行こうとしていた。ゴーヴィンドはアーザードを奪い返す。
アルド・クンブ祭の競馬レースが開催された。ゴーヴィンドはアーザードと共に何とか時間までに到着し、レースに参加する。テージはアーザードをナイフで傷つけ彼の勝利を妨害するが、アーザードはヴィクラムを思い出し、傷をものともせずに疾走し出す。レースは乱戦となったが、アーザードは他の馬をごぼう抜きにしてトップに躍り出て、ゴーヴィンドはテージを馬から蹴落としてゴールする。こうしてゴーヴィンドは人々に自由への渇望と反乱の勇気を与えたのだった。
映画は1920年のインド中央部を舞台にしている。1920年といえば、奇しくも「RRR」(2022年/邦題:RRR)と同じである。これがどういう時代かというと、南アフリカから帰国したマハートマー・ガーンディーが英国植民地政府の圧政に対してサティヤーグラハ運動を既に開始しており、アムリトサルの虐殺があった年の翌年である。英国人の残忍性が明らかになっていたが、インド人支配者層の多くは英国人と手を結び、圧政に加担して、利益を享受しようとしていた。「Azaad」の主な舞台になっているブーサル村に住む人々も、帝国主義と封建主義の融合が強大な権力を持つに至ったことをよく自覚しており、それに対して声を上げる勇気すら振り絞ることができず、ひたすら圧政を耐え忍んでいる状態だった。
登場人物の中で唯一、抵抗の気概を持っていたのは、ゴーヴィンドの祖母であった。彼女は事あるごとに臆病な息子や村人たちを叱咤する。だが、なかなか彼らが支配者層に立ち向かうことはなかった。実は主人公ゴーヴィンドにしても、多少の反骨心は持ち合わせてみたものの、彼がバーギーになったのは大義のためというよりは、地主の娘ジャーナキーとのつまらないイザコザのためだった。しかも、彼がバーギーの棟梁ヴィクラムに付いて行ったのも、彼に憧れたというよりも、彼の乗っている馬アーザードに一目惚れしたからだった。
「Azaad」のユニークな点は、ゴーヴィンドとジャーナキーの恋愛よりも、ゴーヴィンドとアーザードの関係構築の方に重点が置かれていたことである。ゴーヴィンドはしがない馬丁である一方、ジャーナキーは地主の娘である。当然、二人の間には越えられない壁がある。だが、不思議なことにこの映画では、この二人は大した障害もなく接近していく。二人の間に恋心らしきものが芽生えているのは感じられるが、それが実を結ぶことはなく、結末でも彼らのその後について触れられない。「Azaad」の主題がこの二人の恋愛ではないのは確実である。その代わり、ゴーヴィンドがアーザードの信頼を買い取るまでの描写に多大な時間が割かれる。これは、おそらくインド映画としては初めてのジャンルとなる「馬映画」である。
最近のインド映画では、動物虐待の批判を避けるため、動物を登場させたい場合はCGによって創り出された動物を使用することが非常に多い。だが、「Azaad」に登場する馬アーザードはCGではなく実物だった。これはジョードプルのサターナー厩舎で育てられたパラークラムというマールワーリー種の馬のようである。主演のアマン・デーヴガンはパラークラムと100日間過ごし、親睦を深めて撮影に臨んだとされている。「Azaad」を観ていて感心したのは、馬がちゃんと演技をしていることだ。もしくは馬に演技をさせているといった方が適切であろうか。表情や動作など、ひとつひとつがそのシーンに見事にはまっていた。クライマックスの競馬レースも非常に迫力があった。これほど馬にこだわったインド映画は観たことがない。この点は文句なく称賛に値する。
ローンチ映画ということで、新人二人のお手並み拝見もこの映画の楽しみだ。アマン・デーヴガンは、アジャイ・デーヴガンの妹ニーラムの息子である。乗馬している姿が様になっており、演技力にも不足は感じなかった。次世代のスターにのし上がる可能性は十分ある。それに比べてラーシャー・タダーニーの演技には多少のぎこちなさがあったが、彼女の乗馬姿もかっこよかった。思うに馬に乗っていると誰でも魅力的に見えてしまう。そういう意味では、乗馬のある映画をデビュー作に選んだのはいい決断だった。
ただ、残念ながら「Azaad」は興行的に失敗した。やはり馬映画というマニアックさが理解されなかったか。個人的には、シンプルな筋に迫力ある映像が加わり、見応えのある時代劇になっていたと感じたのだが、そう評価したインド人観客は少なかったようである。
「Azaad」は、期待の新人といえるアマン・デーヴガンとラーシャー・タダーニーを同時デビューさせるために作られたといえるローンチ映画である。ただ、映画をかっさらっていったのは、題名にもなっている馬のアーザードであった。馬の演技や描写は素晴らしい。新人二人からも一定の将来性を感じた。だが、それが興行成績にはつながらなかったようである。個人的には、それは過小評価だと感じる。是非一度自分の目で観て評価を決めてほしい。