Aamir

4.0

 昨日からネットがつながらない。ADSLでネットをしているが、電話もつながらないので、電話線がどこかで切れてしまったのだろう。今日中には直ると思ったが、折からの雨の影響か、それとも技術者の怠慢か、夕方まで待っても復旧しなかった。そこで退屈と苛立ちを紛らわすため、今日2本目の映画を観に出かけた。日本に一時帰国していたので、未見の映画が溜まっているのである。今日見た映画は、全くノーマークであったが批評家から上々の評価を得ている「Aamir」である。2008年6月6日に公開された。

監督:ラージクマール・グプター
制作:ロニー・スクリューワーラー
音楽:アミト・トリヴェーディー
歌詞:アミターブ・ヴァルマー
出演:ラージーヴ・カンデールワール、ガジラージ・ラーオ、ジルミル・ハザーリカー
備考:PVRアヌパム4で鑑賞。

 ロンドンからムンバイーに帰郷した医師のアーミル(ラージーヴ・カンデールワール)は、空港で迎えに来ているはずの家族がいないことに気付く。家に電話をしても誰も出ない。すると、通行人から突然携帯電話を渡され、何者か(ガジラージ・ラーオ)から電話がかかって来る。その男の話では、アーミルの家族は人質に取られており、言うことを聞かなければ家族を殺すとのことであった。仕方なくアーミルは謎の男の言う通りにムンバイー中を駆けずり回ることになる。

 アーミルはカラーチーに電話を掛けさせられ、ゲストハウスの一室に宿泊することになり、マフィア風の男から赤いスーツケースを受け取る。その中には多額の現金が入っていた。電話の男によると、それは全世界の「兄弟」から届けられた金とのことだった。会話を通し、次第に男の正体が分かって来る。男はイスラーム教徒で、アーミルに対し、イスラーム教徒としての自覚を促そうとしていた。そして、アーミルに「革命」を起こさせようとしていた。

 アーミルはその赤いスーツケースを運ぶことになった。だが、その途中で3人のチンピラにスーツケースを盗まれてしまう。家族の命に等しいスーツケースを失ったことでアーミルは愕然とするが、気を取り直してスーツケースを探し始める。ゲストハウスの下にいた売春婦のおかげでスーツケースは見つかり、それを持って電話の男の指示通りの場所へ行く。アーミルはバスに乗るように命令された。

 最後の命令は、「スーツケースを椅子の下に置いてバスから降りろ」だった。その命令を聞いた瞬間、アーミルの脳裏に恐ろしい考えが浮かぶ。チンピラに盗まれたとき、スーツケースは爆弾に入れ替わったのではないか?全て電話の男が仕組んだことではないか?アーミルの予想は正しかった。電話の男は、アーミルをテロリストに仕立て上げようとしていた。だが、家族を人質に取られたアーミルは、指示通りに動くしかなかった。アーミルはスーツケースをバスの椅子の下に置き、信号待ちで止まるバスから降りる。

 だが、自分の行為によって罪もない何人もの人々が死んでしまうことを考え、アーミルは思い直す。アーミルは急いでバスの中に戻り、スーツケースを持って外に出る。そして誰もいない場所まで行ってスーツケースを抱いて立ち尽くした。爆弾は爆発し、アーミルは木っ端微塵に吹き飛ぶ。メディアは「ムンバイーの住宅街で一人のテロリストが自爆テロをした」と報じたが、なぜテロリストが一旦バスの中に置いた爆弾を持ち去り、誰もいない場所で自爆したのか、説明できずにいた。

 1993年のボンベイ連続爆破テロ実行犯たちの心理に迫った映画「Black Friday」(2007年)では、上層部に捨て駒にされるチンピラ風情の実行犯たちの憐れさが迫真の映像と共に描写されていた。一方、「Aamir」では、テロリストとは全く無縁の一人の善良な市民が、人質を取られることで無理矢理テロの実行犯にされて行く過程が描かれていた。ある程度予想は可能ではあるものの、最後の最後まで主人公アーミルに次々と課せられる一連の命令の意味が明らかにされず、非常に緊迫感ある展開になっていた。アーミルが最後に取った行動―― 一度設置した爆弾を持ち去って自爆する――は、国のため、国民のためなら、自分と家族を犠牲にする美徳への賞賛と受け止めたらいいだろうか。テロリストはイスラーム教徒同士の国際的な連帯を何度も持ち出してアーミルを原理主義に引き込もうとしたが、アーミルはイスラーム教徒としてのアイデンティティよりも、インド人として、そして人間としてのアイデンティティを重視し、死を選んだのである。

 映像にとても力がある映画だった。一般的なヒンディー語映画ではムンバイーの美しい部分のみがクローズアップされるが、「Aamir」では逆にムンバイーのもっとも汚ない部分が強烈に映像化されていた。同時に、風景よりもそこら辺にいる普通の人々の姿が強調されており、それがそのまま映画の主題である「何の罪もない一般人を巻き込む無差別テロへの批判」につながっていた。敢えてムンバイーの裏の顔を捉えることに挑戦している点で、映画からムンバイーへの愛をひしひしと感じた。ムンバイーに思い入れのある人は、おそらく気に入るだろう。

 ただ、映像に頼るあまり、説明不足の感は否めなかった。もう少し補助的な解説を加えてあれば、監督の主張がもっと明白になったのではないかと思う。このままだと、たまたまテロリストからテロ実行犯に選ばれた不幸な男の悲劇で終わってしまう。観客にイスラーム教徒コミュニティーへの誤解を植え付けてしまう恐れもある。映画を理解する上でもっとも重要なフレーズは、「自分の運命は自分で書くことができる」というもので、この命題が冒頭を含め映画中で数回話題に上った。だが、肉付けが足りなかったために、果たして運命は自分で書くことができるのか否か、結論が導き出せていなかったように思える。一人で自爆の道を選んだアーミルは、運命を自分で書いたのだろうか?それとも結局誰かに書かれた運命に翻弄されただけ?どちらとも言えない結末だったと言える。ある日突然一般人がテロリストになってしまう恐怖は、先行きが見えない人生を暗示しているのだろうか、それとも、本当にこのようなことがインドで起きているということを示したかったのだろうか?映画の最後に一言何か欲しかった。

 主演のラージーヴ・カンデールワールはTVドラマで活躍している男優。今回が銀幕デビューとなる。焦燥感をうまく表現できていた。

 一般の娯楽映画ではないのでダンスシーンなどはなかったが、音楽がかなり印象的に使われていた。シーンの雰囲気に合った音楽というより、全く外れた音楽が意図的に選ばれている感じで、ある日突然トラブルに巻き込まれた主人公の混乱した心境をより浮き彫りにしていた。

 「Aamir」は、決して万人向けの映画ではないが、ヒンディー語映画界でも一筋縄ではいかないような変わった映画が作られていることを示す好例である。