Ramprasad Ki Tehrvi

3.5
Ramprasad Ki Tehrvi
「Ramprasad Ki Tehrvi」

 「冠婚葬祭」という言葉があるが、これは「元服」「結婚」「葬式」など、人生の通過儀礼を示す。ヒンドゥー教においても「16サンスカール」という言葉があり、人生には16の通過儀礼があるとされる。これらの中で、インド映画が好んで取り上げるのは、何と言っても結婚の儀式である。インドにおいて映画は吉祥なものであり、映画で見せるべき吉祥な通過儀礼の筆頭と言えば結婚式をおいて他にはない。「Hum Aapke Hain Koun..!」(1994年)や「Monsoon Wedding」(2001年)のように、数日間続くインド式の結婚式を延々と追った作品もあるくらいだ。それに対して葬式は不吉なものである。映画において葬式が全く描かれないことはないのだが、ほとんどの映画ではサラリと描写されるのみだ。ヒンドゥー教では人が死ぬと13日間、喪に服す「テヘルヴィーン(正確にはテーラーヴィーン)」という儀式がある。これを延々と追う映画は非常に珍しい。「Pagglait」(2021年)があったくらいである。

 2021年1月1日から公開の「Ramprasad Ki Tehrvi」も、「ラームプラサード(人名)のテヘルヴィーン」という題名が示す通り、とあるインド人家族の、13日間のテヘルヴィーンを追った作品である。2019年10月17日にムンバイー映画祭でプレミア上映されている。監督はスィーマー・パーワー。「Ferrari Ki Sawaari」(2012年)などでのオバタリアン的な役柄の演技に定評のある女優で、これまた曲者俳優マノージ・パーワーの妻である。本作は彼女が初めてメガホンを取った作品で、彼女自身が書いた演劇「Pind Daan」をベースにしている。

 キャストには、普段ヒンディー語映画で脇役を演じるような俳優たちが勢揃いしている。特別出演のナスィールッディーン・シャーを筆頭に、スプリヤー・パータク、コーンコナー・セーンシャルマー、パラムブラタ・チャットーパーディヤーイ、マノージ・パーワー、ヴィナイ・パータクなどである。

 物語はラームプラサード(ナスィールッディーン・シャー)が急死するところから始まる。ラクナウー在住のラームプラサードは近所の子供たちに音楽を教えており、ラームプラサードの妻(スプリヤー・パータク)と共に暮らしていた。彼が死んだことで、家にはラームプラサードの4人の息子と2人の娘、その配偶者や子供、それにラームプラサードの兄弟など、一族郎党が集う。だが、ラームプラサードと子供たちの関係は生前からよくなかった。また、兄弟同士やその妻同士にも不協和音が響いていた。ラームプラサードの妻は、まるで結婚式か何かに来ているように和気藹々としている子供たちや嫁たちの様子を見て孤独感を感じる。また、ラームプラサードが生前、多額の借金をしていたことも明らかになる。子供たちや嫁たちにとって、夫を亡くした母親が今後どうするのかも悩みの種だった。各人が各様の思惑を抱え、時に衝突もありながら、13日間の喪の期間が明けて行く。

 テヘルヴィーンが始まると、喪主は13日間、家の外に出られなくなる。喪主は長男のガジラージ(マノージ・パーワー)である。喪主は頭を丸める習慣がある。序盤で、ガジラージを含む、ラームプラサードの4人の息子たちが遺灰をガンガー(ガンジス)河に流しに出掛けるシーンがあるのだが、これは本当はいけないことである。何はともあれ、このときを除けば、舞台はほとんどがラームプラサードの家の中であり、確かに舞台劇が原作の映画らしい展開である。

 インドの家族は基本的に兄弟が多いため、冠婚葬祭に一族郎党が集うと、自然と大人数となる。「Ramprasad Ki Tehrvi」も登場人物多数で、関係を追うのに一苦労だ。しかも、それぞれにわだかまりを抱えているところがあり、さらに厄介である。ただ、その複雑な人間関係の中で、一番重要なのは、ラームプラサードの四男ニートゥー(パラムブラタ・チャットーパーディヤーイ)とその妻スィーマー(コーンコナー・セーンシャルマー)である。

 ニートゥーとスィーマーはムンバイー在住であった。ニートゥーは末っ子だったこともあり、皆から一番可愛がられていた。スィーマーは女優のようだが、あまり売れていないようである。本当はラームプラサードも妻もニートゥーをそばに置いておきたかったが、スィーマーが女優志望だったために、ムンバイーに住むことになった。そういうこともあって、スィーマーと母親は不仲であった。四人兄弟の嫁の中でも、スィーマーだけが浮いており、他の三人から陰口をされることも多かった。

 とは言え、スィーマーだけが悪者かというとそういう訳でもなく、それぞれの嫁たちもそれぞれの問題を抱えていた。全貌が明らかになる訳でもないのだが、映画が進むにつれて、この一家の人間関係がだんだん見えて来る。彼らはお互いにお互いを好んでおらず、面倒事に巻き込まれないように腐心しながらも、金銭的な利益だけは享受しようとする。そういう様子を母親は見透かしていた。彼女は、いつか息子たちと一緒にひとつ屋根の下で暮らすことを夢見ていた。それがラームプラサードの死により一時的に実現する訳だが、それは失望を催すものであった。

 インド人は家族を非常に大切にする印象がある。理想主義的な一般の娯楽映画では、一家団欒の様子がよく提示される。だが、家族の人間模様を赤裸々に描こうとした「Ramprasad Ki Tehrvi」を観ると、インド人家族の在り方も様々だと感じる一方で、万国共通のものも感じる。各人、仕事が忙しく、なかなか両親に会いに行けない。老いた親を引き取ることにも及び腰である。本来なら13日間続くテヘルヴィーを短縮して4日で済まそうとも提案する。家族は家族というだけでは決してまとまらず、むしろ一人一人のエゴがもっとも表出する場であることが示されていた。

 ラームプラサードは音楽教師だった。彼の家に置かれていたピアノはひとつ音が外れていた。彼は、外れた音がひとつでもあれば音楽は成立しないと口癖のように言っていた。それはそのまま、彼の家族の中に響いていた不協和音を暗示していた。では、この映画の最後にその不協和音は取り除かれたのか。

 非常に不思議な終わり方であった。ラームプラサードの息子たちは皆、母親を生家に残して去って行ってしまう。だが、母親の顔は晴れやかであった。生前、ラームプラサードからピアノを習っていた子供が今日も来てピアノを弾いていた。調律したため、きれいなメロディーが奏でられていた。それを見た母親は笑顔をこぼす。そして、最後のシーンでは、音楽学校に子供たちを迎え入れる母親の姿が映し出されていた。まるでハッピーエンドのようであった。

 「Ramprasad Ki Tehrvi」は、ヒンドゥー教において人が死んだときに遺族が13日間喪に服すテヘルヴィーを追った、風変わりな作品である。父親の死に際して久々に集った6人の子供たちを中心に、人間のエゴを落ち着いた語り口で正直に映し出していた。様々に解釈可能な作品である。