The Archies

3.5
The Archies
「The Archies」

 アーチー・コミック社は米国の漫画出版会社で、1941年から10代の若者たちを主人公にしたコミックを出版してきた。米国においてアーチー・コミック社のコミックが全盛期を迎えたのは1950年代から60年代にかけてだったが、インドでは1970年代から流通し始め、80年代から90年代にかけて人気になったとされている。多くのインド人にとって、アーチー・コミック社のコミックはアメリカ文化への入口だった。カラン・ジョーハル監督は、アーチー・コミック社のコミックに影響を受けて「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)を作ったと認めている。

 「Zindagi Na Milegi Dobara」(2011年/邦題:人生は二度とない)のゾーヤー・アクタル監督がアーチー・コミック社のコミックを題材にした実写映画を撮ると聞いたときは驚いたものだ。しかもインド人俳優を起用して作るということで、とても変わった映画になると予感していた。「The Archies」は2023年11月22日にインド国際映画祭でプレミア上映され、同年12月7日からNetflixで配信開始された。プロデューサーはリーマー・カーグティーやゾーヤー・アクタルなどで、台詞をゾーヤーの弟ファルハーン・アクタルが書いている。

 キャスト面でもっとも注目されているのは、「キング」シャールク・カーンの娘スハーナー・カーンがこの映画でデビューを飾っていることだ。また、ボニー・カプールとシュリーデーヴィーの次女であり、ジャーンヴィー・カプールの妹でもあるクシー・カプールも同時にデビューしている。ヒンディー語映画の次代を担うであろう2人の若い女優たちの初陣ということで、フレッシュな顔ぶれながら豪華な布陣だ。

 しかも、主演のアーチーを演じるのは、アミターブ・バッチャンの孫にあたるアガスティヤ・ナンダーである。アミターブの娘シュエーター・ナンダーの息子だ。彼の存在はさらにこの映画を話題作にしている。

 他に、ヴェーダーング・ライナー、ミヒル・アーフージャー、アディティ・ドット・サイガル、ユヴラージ・メーンダー、コーエル・プリー、ターラー・シャルマー、ヴィナイ・パータク、アリー・カーンなどが出演している。

 「The Archies」の舞台は、原作と変わらずリバーデイルということになっているが、インドの町とされている。英領時代に、インドを愛し、インド人と結婚した英国人リバーデイル卿によって起こされた町とされており、英国人とインド人の間に生まれた、いわゆるアングロ・インディアンが住んでいる。インドには実際にアングロ・インディアンの町が存在する。ジャールカンド州のマクルスキーガンジ(McCluskieganj)が有名だ。時代は1964年とされていた。

 1964年、アングロ・インディアンの町リバーデイル。裕福な実業家ハイラム・ロッジ(アリー・カーン)の娘ヴェロニカ、通称ロニー(スハーナー・カーン)がロンドンから2年振りにリバーデイルに戻ってきた。リバーデイルで旅行代理店を営むフレッド・アンドリューズの息子アーチボルド、通称アーチー(アガスティヤ・ナンダー)とロニーは2年前まで付き合っていた。リバーデイルで書店を営むハル・クーパーの娘エリザベス、通称ベティー(クシー・カプール)はロニーの親友だったが、密かにアーチーに片思いをしていた。ロニーから、既にアーチーには何の恋心も抱いていないと聞かされ、ベティーは安心する。

 ハイラムは帰郷するや否や、リバーデイルの開発を始める。手始めに商業施設であるプラザの建設に取りかかり、次にホテルの建設を考え始めた。ハイラムの妻ハーマイオニー(コーエル・プリー)は、リバーデイルの中心部にあるグリーンパークをホテルの建設地として提案する。グリーンパークはリバーデイル住民たちの憩いの場であり、思い出の場でもあった。リバーデイルでは、子供が5歳になると、この公園に植樹をしていた。だが、ハイラムは妻の意見を採用し、グリーンパークにホテルを建設するために動き出す。町議会で過半数の議員から賛成票を得る必要があった。ハイラムの腰巾着ドーソン(ヴィナイ・パータク)は、ハイラムから資金援助を受けて町議会議員選挙に立候補し、議長になる。そして、過半数の5票を集め、グリーンパークにホテルを建設する法案を通してしまう。

 ホテル建設計画を知ったアーチーは、ロニー、ベティー、食いしん坊のジャグヘッド(ミヒル・アーフージャー)、新聞社の息子レギー(ヴェーダーング・ライナー)らと共に反対運動を始める。法案可決から45日以内にリバーデイルに住む18歳以上の有権者の過半数となる4,500人の署名を集めれば、その決定を覆すことができる。彼らはまだ17歳だったので署名はできなかったが、大人たちに働きかけ、署名集めをする。

 一時、ロニーが仲間はずれになったり、アーチーがロニーとベティーの両方に言い寄っていたことが発覚したりと人間関係のトラブルもあったが、グリーンパークで署名フェスティバルを開催したりして、彼らは見事5,600人から署名を集めることに成功する。ハイラムも娘たちの活動を認め、ホテル建設を取り止める。

 物語の途中で歌と踊りが挿入されるインドの娯楽映画はしばしば「ミュージカル」とジャンル分けされるが、歌と踊りの使い方に若干の違いがあり、西洋の「ミュージカル」と全く同じではないと感じる。よって、その安易なジャンル分けには抵抗がある。しかしながら、この「The Archies」は、正に西洋的な「ミュージカル」の手法で作られた映画であった。言い換えれば、インド映画の文法で作られた映画ではなかった。過去にも「Salaam-e-Ishq」(2007年)など、そのようなインド映画はあったものの、この「The Archies」ほどインド映画らしさを消したミュージカル映画はなかった。米国のコミックを原作としているから当然といえば当然なのだが、まるで米国の映画を観ているかのようだった。

 インドを舞台にし、インド人俳優を起用して、米国的な映画を作ったとしたら、普通ならば抗しがたい違和感が鑑賞を邪魔したことだろう。だが、「The Archies」はアングロ・インディアンという要素を出して来て、その違和感を手品のように払拭してしまった。舞台となったリバーデイルはまるでインドとは思えないような理想郷だったが、アングロ・インディアンの町という設定にしてしまったことで、異論を封じることに成功している。

 せっかくアングロ・インディアンという要素を掘り起こしたため、それを単なる言い訳に利用するだけでなく、彼らのアイデンティティー問題にも触れ、深みが加えられていた。英国人とインド人の血を引いている彼らは、英国に同情的な存在だと考えられることが多い。現に、主人公のアーチーも英国留学を夢見ており、アングロ・インディアンの血のおかげで留学が許可されやすいことを天恵だと考えていた。また、彼の叔父ベンはインド独立後に英国に渡って成功していた。その一方で、アーチーの父親はインドに残り、祖父が始めた旅行代理店を営んでいた。アーチーは考え直し、リバーデイルに残ることを決める。それは、アングロ・インディアンもインドを構成する大切な一員だと誇りを持っている父親の考えに共感したからだった。

 ちなみに、現在のインドにおけるアングロ・インディアンの人口は15万人以下とされている。14億人の人口を抱えるインドではごく小さなコミュニティーだ。しかしながら、独立以来、アングロ・インディアンは最大限保護されてきた。たとえば、下院にはアングロ・インディアンのための議席が2つ留保され、選挙ではなく大統領の指名によって議員が選出されていた。だが、2020年に、人口減少を理由にアングロ・インディアンの留保議席は廃止された。アングロ・インディアンは通常、キリスト教徒である。アングロ・インディアンの留保議席廃止は、2014年以来政権を握るインド人民党(BJP)のヒンドゥー教至上主義政策と関係があるのかもしれない。「The Archies」では、アングロ・インディアンもインドに帰属意識を持っていることが描かれ、彼らを余所者扱いするインド一般の偏見に一石が投じられているように感じる。

 さらに、「開発」の名の下に、リバーデイル住民たちの憩いの場であるグリーンパークの木を伐採し、ホテルにしてしまおうというハイラムの野望、そして、目的達成のためなら手段を選ばない手口は、BJPを率いるナレーンドラ・モーディー首相の批判と受け取れなくもない。ハイラムは議員を買収して法案を可決させ、新聞社を脅迫して反対運動を抑え付けようとした。ただし、宗教的なモチーフは、教会を含めて一切出て来なかったのも確かである。インドではないような環境が用意され、インドらしくないストーリーが描写されていたが、そこから逆に、現在のインドに対する批判的な眼差しを強く感じてしまうのは穿ちすぎであろうか。

 そのように深読みしなくても、この映画は純粋に恋愛のトライアングルを描いた作品として一定の楽しみが得られるだろう。ただ、アーチーは、ロニーとベティーの二人を同時に愛しており、どちらとも決めきれない優柔不断な態度を取っていた。それが不愉快に感じる観客は少なくないかもしれない。あくまで彼のその態度は天然の産物であり、悪気や下心があったわけではないようなのだが、彼のこのどっちつかずの行動が女の友情に深刻なダメージを与えていたことも確かだ。ロニーとベティーは親友同士であった。最終的にロニーとベティーは友情を取り、アーチーを同時に振ってしまう。こういうサバサバしたエンディングもインド映画らしくない点であった。

 インド映画における歌と踊りの使い方と、西洋的なミュージカルの違いを感じるにはうってつけの作品だった。インド人監督が敢えて作った西洋的なミュージカル映画だと評価できる「The Archies」では、ソングシーンやダンスシーンの入り方や歌詞の方向性が、一般的なインド映画と全く異なるのだ。インド映画では、ここぞという場面で、言葉にならない感情が絞り出されるように歌われることが多いが、「The Archies」では、カジュアルな会話が歌になっていたり、歌にしなくていい場面で歌が使われたりしていた。どちらが優れているというわけではないが、インド映画の良さもよく分かった。ちなみに、音楽監督はシャンカル・エヘサーン・ロイである。

 今回、「The Archies」は映画として作られたが、もしかしたら数話構成のウェブドラマとして作った方が良かったかもしれない。多くの登場人物がいたが、それぞれの細かい紹介が足りず、消化不良だった。しかも、ストーリーに多少の混乱が見られた。たとえば、アーチーたちはグリーンパークを救うために署名活動を始めるが、その週末には、英国に留学するアーチーのお別れパーティーのために郊外へ泊まりで旅行に行ってしまう。目標の数が集まるか分からない中、本来ならば週末返上で署名活動に従事すべきだったが、それを放り出してパーティーをしてしまったために緊張感が切れてしまっていた。

 スハーナー・カーンは、「Student of the Year」(2012年/邦題:スチューデント・オブ・ザ・イヤー 狙え! No.1!!)でアーリヤー・バットが演じたシャナーヤーに似た、裕福でタカビーな女の子役を演じていた。目立っていたが、彼女の潜在力はまだ未知数だ。まず、台詞回しに強さが感じられなかった。演技でわざとそういうしゃべり方をしているのか、それともこれが地なのかは分からない。容姿の面でも、身長が特別高いわけでもないし、肌の色も決して白い方ではない。「Om Shanti Om」(2007年/邦題:恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム)のディーピカー・パードゥコーンのような「衝撃のデビュー」というレッテルは貼りにくいというのが正直な感想だ。ただし、踊りは上手かった。

 クシー・カプールは良かった。姉のジャーンヴィー・カプールよりも良いかもしれない。身長も高く、色白だ。彼女の存在があったから、スハーナーが色あせて見えてしまったところもある。どちらもヒロイン扱いだったが、役柄のせいか、クシーの方がメインヒロインという感じがした。観客の多くも、スハーナーが演じるロニーではなく、クシーが演じるベティーとアーチーが結ばれて欲しいと願うはずだ。そういう引き付ける力がある女優だと感じた。

 アガスティヤ・ナンダーも今後伸びていく男優になるだろう。ただ、レギーを演じたヴェーダーング・ライナーや、ジャグヘッドを演じたミヒル・アーフージャーなど、周辺にも同じ方向性のハンサムな若手男優を起用され並べられてしまったため、彼一人が目立っていたというわけでもなかった。この辺りはゾーヤー・アクタル監督の趣味であろうか。

 「Student of the Year」でデビューしたスィッダールト・マロートラー、ヴァルン・ダワン、アーリヤー・バットが大物に育ったように、この「The Archies」でデビューした若手俳優たちも、2020年代のヒンディー語映画界を担う人気スターになっていくことは十分にあり得る。

 「The Archies」は、インド映画なのにインド映画の文法に従っておらず、そのためにインド映画らしくない、という変わった映画だ。米国の古典的な人気コミックを原作にしていることや、登場人物をアングロ・インディアンにしていることなどもその理由なのだが、何より歌と踊りの使い方が西洋のミュージカルに近いのである。また、シャールク・カーンの娘スハーナー・カーン、ジャーンヴィー・カプールの妹クシー・カプール、アミターブ・バッチャンの孫アガスティヤ・ナンダーなど、スターの卵たちが揃ってデビューしており、今後のヒンディー語映画界を占う上でも重要な作品になっている。