2024年8月2日公開の「Ulajh(錯綜)」は、ハニートラップに掛かった女性外交官を主人公にしたスパイ・スリラー映画である。
監督は「Loev」(2017年)のスダーンシュ・サリヤー。主演はジャーンヴィー・カプール。他に、グルシャン・デーヴァイヤー、ローシャン・マシュー、アーディル・フサイン、メイヤン・チャン、ラージェーシュ・タイラング、ラージェーンドラ・グプター、ジテーンドラ・ジョーシー、サークシー・タンワル、ルシャド・ラーナー、ヒマーンシュ・マリクなどが出演している。
パーキスターンの新首相シェヘザード・アーラム(ルシャド・ラーナー)はインドとの関係改善を宣言し、その親善の証として、インドが指名手配中で現在パーキスターンに匿われているテロリスト、ヤスィーン・ミルザー(ヒマーンシュ・マリク)を引き渡すことを決める。また、アーラム首相がインドの独立記念日に訪印することにもなった。
スハーナー・バーティヤー(ジャーンヴィー・カプール)は著名な外交官一家に生まれ、自身も外交官として活躍していた。彼女は、父親ダンラージ(アーディル・フサイン)が国連大使に選ばれたタイミングで、英国の副大使に任命される。バーティヤー家は色めき立つが、世間ではまだ若いスハーナーの抜擢を縁故主義だと批判する声もあった。
ロンドンに渡ったスハーナーは、パーティーで出会ったシェフ、ナクル(グルシャン・デーヴァイヤー)と仲良くなり、一夜を共にする。ところが彼との情事は盗撮されており、ナクルはその動画や写真を使ってスハーナーを脅し始める。スハーナーはナクルの指示通り、水素発生装置入札に関する機密文書や、パーキスターンに潜伏中のエージェントの名前などをリークせざるをえなくなる。スハーナーは何とか抵抗しようとするが、ナクルは常に一歩先を行っていた。ナクルは本名をフマーユーンと名乗り、パーキスターンの諜報機関ISIのエージェントだと自ら明かす。
インド政府の中でも、在英インド大使館内部に内通者がおり、機密情報をリークしていることが大問題になっていた。大使館に勤める諜報員ジェイコブ・タマン(メイヤン・チャン)はスハーナーを疑うが、彼はナクルに暗殺され、事故死を偽装される。
ナクルはインドの査証を要求し、スハーナーは彼の書類を通す。ナクルを尾行したところ、彼女の運転手サリーム・サイード(ラージェーシュ・タイラング)も仲間であることを知る。スハーナーはサリームの家に乱入し、彼を殺す。サリームの家からは、スハーナーのビデオや写真などが発見された。
そこへインド大使館で働く諜報員セビン・ジョゼフ(ローシャン・マシュー)が踏み込んでくる。セビンは日頃からスハーナーの副大使就任を疑問視しており、彼女に冷たく当たっていた。スハーナーはセビンに、自分が脅迫を受けていたと打ち明け、サリームの家にあった証拠を見せる。セビンもスハーナーの言うことを信じる。スハーナーとセビンは、一連の出来事に諜報機関RAW(研究分析局)の上層部、プラカーシュ・カーマト(ジテーンドラ・ジョーシー)や、マノーハル・ラーワル外相(ラージェーンドラ・グプター)などが関わっていることに気付く。そして、ナクルがインドに行った理由に独立記念日が関係していると推測する。スハーナーとセビンはすぐにインドへ飛ぶ。
ナクルは実はデーヴィッドという名のカナダ出身スナイパーであった。セビンとスハーナーはカーマトを24時間体制で監視し、彼の通信を傍受する。それにより、彼が独立記念日に合わせてインドを訪問するパーキスターン首相を暗殺しようとしていることを知る。カーマトやラーワル外相はヤスィーンに弱みを握られており、彼の引き渡しを何としてでも止めようとしていた。アーラム首相を暗殺すれば、ヤスィーン引き渡しは中止になり、しかもパーキスターンではISIが画策する政変を起こしやすくなる。しかも、スハーナーをISIのエージェントに仕立てあげることで、インドは責任を負わなくて済む。スハーナーの副大使就任から全ては仕組まれたものだった。
アーラム首相は聖廟ジャーミヤー・ダルバール・ダルガーを参拝しようとしており、そこが暗殺ポイントであった。スハーナーとセビンは現地に駆けつけ、ナクルを探す。ダルガーを見下ろす塔が狙撃場所だと見抜いたスハーナーは塔を駆け上り、ナクルと対峙する。そして暗殺を阻止し、彼を殺す。
スハーナーはパーキスターン首相暗殺を阻止したことでインド首相から褒められるが、全ては国家機密であるため、彼女は公の場で表彰されることもなかった。ただ、スハーナーとセビンは、非公式の諜報組織ブラックキャットに加わるようにローシュニー・セーングプター(サークシー・タンワル)から依頼を受ける。
アーリヤー・バットのキャリアにとってターニングポイントとなった映画のひとつに、メーグナー・グルザール監督の「Raazi」(2018年)がある。アーリヤーはこの映画でパーキスターンに潜入する女性スパイを演じ、高く評価された。「Ulajh」は、アーリヤーにとっての「Raazi」のような作品を、次代のトップスターとして認められつつあるジャーンヴィー・カプールに用意しようと企画されたように感じた。
ただし、今回ジャーンヴィーが演じるスハーナーは、正確にいえばスパイではなく、ハニートラップにはまった外交官である。ハニートラップというと、その字面からも、要職に就く男性が狙われるものだと思い込んでしまうが、実際には男女の別なく被害者になりえるようだ。「Ulajh」では敢えて女性外交官をハニートラップの被害者にしていた。
ミシュランスターシェフの振りをしてスハーナーに接近したナクルは、彼女に甘言を投げ掛けて籠絡させ、情事の様子を盗撮し、それらを材料にして脅迫をして、彼女に機密情報を提供させる。危機にさらされていたのは彼女のキャリアや尊厳だけではなかった。ちょうど同じタイミングで父親が国連大使に任命されており、彼女のスキャンダルは父親のキャリアにも影響を与えることが必至だった。はめられたことに気付いたスハーナーは一瞬自殺を考えるが、他でもない父親から偶然掛かってきた電話で勇気づけられ、生きて状況打開を探ることにする。
スハーナーにとってひとつの戦いは、自分をハニートラップに掛けたナクルと、彼の裏にいる組織に対してであった。だが、彼女はもうひとつの戦いを戦っていた。それはネポティズム(縁故主義)批判である。スハーナーは著名な外交官一家の3代目であった。彼女自身は、英国副大使に抜擢されたことを自分の実力と努力の賜物だと考えていた。だが、世間はそう考えておらず、親の七光りだと捉えていた。赴任した英国大使館内部でも、彼女への当てこすりの声が聞こえてきていた。
これは、スハーナー役を演じたジャーンヴィー・カプール本人の置かれた状況とも重なる。ジャーンヴィーの母親は、「English Vinglish」(2012年/邦題:マダム・イン・ニューヨーク)などで知られる大女優シュリーデーヴィーであり、父親はプロデューサーのボニー・カプールである。さらに先代まで遡れば、ランビール・カプールなどに連なる名門カプール家との縁戚関係が浮上する。2020年、ヒンディー語映画界にネポティズム批判が吹き荒れたとき、ジャーンヴィーにもその矛先が向けられた。彼女はその批判に対し毅然とした態度を取り、いい仕事をすることで批判を黙らせる決意を表明した。
だが、スハーナーは状況打開を模索する中で、自分の副大使就任が、より巨大な陰謀の中で決断されたことを知ってしまう。パーキスターンで新しい首相が就任し、インドとの関係改善に乗り出した。そのひとつのジェスチャーとして、テロリストのヤスィーン・ミルザーをインドに引き渡すことを宣言する。ヤスィーンはデリー連続爆破テロの首謀者であり、一旦は逮捕されたものの逃亡し、パーキスターンに匿われていた。実はヤスィーンが逃亡に成功したのは、インドの警察官が買収されたからだった。ヤスィーンに買収された警察官が今では外務大臣や諜報機関の上層部にいた。彼らは何とかヤスィーンの引き渡しを阻止しようと画策し、その中でスハーナーを英国副大使に昇進させて彼女をハニートラップに掛け、スナイパーをデリーに送ってパーキスターン首相暗殺をさせようとしていたのである。
つまり、スハーナーが副大臣に抜擢されたのは、彼女の業績が評価されたからではなかった。親の七光りではなかったが、ハニートラップのターゲットとして最適だったからに他ならない。おそらくこの真相は、彼女にとってハニートラップよりもショックだったかもしれない。
ジャーンヴィー・カプールは自身のキャパティーの範囲内で熱演していたと評価していいだろう。ただ、「Ulajh」で彼女に要求されていたのは、さらに高いレベルの演技力である。愛国心、父親のキャリア、自身の尊厳と自尊心、そしてネポティズム批判などに苛まれる女性外交官を繊細に演じなければならなかったが、まだ経験不足で重みがなかった。そもそも副大使を演じるには若すぎる。それに、たとえばアーリヤー・バットならばどう演じただろうか、ということも考えてしまう。
女性中心映画であったが、脇を固めていたグルシャン・デーヴァイヤーとローシャン・マシューは主演以上に見せ場を作れた。グルシャン演じるナクルは豹変振りが見事であったし、ローシャン演じるセビンは逆に「職場の嫌な奴」から「頼れる相棒」に華麗なる転身を果たした。ローシャンは元々マラヤーラム語映画俳優だが、彼が演じたセビンもマラヤーリーという設定であり、感情的になるとマラヤーラム語のセリフをしゃべっていた。そういえばグルシャンが日本語をしゃべるシーンもあった。
結末は、十分に続編へとつなげられる可能性を秘めていた。パーキスターン首相暗殺を阻止したスハーナーとセビンは、一般には非公開の諜報組織ブラックキャットにリクルートされるからだ。しかしながら、「Ulajh」は興行的に大失敗に終わっており、続編は望めそうにもない。
「Ulajh」は、ジャーンヴィー・カプールの新たな可能性を模索する目的で作られたのではないかと勘ぐってしまいそうになるスパイ・スリラー映画である。女性外交官がハニートラップに掛かるという着想は良かったし、ストーリーもまとまっていたが、現在のジャーンヴィーには少々荷が重い役だった。決してつまらなくはないが、突出したものもない、ごうごく中庸な作品である。