Maharaj

3.5
Maharaj
「Maharaj」

 2024年6月21日にNetflixで配信開始された「Maharaj」は、英領時代の1862年にボンベイ最高裁判所で争われたマハーラージ名誉毀損事件を題材にした法廷ドラマである。グジャラーティー語作家サウラブ・シャーが2013年に著した同名小説を原作にしている。日本語字幕付きで、邦題は「マハーラージ」である。

 この映画は、アーミル・カーンの息子ジュナイド・カーンのデビュー作として話題になっていた。しかしながら、ヒンドゥー教の一宗派であるヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ派)の宗教指導者による女性信者の性的搾取を糾弾する内容であり、2023年に完成していたものの、ヒンドゥー教過激派の報復を恐れて映画館での公開ができずにいた。主演のジュナイドがイスラーム教徒であることも問題を複雑化した。その後、Netflixが配信権を獲得し、2024年6月14日に配信しようとしたが、やはり配信差し止めの訴訟が起こされ、一旦停止となった。その後、6月21日にグジャラート高等裁判所が配信にゴーサインを出したため、即日配信が行われたというわけである。

 プロデューサーはアーディティヤ・チョープラー。監督はスィッダールト・P・マロートラー。俳優のスィッダールト・マロートラーとは別人である。過去に「We Are Family」(2010年)や「Hichki」(2018年)を撮っている。主演は前述の通り、アーミル・カーンの息子ジュナイド・カーン。アーミルはこれまで2回結婚しているが、最初に結婚したリーナー・ダッターとの間に出来た子供だ。

 ヒロインはシャーリニー・パーンデーイとシャールヴァリー。どちらも現在売り出し中の若手女優であり、シャーリニーは「Jayeshbhai Jordaar」(2022年)に出演、シャールヴァリーは「Bunty Aur Babli 2」(2021年)に出演していた。ジュナイドのデビューに合わせて、ヒロインも思いきってフレッシュな顔ぶれを用意したといえる。

 他に、ジャイディープ・アフラーワトが悪役ジャードゥナートジー・ブリジラタンジー・マハーラージを演じている。また、シャラド・ケールカルがナレーションを務めている。

 1832年、グジャラート地方のヴァダールに生まれたカルサンダース・ムルジー(ジュナイド・カーン)は、母親の死をきっかけに10歳の頃、ボンベイに住む叔母の元に送られる。インド社会にはびこる悪習に強い疑問と反感を抱く青年に育ったカルサンダースは、社会改革者ダーダーバーイー・ナオロージーが編集長を務めるラースト・ゴーフタール紙に記事を書き始める。

 カルサンダースにはキショーリー(シャーリニー・パーンデーイ)という許嫁がいた。キショーリーは信心深い女性で、「ハヴェーリー」と呼ばれる寺院でヴィシュヌ派の主管僧侶を務めるジャードゥナートジー・ブリジラタンジー・マハーラージ、通称JJ(ジャイディープ・アフラーワト)を盲信していた。JJは「チャランセーヴァー(足の奉仕)」と称して信心深い若い女性に性的奉仕を強要しており、キショーリーもカルサンダースとの結婚前に何の疑いもなく身体をJJに差し出してしまう。それを知ったカルサンダースはキショーリーとの縁談を破棄する。自らの過ちを悟ったキショーリーは自殺してしまう。

 憤ったカルサンダースは独立してサティヤ・プラカーシュ紙を創刊し、JJの悪行を書き立てる。JJはあの手この手で妨害しようとするが、カルサンダースは負けなかった。そこでJJはカルサンダースを名誉毀損で訴え、5万ルピーの賠償金を申し立てる。カルサンダースは証人を立ててJJに立ち向かおうとするが、JJの脅迫により次々に証人を失っていく。しかし、カルサンダースを支えるヴィラージ(シャールヴァリー)という女性も現れた。

 カルサンダースは法廷で、宗教や宗派を糾弾する意図はなく、JJに対する個人的な恨みもない、望むのはJJの犯した過ちを正すことだと訴え、聴衆の心を勝ち取る。今までJJの性的搾取に遭ってきた女性たちが次々に声を上げ、カルサンダースは無罪となった。逆に裁判所はJJに対する刑事告発を勧告した。こうして、インドにおいて宗教は司法よりも上にないという判例が初めて作られた。

 2024年4月から6月にかけてインドでは下院総選挙が行われ、ナレーンドラ・モーディー首相の3期目続投が決まった。しかしながらインド人民党(BJP)は2014年以来初めて単独過半数を失い、モーディー首相は連立政権の運営を余儀なくされた。過去10年間のように彼は強力なリーダーシップを振るえなくなる可能性がある。

 第二次モーディー政権中には公開できなかった映画が、第三次モーディー政権でOTT配信ではあるが公開されたという出来事は、モーディー政権の弱体化を示す好例となるかもしれない。ヒンドゥー教至上主義を掲げるBJPが中央政府で圧倒的な権勢を誇ってきたこの10年間、ヒンドゥー教過激派はますます大胆な行動を取るようになってきた。そのおかげで、ヒンドゥー教徒の宗教感情を毀損するような映画が作りにくい状況が生まれていた。この「Maharaj」も、正にヒンドゥー教の宗教指導者を悪役にした映画であり、BJPが面白く思わない内容であることは確実だ。

 コスモポリタン都市ムンバイーを拠点とするヒンディー語映画界は、その黎明期から多様性と融和性を尊重する映画作りを行ってきた。モーディー首相の長期政権が続く中でそれが失われつつあるのではないかという警鐘も鳴らされていたが、決してそのようなリベラルな声が完全に抑え込まれたわけではない。ヒンディー語映画界最大のコングロマリットであるヤシュラージ・フィルムス(YRF)はその急先鋒であり、「Tiger 3」(2023年/邦題:タイガー 裏切りのスパイ)や「The Great Indian Family」(2023年)などによって昔と変わらぬリベラルな価値観を発信し続けている。2023年に公開が予定されていたこの「Maharaj」も、大手映画プロダクションとしての責任を果たすために勇気を持って製作した作品だと感じられる。

 映画の内容は、主演ジュナイド・カーンの父親アーミル・カーンが主演した「PK」(2014年/邦題:PK ピーケイ)とよく似ている。決して宗教そのものに反対する映画ではなく、宗教を私利私欲のために利用する宗教指導者や、分別なく盲信する信者たちに疑問の声を呈している。異なるのは、「Maharaj」が実話にもとづいていることだ。「Maharaj」の主人公カルサンダースや悪役ジャードゥナートジー・ブリジラタンジー・マハーラージは実在する人物であり、この二人の間で争われた名誉毀損裁判も実際のものである。

 19世紀後半のインドでは、西洋式の教育が広まったことで、インド人教養層の間から啓蒙主義的な宗教改革者や社会改革者が現れ、インド土着の悪習を根絶して社会の近代化を成し遂げようとする動きがあった。映画にも登場するダーダーバーイー・ナオロージーはこの時代を代表する社会改革家である。その薫陶を受けたカルサンダースは、女性の教育、パルダー制度廃止、寡婦再婚などを推進する活動家であった。「Maharaj」では特に、宗教の名の下に盲信的な女性信者の性的搾取をする宗教指導者との法廷バトルが描かれていた。

 非常に深刻だったのは、女性たちが自ら進んで宗教指導者に身体を差し出していたことだ。それは「チャランセーヴァー」と呼ばれてカモフラージュされ、名誉なこととすら考えられていた。さらに、宗教指導者が女性信者と性交する様子を人々はありがたがって覗き見ていた。現代人の視点から見れば異常な行動である。だが、そのような社会で生まれ育ってしまうと、その異常さに気付けなくなるものだ。

 幼少時からあらゆる事象に疑問を感じて育ってきたカルサンダースは、自分の許嫁が宗教指導者JJに性的搾取され、何の疑問も抱かず、しかも最終的には自殺してしまったことで、ペンの力で戦いを始める。それに対しJJは司法によってカルサンダースを押しつぶそうとする。宗教的な慣習が司法の場で争われることになった。

 裁判の中では、裁判官自身がJJを特別扱いするシーンがあるなど、宗教の力を見せつけられることもあった。だが、きちんと法律に則った手続きで宗教指導者の過ちが証明されるならば、司法が宗教を裁くことも可能であること、宗教は司法の上にはないことが示された。信心深い人々が多く住むインドにおいて、早い時期にこのような判決が下されたのは、その後の社会発展の上で重要な出来事だったと思われる。

 当然、19世紀の事件を21世紀にわざわざ取り上げる裏には、現代に通じる文脈が隠されていると考えるべきであろう。権威主義的・個人崇拝的になりつつあるモーディー首相に対し、宗教や特定の個人は憲法や法律の上にないことを婉曲的に訴える内容の映画だと評価できる。

 その壮大な野心は強く感じられるのだが、映画としての完成度は高くなかった。まだ若手の俳優たちを主要な役に起用したことで、彼らから説得力のある演技を引き出すのに苦労したように見える。ジュナイドは熱演をしていたものの、父アーミルの持つ迫力はまだ出せていなかった。父親と同じく、有意義な娯楽映画路線を目指したいのだろうが、まずは典型的な娯楽映画などで顔と名前を売っても良かったのかもしれない。この路線を続けようと思うとどこかで辛くなることもあるだろう。

 それに、キショーリーを演じたシャーリニー・パーンデーイはまだ未熟であったし、ヴィラージを演じたシャールヴァリーもミスキャスティングに感じた。孤軍奮闘していたのは悪役を演じたジャイディープ・アフラーワトだ。どんな事態に直面しても薄ら笑いして冷静に対処する様子は迫力があった。

 「Maharaj」は、アーミル・カーンの息子ジュナイド・カーンのデビュー作ということで期待を集めていた作品だが、ヒンドゥー教徒の宗教感情に触れる内容の映画だったことで、想定内だったとは思うが、公開が遅れた挙げ句OTT配信になった曰く付きの作品ともなった。残念ながら期待したほどの完成度ではなく、結果的にOTT配信にしたことで失敗が目に付きにくくなり、逆にラッキーだったかもしれない。