映画と社会の相互影響

 映画が社会の鏡であることは古今東西でいわれてきていることであるし、今後もそうであり続けるであろう。映画が社会に及ぼす影響についても盛んに議論されていることだ。だが、インドでは、映画が社会を映し、その映画がまた社会を変革に導く連鎖が起こり、結果的に映画が新政権樹立を導いたと評価できる事例がこの21世紀に見られた。南インドでよくあるような、映画スターがファン層を票に変換して州首相にまでなってしまうという話ではなく、映画が社会を変え、政治を変えたという話である。今回の記事は、第47回南アジア研究集会(2014年)で発表した論考「ジェシカ・ラール事件からAAPのデリー政権樹立まで:ヒンディー語映画『Rang De Basanti』『No One Killed Jessica』『Satyagraha』の影響を考えながら」を加筆修正したものである。

事件

特に★印の事件を詳しく取り上げる

1999年4月30日未明ジェシカ・ラール殺人事件(★)
2001年9月17日インド空軍パイロットのアビジート・ガードギルがMiG-21操縦中に墜落死(★)
2006年2月21日ジェシカ・ラール殺人事件地方裁判決(★)
2006年4-5月アンチ・リザベーション運動
2006年10月17日プリヤダルシニー・マットゥー殺人事件判決
2006年12月15日ジェシカ・ラール殺人事件高裁判決(★)
2011年4月5日第一次ジャン・ロークパール運動(★)
2011年8月16日第二次ジャン・ロークパール運動、アンナー・ハザーレー逮捕(★)
2012年11月26日庶民党(AAP)結党
2012年12月16日デリー集団強姦事件(★)
2013年12月4日デリー州議会選挙(開票は8日)
2013年12月28日デリーAAP政権樹立、アルヴィンド・ケージュリーワール党首の州首相就任(★)
2014年2月14日ケージュリーワールの州首相辞任、州議会凍結、デリーの大統領統治

概要

 21世紀に入り、ヒンディー語映画は劇的な変化を遂げた。映画の「産業」化とマルチプレックスの普及に伴い、都市在住中間層が映画館に回帰し、映画作りもこれらの層を主なターゲットとするようになった。結果、ヒンディー語映画のグローバル化が進行し、娯楽映画と社会派映画が高次元で融合するようになった。その副産物として、映画が都市在住中間層――特に若者――に与える影響も増大した。北インド出身の映画監督が増えたことで、デリーを始めとした北インドが舞台になったり、北インドの問題を取り扱ったりする映画も増え、かつてのようなムンバイー一辺倒ではなくなった。このような経緯もあり、政治的に意識の高いデリー市民はヒンディー語映画から強い影響を受けるようになった。本論考では、「Rang De Basanti」がジェシカ・ラール殺人事件判決に与えた影響を中心に、それが後のデリーにおけるAAP政権樹立までつながる可能性を概観し、インドにおいて映画が社会の中で果たす役割の大きさやユニークさを検証する。

ジェシカ・ラール殺人事件

 ジェシカ・ラールとは、1965年1月5日生まれのモデルで、デリーの社交界ではよく知られた人物であった。ジェシカにはサブリナという姉がいた。

Jessica Lall
ジェシカ・ラール

 1999年4月29日、南デリーのタマリンド・コートというレストラン兼バーでセレブ向けパーティーが開催され、ジェシカはそこでバーテンダー係をしていた。このレストランのオーナーはビーナー・ラマーニー。ファッション・デザイン、作家、レストラン経営などを手掛けるデリー社交界の花形で、デリー南部のハウズ・カース・ヴィレッジをファッション・ハブに育て上げた張本人でもある。

Bina Ramani
ビーナー・ラマーニー

 パーティーには若手映画俳優シャヤン・ムンシーを始めとした多数の著名人が訪れ、用意したアルコールも消費されて、日付が変わる頃にはつつがなく閉会へと向かっていた。

shayan munshi
シャヤン・ムンシー

 ところが、参加者がパーティーの余韻を楽しんでいた深夜2時頃、マヌ・シャルマーとその友人たちがパーティーを訪れ、酒を要求した。マヌは、中央政府大臣の経験もあるインド国民会議派(INC)政治家ヴィノード・シャルマーの息子であった。既にパーティーは終わっていたことや、バー営業時間の規制などもあり、ジェシカは酒の提供を拒否した。するとマヌは怒って拳銃を取り出し、2回発砲した。その内の1発がジェシカの頭部に命中し、彼女は即死した。マヌらは逃亡したが、後日相次いで逮捕された。マヌが逮捕されたのは事件から1週間後の5月6日だった。この事件の容疑者たちは1999年8月3日に起訴された。マヌ・シャルマーに掛けられた容疑は殺人罪や証拠隠滅罪などであった。ちなみに、タマリンド・コートが違法に営業されていた疑いも出て、ビーナー・ラマーニーなどレストランの関係者も逮捕された。以上が事件自体の簡単な顛末である。

manu sharma
マヌ・シャルマー

MiG-21問題

 MiG-21とはソ連製の超音速戦闘機である。インドでは1963年に初めて導入され、段階的退役が決まった2013年までに872機が配備された。

MiG-21
MiG-21

 ところが、MiG-21は頻繁に墜落する戦闘機としても知られており、この間に482機が墜落し、170名以上のパイロットが命を落としたとされている。一説によると、インド空軍は2,500飛行時間ごとに1機のMiG-21を失っている。これは世界で最も高い事故率である。このため、MiG-21は「空飛ぶ棺桶」「寡婦メーカー」などの不吉な異名で呼ばれている。

 もし欠陥があるならば、なぜインド空軍はMiG-21を使い続けていたのか、という話になるが、それに関する見方は様々である。MiG-21は最もコスト・パフォーマンスに優れており、代替の戦闘機が長らく存在しなかったとか、官僚機構の機能不全により次期戦闘機がなかなか決定されなかったとか、MiG-21は配備数が多いことから墜落数も自然と多くなるだけで、墜落率は高くなく、配備を続けるのに問題はなかったとか、訓練が未熟なパイロットが準音速戦闘機から一足飛びにこの音速戦闘機を操縦することになるために事故が多くなっているだけで、MiG-21自体には問題がない、などなど。かつてジョージ・フェルナンデス国防相は国会で、MiG-21で多発する事故の原因の38%は人的ミス、37%は技術的欠陥と述べている。

 MiG-21問題を真っ向から取り上げ、腰の重い政府に対して活動を開始したのは、アビジート航空安全基金(AASF)であった。創立者はカヴィター・ガードギル。彼女の息子アビジートはインド空軍のパイロットで、2001年9月17日、MiG-21を操縦中に墜落して死亡した。享年は27歳、結婚したばかりであった。息子の死の原因を「パイロットが未熟だったため」として片付けられたことに強い不満を抱いたカヴィターは、2002年にAASFを立ち上げてMiG-21問題を提起し、同様にMiG-21の事故で近親者を亡くした人々の結束を促して、これ以上この戦闘機による犠牲者が出ないように活動している。拠点はムンバイー郊外にある。

Kavita Gadgil
カヴィター・ガードギル

Rang De Basanti

 「Rang De Basanti」は、2001年にアミターブ・バッチャン主演の「Aks」で監督デビューしたラーケーシュ・オームプラカーシュ・メヘラーの第2作である。公開は2006年1月26日(共和国記念日)。言語は基本的にヒンディー語。2006年を代表するヒット作の1本となっただけでなく、2000年代で最も重要なヒンディー語映画である。批評家からも絶賛を受け、アカデミー賞外国語映画賞インド公式エントリー作品に選ばれた他、フィルムフェア賞の作品賞・監督賞・音楽賞を始めとした各種の賞も受賞している。あらすじはリンク先を参照していただきたい。

Rang De Basanti
Rang De Basanti

 題名となっている「Rang De Basanti」とは直訳すれば「黄色に塗れ」であるが、これにはさらに深い意味が込められている。中世、ラージプートたちは戦場に赴く際、身体中にターメリックを塗りたくった。これは葬儀のときに死体にターメリックを塗る習慣があったからであり、言わば死に装束で戦場に赴くことで、殉死する覚悟を表した。つまり、「黄色に塗れ」とは、殉死を促すスローガンと受け止められる。共和国記念日に公開されたこの映画の内容も非常に愛国主義的である。若者に対して、不正を看過したり堪え忍んだりするのではなく、行動し変革するように促す強いメッセージが読み取られる。

 ただ、この映画が若者たちに武装蜂起や暴力革命を求めていると考えるのは早計であろう。映画のメッセージを正確に読み取るには、終盤のラジオ局占拠時にカランがリスナーと意見交換するシーンが最も重要だ。そこでカランは若者たちに、政治家や官僚になってシステムの内側からシステムを変えるように訴えかけている。彼らは劇中で国防大臣暗殺など極端な手段を採ったがシステムは何も変わらなかった。そこを読み違えてはいけないと感じる。

 MiG-21問題を題材にしてインドの政治・経済・社会に蔓延する汚職の問題を糾弾した「Rang De Basanti」はインド人の若者の政治意識に多大な影響を与えたとされており、公開前後のインド人ブロガーたちの反応の研究などからもそれが明らかになっている。特に、劇中でインド政府に対する抗議方法としてキャンドルライト・ヴィジルが登場したが、これがすぐに現実世界で実行に移されることになる。

キャンドルライト・ヴィジル

ジェシカ・ラール殺人事件判決と抗議運動

 ジェシカ・ラール殺人事件では12人の容疑者の内、主犯のマヌ・シャルマーを含む9人が事件直後に逮捕された。殺人現場には多数の目撃者がおり、マヌの有罪は確定的に見えた。

 ところで、インドでは尋問による自白の強要を防ぐために、警察による取り調べ時の証言は裁判の証拠として認められないことになっている。よって、証人は公判時に改めて証言をしなければならず、その証言のみが証拠として判決に反映される。また、インドの裁判は往々にして遅々として進まない。これを逆手に取り、判決が下されるまでの間に金や暴力によって証人たちが次々と買収されて行った。特に、若手男優のシャヤン・ムンシーは射殺現場そのものに居合わせた一級の目撃者であり、警察による取り調べ時にはマヌの犯行を裏付ける重要な証言をしていたが、公判時にはそれを翻し、別の誰かがジェシカを撃ったと言い出した。それが取り調べ時の証言と異なる理由については、「ヒンディー語が分からなかったから」と嘯いた。

 2006年2月21日に地方裁判所は判決を下したが、警察の捜査ミスが槍玉に上げられ、マヌ・シャルマー以下、全ての容疑者が、証拠不十分で無罪放免となった。インド最大の英字新聞Times of India紙デリー版(2006年2月22日付)はこのセンセーショナルな判決をトップ記事で扱い、見出しとして「No one Killed Jessica」と書き立てた。ジェシカは殺されたが、殺した人物はいない。インド人、特にジェシカ・ラール殺人事件の当該地であるデリーの市民は、この判決に司法の危機を感じ、憤慨した。

Times of India
2006年2月22日付Times of India

 この判決が下されたのは、折しも「不正を看過するな」「行動を起こせ」という強烈なメッセージが込められた「Rang De Basanti」の興奮冷めやらぬ時期であった。従来、政治に無関心とされてきた都市在住中間層の若者たちの間で、「この映画は他人事ではない」という意識が広がっていたことは、映画のレビューが書かれたブログの分析から指摘されている。当時既にインド人の多くが携帯電話を所持していたが、判決後、SMSによってこの判決に対する抗議集会参加の呼び掛けが出回り、デリー市民の間で急速に転送され広まって行った。その文面は以下の通りである:

If the Jessica case has upset you, show you care. There is a protest gathering at India Gate next Saturday, March 4 at 5.30pm. Be there. Help keep up the pressure. Demand justice.
もしジェシカ事件の判決がおかしいと思うならば、それを行動に移そう。3月4日(土)午後5時30分にインド門で抗議集会がある。参加して欲しい。圧力を掛けるのを手伝って欲しい。正義を求めよう。

 奇妙なのは、SMSの出所が不明なことだ。どうやら、何らかの政治団体や組織が企画したものではなかったようである。Times of India紙、Tehelka誌、NDTVを始めとするマスメディアも今回の判決のおかしさや司法システムの欠陥などを特集し、「Justice for Jessica」キャンペーンが盛り上がっていたが、この呼び掛け自体はマスコミ主導のものでもなかった(後からTehelka誌の編集長タルン・テージパールが、自身が発起人であると主張しているが、疑わしい)。こうして2006年3月4日、土曜日の夕方、インド門において自然発生的に抗議集会が開かれ、多数の市民が集い、「Rang De Basanti」通りのキャンドルライト・ヴィジルが行われた。

candlelight vigil
2006年3月4日

 この出来事はいくつかの観点から非常に重要である。

 まず、1本の映画が社会に影響を与え、市民運動を引き起こした点だ。インドにおいて映画の影響力や浸透力は元々他国に比べて非常に大きいのだが、映画がここまで大規模な市民運動を引き起こしたという例は、インドにおいては過去にないのではないかと思うし、世界においても非常に稀だと言えるだろう。

 次に、これをきっかけにインド門が定番の抗議集会場所となったことである。それ以前、政府公認の抗議場所はジャンタル・マンタルであり、大規模なものになるとラームリーラー広場が会場に宛がわれることもあったが、ジェシカ・ラール殺人事件公判以降、インド門が抗議場所の有力な選択肢として定着した。

 キャンドルライト・ヴィジルという抗議方法がインドで定着したのもこの事件がきっかけだった。事故などで亡くなった人への追悼の気持ちを込めたキャンドルライト・ヴィジルは以前から各国で行われていたようだが、抗議の一形態としてのキャンドルライト・ヴィジルはもしかしたらジェシカ・ラール殺人事件が初かもしれない。

 また、SMSという現代的なコミュニケーションツールが抗議運動に不特定多数の人員を動員した最も早い例としても記憶していい事件だ。2009年から2011年に掛けて、イラン、エジプト、チュニジアなどで「Facebook革命」と呼ばれる、SNSを通じて動員されたとされる運動が起こったが、その先駆けとなる事件であった。

 最後に、最も重要なのは、この抗議運動が実を結んだということである。デリー市民による抗議運動に押される形でデリー警察は上告すると同時に、捜査に当たった警察官の取り調べを開始した。無罪放免された容疑者たちは再び逮捕され、再度公判が行われることになった。

 デリー高等裁判所で裁判のやり直しが行われている間、いくつかの事件が平行して起こった。高等教育機関入学試験への保留制度適用に対する一連の抗議運動、プリヤダルシニー・マットゥー殺人事件判決、そしてジェシカ・ラール殺人事件証人に対するTehelka誌のスティング・オペレーション(囮捜査)などである。

anti reservation
アンチ・リザベーション運動
プリヤダルシニー・マットゥー殺人事件判決

 同年9月26日には、ジェシカ・ラール殺人事件に酷似した事件に言及し、スティング・オペレーションも組み込んだ「Utthan」という映画も公開された。作りがB級でほとんど注目されなかったが、タイムリーな作品だったといえよう。

Utthaan

 このような時勢の中、2006年12月15日、デリー高裁は事実審裁判所の判決を覆してマヌ・シャルマーを有罪とし、20日に終身刑を言い渡した。

 ジェシカ・ラール殺人事件判決に対する抗議運動をきっかけに、デリーでは市民による抗議運動が常態化して行った。「Rang De Basanti」型のキャンドルライト・ヴィジルに加えて、2006年9月1日に公開されたヒンディー語映画「Lage Raho Munna Bhai」型の、抗議相手に花などを贈るという、いわゆる「ガーンディーギーリー」と呼ばれる抗議形態も一時流行した。その他、ハンガー・ストライキやプロテスト・マーチと言った伝統的な抗議形態も採られた。多くはインドが誇る非暴力主義のものであったが、様々な要因から暴力に発展したり、警察によって強制的に鎮圧されたりと、様々な結末を生んだ。

Lage Raho Munna Bhai
Lage Raho Munna Bhai

No One Killed Jessica

 2011年1月7日、「No One Killed Jessica」というヒンディー語映画が公開された。監督は「Aamir」(2008年)で監督デビューし高く評価されたラージクマール・グプター。この題名は前述の通り、ジェシカ・ラール殺人事件の判決でマヌ・シャルマー以下容疑者全員が無罪放免されたことを受けてTimes of India紙が皮肉たっぷりに一面に掲げた見出しである。そしてこの題名から分かるように、「No One Killed Jessica」はジェシカ・ラール殺人事件と公判の顛末を映画化したものだ。

No One Killed Jessica
No One Killed Jessica

 これより3年前の2008年1月11日には「Halla Bol」というヒンディー語映画が公開されており、部分的にジェシカ・ラール殺人事件を題材としていたが、フィクションの要素が強すぎたし、娯楽作品としても失敗に終わっている。

halla bol
Halla Bol

 一方、「No One Killed Jessica」の方は、ジェシカの姉サブリナの全面協力もあって、サブリナの視点に立った正確な事実認識がなされており、ジェシカとサブリナが実名で登場する。よって、ジェシカ・ラール殺人事件とその後の一連の展開を知るには最適の一本となっている。また、退屈なドキュメンタリー映画調ではなく、緊迫感あるスリラー映画調に仕上がっており、事件と独立して娯楽映画として鑑賞しても十分楽しめるだろう。この辺りが最近のヒンディー語映画の強みである。

 批評家たちから高い評価を受けたと同時に、「年初はヒット作に恵まれない」という業界のジンクスを打ち破り、興行的にも口コミで観客が集まり成功を収めた。特に、劇中でジェシカ・ラール殺人事件を追う女性ジャーナリストを演じたラーニー・ムカルジーの演技が絶賛され、彼女はフィルムフェア賞助演女優賞を受賞した。

 「No One Killed Jessica」の成功は、直接映画を鑑賞した観客から映画は観ないが時事に敏感な人々まで、ジェシカ・ラール殺人事件の記憶を新たにする作用をもたらした。この映画で初めてジェシカ・ラール事件の詳しい経緯を知った人も多かったはずである。同時に、市民が一致団結して抗議活動を行えば、どんな強大な権力に守られた者にも正義の鉄槌を下すことができるという成功体験を再生産することになった。

 奇しくも、「No One Killed Jessica」公開前後のインドでは、数々の巨額汚職が次々に明るみに出ていた。英連邦競技大会(CWG)汚職問題、2Gスペクトラム汚職問題、アーダルシュ団地汚職問題、住宅ローン汚職問題、海外違法送金問題などである。しかも、これらの汚職に関わった政治家や官僚はこの時点ではほとんどまともに罰せられていなかった。

CWG
英連邦競技大会

 この頃話題に上った汚職疑惑の多くは、2004年から2期に渡って政権を担う統一進歩連盟(UPA)絡みのものであり、国民の間には、政治家一般に対する不信が募っていた中で特にUPAの中核であるINCに対する不満がかつてないほど蓄積されていた。口コミ・ベースでヒットにこぎつけた「No One Killed Jessica」が、「Rang De Basanti」のメッセージとジェシカ・ラール殺人事件での抗議運動の成功の記憶を更新することで、その不満の行き先を方向付ける結果になったと考えることも可能ではなかろうか。

ジャン・ロークパール運動

 「No One Killed Jessica」のサプライズ・ヒットによって幕を開けた2011年のインドの政治社会における最大の事件のひとつは、社会活動家アンナー・ハザーレーによるジャン・ロークパール運動であった。

Anna Hazaare
アンナー・ハザーレー

 アンナーはマハーラーシュトラ州の貧しい家庭に生まれ、15年ほど軍役を務めた後、故郷ラーレーガン・スィッディー村に戻り、スワーミー・ヴィヴェーカーナンダなどの影響から、村から酒やタバコを撲滅する運動などを始めた人物である。1991年頃から政治家や官僚の汚職を糾弾する活動を始め、情報開示法(Right to Information Act/RTI法)の成立にも関与した。00年代まではマハーラーシュトラ州限定の活動家であったが、2011年に「現代のマハートマー・ガーンディー」として一躍全国的な知名度を獲得する。このときアンナーが掲げたのがジャン・ロークパール法案の即時可決であり、彼は首都デリーに打って出て運動を行ったために全国で報道され、デリーやその他の大都市に住む多数の中間層から強い支持を受けるようになったのだった。

 「ロークパール」とは平たく言えばオンブズマンのことである。政治家や官僚の汚職や不正をチェックする役割を担う役職だ。特に中央政府のオンブズマンのことをロークパールと呼び、州政府のオンブズマンはローカーユクタと呼ぶ。

 1950年代末からロークパールの設立が提案されており、1968年に最初のロークパール法案の提出が行われたのだが、オンブズマンによる監視や追及を好まない政治家や官僚の抵抗に遭い、否決され続けて半世紀が過ぎ去っていた。インドには、1963年に設置された中央捜査局(CBI)、1964年に設置された中央警戒委員会(CVC)、2005年に施行されたRTI法など、汚職をチェックする機構や法律は存在するのだが、政府から独立した組織ではなかったり、大臣や高官が対象外となっていたり、捜査権がなかったり、例外規定が多かったりして、完全にかつ効果的に汚職を防ぐことはできないとされていた。現に、次々と巨額の汚職が明らかになったにも関わらず罪を犯した権力者を裁くことができず、無力感が広がっていた。そこで、さらなる汚職チェック機構としてロークパール制度創設の機運が再び高まり、2010年にはそのための法案が起草されていた。

 ただし、政治家が起草したロークパール法案ではロークパールの権限は限られ、どうしても保身のための逃げ道が用意されており、これもまた骨抜きになる可能性があった。特に、一般市民がロークパールに直接陳情することができない規定となっていて、ロークパールの権限が与党の恣意によって利用・制限される怖れがあった。そこでアンナー・ハザーレーら市民活動家たちが政府のロークパール法案とは別に起草したのがジャン・ロークパール法案であった。「ジャン」とは「一般市民」という意味である。ジャン・ロークパール法案では、一般市民が直接ロークパールに陳情を行うことができる他、ロークパールの独立性と権限の強化、捜査権の付与、内部告発者の保護などの項目が盛り込まれた。ジャン・ロークパール法案可決を求める運動の母体はインディア・アゲインスト・コラプション(IAC)というNGOである。IACは元々、RTI法によってCWG関連の汚職を暴くことを目的として設立された団体であった。

 アンナー・ハザーレーは2011年4月5日から、デリーのジャンタル・マンタルにおいて、ジャン・ロークパール法案の可決を求め、無期限のハンガー・ストライキを始めた。

Jantar Mantar
ジャンタル・マンタルでの集会の様子

 当初、デリー市民にとってアンナーはほとんど無名の存在だった。2008年6月6日に公開されたヒンディー語映画「Sarkar Raj」にラーオ・サーブというアンナーに似たキャラクターが登場するが、おそらく当時はマハーラーシュトラ州の人間でないとそのつながりを見出せなかっただろう。

sarkar raj
Sarkar Raj

 だが、アンナーがジャンタル・マンタルでハンガー・ストライキを始めた途端、多くの著名人が加わってメディアの注目を集めることとなり、その名は瞬く間に全国に広まった。各紙はこぞって「アンナーとは何者か?」という特集を組み、審議中のロークパール法案とIAC草案のジャン・ロークパール法案について詳しく比較分析した。

 ジャンタル・マンタルには日頃からインド各地からの抗議活動者が集っており、ハンガー・ストライキも全く珍しくない。また、IACは2011年1月30日、マハートマー・ガーンディーの命日に、デリー、ムンバイー、バンガロールなどで汚職撲滅のための集会を行ったのだが、ここまで注目されることもなかった。

 2011年4月のアンナーのハンガー・ストライキが格別に注目された理由は、マハートマー・ガーンディーの再来を思わせるアンナーの外見と、TwitterやSNSなどの最新コミュニケーションツールを巧みに使った動員にあったと言えるだろう。「Main Anna Hoon / I Am Anna」と書かれた白いキャップは汚職撲滅運動支持のシンボルとなった他、純粋にファッションとしても大いに流行した。野党政治家がハンガー・ストライキに便乗参加することをアンナーが拒否した点も、政治不信を募らせていた一般市民の好感につながったと思われる。そして何より、チーム・アンナーと呼ばれる個性派揃いの取り巻きがアンナーを旗頭に一丸となって活動を推進したことが大きかった。

I Am Anna
I Am Anna

 アンナーの運動はたちまち他都市にも飛び火し、巨大なものとなって行った。政府はアンナーの要求を無視できなくなり、4月9日、ロークパール制度の検討を行う委員会の立ち上げを認め、委員としてIACの活動家5人を含めることを提案した。これを受けてアンナーは98時間に及ぶハンガー・ストライキを取り止めた。ただし、2011年8月15日までの法案可決という条件付きであり、それが満たされない場合は全国規模の抗議活動を行うと釘を刺した。

 その後、しばらくの間、政治家と市民活動家の協議の中、ロークパール法案の条文作成が進んでいた。主な争点は首相や最高裁裁判官などがロークパールの審査の対象になるか否かであった。結局、マンモーハン・スィン内閣はそれらを除外する形でロークパール法案を成立させようとし、失望したアンナーは2011年8月16日から無期限ハンガー・ストライキに突入することを宣言した。

 4月のときと異なり、このときまでに多くの市民が既にアンナーの人柄や要求を理解しており、各人それぞれ意見を持ちながら、動きを注視している状態だった。また、6月には有名ヨーガ行者バーバー・ラームデーヴがデリーのラームリーラー広場において海外違法送金問題に抗議してハンスト集会を行い、警察によって弾圧された事件があり、市民の間で政府の強権的な態度への不満がくすぶっていた。

Baba Ramdev
バーバー・ラームデーヴ

 そんな中、デリー入りしたアンナーがハンスト開始数時間前に逮捕されたというニュースがデリー中を駆け巡った。アンナーの要求や行動に懐疑的・傍観者的だった人々も、非暴力の抗議活動を行うアンナーが大義名分なく逮捕されたことで、一気にアンナーに加勢した。アンナーが収容されたデリー南西部のティハール刑務所前には次から次へと抗議者が集まり、収拾がつかなくなって行った。アンナーは刑務所内でハンガー・ストライキを開始し、釈放が決まった後も抗議運動の許可を求めて刑務所に居座り続けた。

 とうとう政府も折れ、ラームリーラー広場を抗議場所として認めた。8月20日にアンナーは大勢の支持者に守られながら、ティハール刑務所からラームリーラー広場へ行進し、設置されたステージの上でハンガー・ストライキを続行した。「第二の独立運動」と呼ばれたアンナーの運動には、デリーは元より周辺地域から何万人もの支持者が参加した。アンナーと共に断食をする者もいれば、社会勉強として子供を連れてラームリーラー広場を訪れる親や教師もいた。世論に押される形で、8月27日、両院は「ロークパールに関する議会の意見の決議」を可決し、翌日、74歳のアンナーは288時間に及ぶハンストを終了した。全く政治的後ろ盾を持たない人物が政治的な手続きを踏まずに政府を動かし要求を呑ませた歴史的瞬間であった。

 その後もロークパール法案を巡っては紆余曲折があった。2011年12月27日、下院がロークパール及びローカーユクタ法案を可決したが、IACの要求するロークパール制度からかなり骨抜きにされていたため、アンナーはムンバイーにおいてハンストを行った。だが、デリーほどの盛り上がりは見られず、アンナーの健康状態悪化もあって、すぐに中止となった。法案を巡って上院にて攻防が繰り広げられることになり、最終的には2013年12月17日に可決され、2014年1月16日から施行された。

 汚職撲滅のためのロークパール及びローカーユクタ法の成立も非常に重要なのだが、その成立過程においてデリー在住中間層による市民運動が大きな役割を果たしたことに意義があり、その市民運動の系譜を辿って行くと、ヒンディー語映画「Rang De Basanti」とジェシカ・ラール殺人事件に行き着くことが、映画と社会の関係史を研究する上で非常に興味深い。また、アンナー・ハザーレーは「現代のガーンディー」と呼ばれたが、その前にヒンディー語映画界が「Lage Raho Munna Bhai」によってガーンディーの思想とイメージを現代に蘇らせ、若者の意識に改めて植え付けていたことも関連の事象として特筆しておく価値があるだろう。人類学者クリストファー・ピネーは、アンナーの外見や佇まいは、本物のガーンディーよりも「Lage Raho Munna Bhai」でディリープ・プラバーヴァルカルが演じたガーンディーに近いという面白い指摘もしている。

Gandhi
「Lage Raho Munna Bhai」のガーンディー

デリー集団強姦事件

 アンナー・ハザーレーによる汚職撲滅運動では、ごく限られた例を除き、権力者側も抗議者側も暴力に依存しなかったことがユニークな点だった。バーバー・ラームデーヴの抗議集会は暴力により鎮圧されたが、警察による一方的な弾圧であり、内戦や反乱のような状態にはならなかった。

 ジェシカ・ラール殺人事件やジャン・ロークパール運動を通し、政府に対し一丸となって抗議することを覚えたデリー市民の怒りが非暴力のラインを越えたのは、女性の安全問題を巡る出来事であった。

 2012年12月16日、デリー集団強姦事件。23歳の女性が未成年者1人を含む計6人の犯人に、動くバスの中で輪姦された後にバスから放り出され、病院で生と死の間を彷徨った後、12月29日にシンガポールの病院で死去したという凄惨な事件である。日本を含む海外でも大々的に報道され、治安への不安からインドを訪れる外国人旅行者数の減少を招いたほどの大きな事件となった。

 この事件の後にデリー中央部で発生した大規模な抗議運動と、それに伴う抗議者と警察の衝突は、2006年のジェシカ・ラール殺人事件判決後の抗議運動から順に追って見ていかないとなかなか分かりにくいだろう。当然、2010年から2012年まで中東諸国を席巻した「アラブの春」と呼ばれる民主化要求運動など、外部からの影響もあったと思われるが、デリー在住の中間層は数年前から既に内部で抗議の文化を醸成しつつあったのである。また、「アラブの春」ではFacebookやTwitterなどのSNSが重要な役割を果たしたことが報告されているが、それよりも前にインドではSMSによって抗議運動の呼び掛けが不特定多数に対して行われたことがあったという事実も、再確認しておくべきである。

 デリー集団強姦事件の被害者の本名は当初公表されていなかったため、マスコミが名付けた「ニルバヤー(怖れ知らず)」または「ダーミニー(稲妻)」などの偽名がよく用いられた。本名はネットで検索すればすぐに出て来るが、ここでは便宜的に彼女を、最も認知度の高い「ニルバヤー」と呼びたい。

 ところで、インドでは約20分に1回、女性が強姦被害に遭っていると言われている。新聞を開けば必ずと言っていいほど、誰かがどこかで強姦されたニュースが掲載されている。強姦殺人事件も全く珍しくない。ならばなぜこの2012年12月16日の事件だけが特別大きな運動を引き起こしたのだろうか。

 それは様々な観点から分析が可能であろうが、第一に、被害女性側に全く非がなかったことが挙げられる。強姦被害に遭った女性に非を求めるのは誤った視点ではあるが、男性社会の傾向の強いインドではしばしば被害女性側に非を求める論調が支配的になる。適切な服装をしていなかったからだとか、深夜に一人で出歩いていたからだとか、あるいは結婚を約束していた恋人に捨てられ、復讐のために強姦被害の訴えを起こしているだとか、社会的にはまず女性に何か落ち度はなかったかが見られる。その代わり、法律的には女性に一方的と思えるほど強い権限が与えられている。果たしてニルバヤーには何か落ち度はあったのだろうか。

 事件が発生したのは12月であり、冬のデリーを露出度の高い服装で歩いている人はいない。ニルバヤーは男友達と共にサーケートでハリウッド映画「Life of Pi」(2012年/邦題:ライフ・オブ・パイ 虎と漂流した227日)の夕方回を見た後、午後8時代~9時代に被害に遭っているが、いくら治安の悪化したデリーと言えど、市場にまだ買い物客が行き交っているこの時間を深夜とすることはできないし、一人でいた訳でもない。

 彼女の唯一の間違いは、路線バスではないバスに乗ってしまったことだけであった。そしてデリーに住んでいる者なら分かるが、路線バス以外のバスに乗って移動することは異常ではない。特にこの時間、路線バスの本数が極端に少なくなるため、行きたい方向に走るバスがあれば乗せてもらうのは常だ。もし彼女のような状況でこのような残酷な目に遭わなければならないのならば、それを防ぐには女性は外に出るのを止めるしかなくなってしまう。

 さらにこの事件を異常なものとしていたのは、ニルバヤーが通常の強姦以上のことをされた可能性があることであった。被害女性は発見されたとき、先がL字型に曲がった鉄の棒を性器に突っ込まれ、内臓ごとえぐり出されていたとされる。さすがにこのようなグロテスクな詳報は公共の電波で放送することがはばかられたと思われるが、FacebookやTwitterなどのSNSではこの情報が急速に拡散していた。新聞などの報道の仕方は婉曲的であったが、それらが意味することを総合しても、この情報は真実からさほど遠くないことが分かった。ただし、事件後からニルバヤーの写真とされるものも出回ったが、多くは偽物であった。

 ニルバヤーが運命のバスに乗り込んだ場所がムニルカーのバス停であったことも、その後の抗議運動の拡大に少なからず影響を与えたと思われる。ムニルカーは「レッド・キャンパス」の異名を持つ左翼の牙城ジャワーハルラール・ネルー大学(JNU)の目と鼻の先であり、JNUの現役学生・卒業生が多数住んでいる「ミニJNU」である。真っ先にこの事件に反応して抗議活動を始めたのはJNUの学生たちであった。学生政治団体などのネットワークを通じてすぐにデリー中の大学にこの運動は広まり、日頃から治安問題を憂いて来た一般市民も、今度ばかりは黙っていられないと、抗議に飛び込んで行った。

Munirka Bus Stop
ムニルカーのバス停

 事件後からムニルカー、ジャンタル・マンタル、インド門、またニルバヤーが当初入院したサフダルジャング病院などで抗議運動が散発的に起こっていたが、最も大規模なものとなったのは12月23日(日)のものであった。インド門から、大統領官邸のあるラーイスィーナー・ヒルまでの平和的な抗議パレードが一転して破壊活動を伴うものとなり、警察が放水砲や催涙ガスなどを使って鎮圧に乗り出したため、デリー中央部が戦場のような状態となった。この衝突で1名の警察官が負傷、後に死亡した。もちろん、政権側が意図的に抗議者たちの内部に送り込んだ因子たちが暴力による鎮圧を誘発するために暴力行為を行った可能性も否定できない。平和的抗議活動を武力でもって弾圧するには、これが一番効果的な方法である。その後しばらくの間、インド門から大統領官邸にかけてのエリアは立入禁止区域となった。

Nirbhaya Protest
12月23日の抗議活動

 また、ニルバヤーはサフダルジャング病院から急遽シンガポールのマウント・エリザベス病院に移送された。表向きは最先端医療を受けるためというものであったものの、実際は病院が抗議場所となるのを防ぐための措置であったとされる。12月29日にニルバヤーがシンガポールで亡くなると、翌日の日曜日にはジャンタル・マンタルで追悼集会が開かれた。キャンドルライト・ヴィジルなど、大部分は平和的な抗議活動だったが、一部で警察との衝突もあったと報道されている。弔問に訪れたシーラー・ディークシト州首相が憤った群衆から追い返される事件が起きたのもこのときであった。

12月30日の追悼集会

 デリー集団強姦事件は、強姦被害女性の親告増加、女性の安全問題に対する意識の向上、性犯罪に関する法整備の強化、中央政府とデリー州政府で与党の地位にあったINCへの不満の蓄積など、様々な動きをもたらし、非常に大きな出来事となった。ただ、インドにおける性犯罪の数や残酷さは全く減少しておらず、その後も事あるごとに凄惨な事件の報道がなされているのは周知の通りである。

 ところで、このデリー集団強姦事件に対する抗議運動に乗じて人気と発言力を増したのが、アルヴィンド・ケージュリーワールであった。

Arvind Kejriwal
アルヴィンド・ケージュリーワール

 ケージュリーワールはインド工科大学(IIT)カラグプル卒で、ターター鉄鋼での勤務を経てインド歳入官僚(IRS)となり、その後所得税局(ITO)に勤める傍ら、NGOパリヴァルタンを立ち上げて、困窮する市民の支援やRTI法を活用した汚職のチェックを始めた。ケージュリーワールはチーム・アンナーの一員となり、ジャン・ロークパール運動ではナンバー2として頭角を現した。その後、政党立ち上げの是非を巡ってアンナーと対立し、別行動を取るようになった。ケージュリーワールは2012年11月26日に庶民党(AAP)を結党し、党首に就任した。デリー集団強姦事件は、旗揚げ間もないAAPが党勢を拡大するための絶好の機会であった。ケージュリーワールは抗議活動に積極的に参加し、政府・既存政党・政治家に対する批判を繰り返した。

Satyagraha

 2011年のアンナー・ハザーレーによる汚職撲滅運動をいち早く映画化したのが、2013年8月30日公開、プラカーシュ・ジャー監督の「Satyagraha」であった。ジャー監督は硬派でリアリスティックな政治劇を作る人物として映画界で一目置かれた存在だ。政界進出の野望も持っており、過去に3度出馬したが、全て落選している。

Satyagraha
Satyagraha

 ジャー監督は明言していないものの、「Satyagraha」の物語の骨子となっているのはアンナー・ハザーレーの汚職撲滅運動以外になく、アミターブ・バッチャン演じるダードゥーはアンナー、アジャイ・デーヴガン演じるマーナヴはアルヴィンド・ケージュリーワールをモデルとしていることは人物設定の類似性から確実である。

 また、プロットには汚職撲滅運動とは独立して実際に起こったいくつかの事件が形を変えて盛り込まれている。例えばフライオーバー崩壊とそれに伴う技術者暗殺は、2003年にビハール州で発生した「黄金の四角形計画」汚職に関連するサティエーンドラ・ドゥーベー暗殺事件をベースとしていると考えられる。また、フライオーバー崩壊シーンのビジュアルは、2009年にデリーのザムルードプルで発生したデリー・メトロ高架線路崩落事件と酷似している。ラール・バハードゥルの焼身自殺は、アンナー・ハザーレーがデリーのラームリーラー広場でハンガー・ストライキ中だった2011年8月23日に焼身自殺を図り、1週間後に死亡したディネーシュ・ヤーダヴがモデルになっている。最後、マーナヴによるジャン・サティヤーグラハ党の立ち上げは、言うまでもなくケージュリーワールがAAPを結党したことを受けてのものだ。

Zamdudpur
デリーメトロ高架線路崩落事故

 ところがこの映画は、首都デリーで中央政府に真っ向から立ち向かったアンナーの運動を、地方都市での州政府大臣との戦いに矮小化しており、アンナーの言動や理念もダードゥーにはあまり正確に反映されていない。劇中、ダードゥーは必要とあれば暴力的行為に出るキャラとして描かれているが、さすがにアンナーは自身でもそんなことはしていないし、支持者に対しても決して暴力を許していない。娯楽映画としても飛び抜けて優れた点はなく、ジャー監督の近年の作品の中では最も完成度が低い。興行的には「アベレージ」の評価を受けている。

 「Rang De Basanti」がジェシカ・ラール殺人事件判決後の抗議運動に少なからず影響を与えたことはまず間違いないし、「No One Killed Jessica」がデリーにおける汚職撲滅運動を間接的かつ限定的にでも後押ししたと推論することも全くの的外れではないと感じる。だが、「Satyagraha」に関しては、批評家からの評価は元より、興行的な成功を収めた訳でもないので、おそらくそこまで社会的影響力はなかったのではないかと予想される。しかしながら、2012年から13年にかけて、仲間割れなどで急速に失速し、メディアのカバーも減少していたジャン・ロークパール運動を思い出すきっかけぐらいにはなったはずだ。インドではテレビ、ラジオ、新聞、ネットなど様々なメディアが映画を取り巻いて存在しており、特定の映画が公開されれば、その映画の特集のみならず、それと関連のテーマや事象が繰り返し喧伝されることになる。現に、公開前後には「『Satyagraha』のダードゥーのモデルはアンナーか?」などと言った検証記事が盛んに書かれており、映画をどれだけ多くの人が観ようと観まいと、現代メディアに接している人々の記憶を再生産し増幅する力にそう変化はなかったといえる。どんなに少なく見積もっても、公開直後のデリー州議会選挙に向けて、ジャン・ロークパール運動を受けて成立したAAPのPRにはなっただろう。

デリーAAP政権樹立

 インドでは下院議員と州議会議員は5年に1度改選される。デリーの州議会選挙のタイミングは長らく下院総選挙の前年に設定されており、首都の選挙であること以上に、国政の行方を占う前哨戦として非常に重要視されている。2013年はデリーの州議会選挙の年で、12月4日に投票され8日に開票された。

 デリーの州議会選挙は二大政党制の傾向が強く、インド国民会議派(INC)とインド人民党(BJP)の一騎打ちに近い状態が長年続いて来た。他の政党が過去に何度かデリー進出を企てて来たがうまく行っていない。デリーではシーラー・ディークシト州首相による3期連続の長期政権が続いており、ディークシト州首相は4期目を目指して選挙に臨んだ。

Sheila Dikshit
シーラー・ディークシト

 しかし、中央政府で与党を務めるINCへの反感が強まっており、ディークシト州首相も、今度ばかりは、CWGなどの汚職問題と無縁ではない上に、女性でありながら女性の安全を守ることができなかったという烙印を押されていた。従来の二大政党制が維持され、普通に事が運んだら、BJPの勝利となるはずだった。このときまでにBJPは、グジャラート州首相を3期連続で務め、カルト的人気を誇る政治家ナレーンドラ・モーディーを次期首相候補として前面に押し出しており、ただでさえ有利な選挙を「モーディー・ウェーヴ」の勢いを駆って圧勝で終えることも夢物語ではなかった。ところが、2013年のデリー州議会選挙では初めて第三勢力が生まれ、全く異なる展開を見せた。台風の目となったのが新政党の庶民党(AAP)である。

Narendra Modi
ナレーンドラ・モーディー

 2012年11月26日に旗揚げされたばかりのAAPは、ジャン・ロークパール運動やデリー集団強姦事件で培った人気と動員力と人脈を選挙にフル活用し、全70選挙区に候補者を擁立、その内28議席を獲得する大躍進を見せた。旗揚げから1年余りの政党がここまでの成功を収めた例はインドには過去にない。だが、過半数には至らず、そういう意味では中途半端な成功であった。勝利が既定路線だったBJPは31議席で、第一党にはなったものの、やはり過半数に満たず。友党シローマニ・アカーリー党(SAP)の1議席を加えてもまだ足りない。そして過去3期に渡って政権を担当したINCは予想通り大敗を喫し、わずか8議席と大幅に勢力を後退させた。ディークシト州首相までも、ニューデリー選挙区において対立候補のケージュリーワールに大差で敗北した。

 インドの議会では、政権を担当するためにはフロアテストによって「過半数の証明」を行わなくてはならない。つまり、デリーの州議会では何らかの勢力が36議員以上の頭数を集めなければならなかった。三つ巴となったデリー州議会は、各党が互いに激しく対立していた。BJPとINCが手を取り合うことは考えられないし、既存政党を厳しく糾弾して来たAAPがどちらかの党と連携する可能性も低かった。もしどの政党も名乗りを上げなければ、デリーは大統領直轄となり、半年後に再び選挙が行われる運びとなり得た。デリー総督のナジーブ・ジャングはまず第一党のBJPを招き、政権担当を依頼したが、BJPは議席数の不足を理由にそれを断った。そこで次にAAPが呼ばれた。AAPは支持者からBJPまたはINCと連携して政権を担当すべきか、SNSなどを利用して支持者から直接意見を募るという前代未聞の試みを行った。その結果、政権を担当すべきとの意見が多かったことを受け、AAPにより協力的だったINCからの閣外協力を受けて政権を請け負った。2013年12月28日、アルヴィンド・ケージュリーワールは第7代デリー州首相に就任し、デリーAAP政権が樹立した。

Arvind Kejriwal
アルヴィンド・ケージュリーワール

まとめ

 元々脆弱な基盤の上に成り立っていたデリーAAP政権は49日で瓦解した。アルヴィンド・ケージュリーワール州首相が、デリー州議会においてジャン・ロークパール法案が否決されたことに抗議して辞職したためである。有権者の大部分はこれを政権放棄と見なし、ケージュリーワールに「逃亡者」のレッテルを貼った。2014年の下院総選挙においてAAPが伸び悩んだ大きな理由のひとつであった。もちろん、AAP減退の理由はそれだけではない。49日間の政権運営の中で、元々の支持層だった中間層よりも、伝統的にINCの支持層だった低所得者層向けの政策を連発し、中間層からの支持を失ったことや、ケージュリーワール党首が下院選挙において、本拠地のデリーからではなく、ナレーンドラ・モーディーが出馬したヴァーラーナスィー選挙区からわざわざ立候補して敗北するなどの選挙戦略の見誤りも大きな原因であったし、デリー州政府大臣によるいくつかの不祥事や党内の不協和音なども党のイメージダウンにつながった。デリーは大統領直轄となり、2015年に再度州議会選挙が行われることになった。

 驚くべきことに、AAPは2015年と2020年の州議会選挙で続けて圧倒的な勝利をした。アルヴィンド・ケージュリーワールは2015年以降、州首相に就いており、立派な長期政権となっている。AAPはデリーの市民から十分な支持を受けており、政党として定着したといっていいだろう。その成立にヒンディー語映画が大きな役割を果たしたとしたら、映画と社会の関係を考える上で興味深い事例となる。

 インド人の映画好きは有名で、映画は政治やクリケットと共にインド人の三大話題のひとつに数えられている。もちろん、映画の基本は娯楽であり、人々を楽しませるために作られている。よって、常にインド映画がインドの社会を支配するほど多大な影響を与えている訳ではない。だが、本論考でずっと見てきた、「Rang De Basanti」を中心とした映画と社会のキャッチボール―――映画が社会で起こった実際の事件を題材にし、社会は映画の中でイメージ化・発信された思想やメッセージに影響され、それがまた映画化される―――は、両者の相互関係性がよく表れた例だと評価することができる。実際の事件を映画化する習慣は世界中に見られるものだが、歴史ではなく叙事詩を育んで来たとされるインドにおいては、その意義がより濃くなるようにも思われる。現代においては、映画が、「記憶」すべき事件を「記録」する役割を果たし、しかも人々の記憶を一時的かつ半永久的に増幅させる装置として働いている。それが時には人々を動かし、社会を揺るがし、政治を変える力を持つことになる。

 21世紀に入って映画と社会の間でこのような展開が見られたのは、同じ時期にインド映画界が経験した劇的な変化とも密接に関係している。2010年代に汚職の告発や撲滅を主題にした映画が増えているが、これはAAPの台頭に関係があると考えていいだろう。今後も、「Rang De Basanti」などに端を発した映画と社会のキャッチボールが続いていく可能性は十分にあるし、別の事例も生まれるかもしれない。

参考文献など

  • Raju Bist, “New Offensive against killer Indian jets”, (Article) dated on 25th June 2003 in Asia Times Online
  • Meghana Dilip, “Rang De Basanti- Consumption, Citizenship and the Public Sphere”, Masters Theses, University of Massachusetts, Amherst, 2008
  • Preeti Dilip Pohekar, “A Study of Ombudsman System in India with Special Reference to Lokayukta in Maharashtra”, Gyan Publishing House, Delhi, 2010
  • Christopher Pinney, “Gandhi, Camera, Action! Anna Hazare and the ‘media fold’ in twenty-first century India”, (Presentation) presented at JNU, New Delhi, on 5th April 2012; 2011年11月5日に国立民族学博物館で開催の国際研究フォーラム「近現代インドにおけるナショナリズムと大衆文化」で同じ題の講演あり
  • Ram P Dwivedi, “Satyagraha: Social Movement & Cinema” (Presentation) presented at TUFS Satellite, Tokyo, on 25th January 2014