Halkaa

4.5
Halkaa
「Halkaa」

 インドではトイレの普及率が低く、多くの人々は野外で用を足している。それが公共衛生問題や女性の安全問題などを引き起こしてきた。2014年に首相に就任したナレーンドラ・モーディーが真っ先に手を付けたのはこのトイレ問題で、インド全国でトイレの建設を促進し、屋外排泄を撲滅するためのスワッチ・バーラト(クリーン・インディア)運動を開始した。2018年9月7日公開の「Halkaa(軽い)」は、明らかにスワッチ・バーラト運動と連動した映画である。トイレひとつを巡って一本の映画を作ってしまったというのも驚きだが、こういう作品が成立するのも屋外排泄の根絶に苦労してきたインドならではだといえる。

 監督は「I Am Kalam」(2011年)で有名なニーラ・マーダブ・パンダー。キャストは、ランヴィール・シャウリー、パーオリー・ダーム、クムド・ミシュラー、タターストゥ(子役)、アーリヤン・プリート(子役)などである。

 ちなみにヒンディー語では「用を足す」ことを俗に「हलका होनाハルカー ホーナー(軽くなる)」という。この映画の題名はこの慣用句から取られているのだろう。

 デリーのスラム街に住むピチュクー(タターストゥ)は人前で排泄をするのを恥ずかしがっており、父親のラメーシュ(ランヴィール・シャウリー)や母親のショーバー(パーオリー・ダーム)が留守の間に家で内緒で用を足す癖が付いていた。だが、ラメーシュにばれるとこっぴどく叱られた。ラメーシュはサイクルリクシャー運転手をしていたが、オートリクシャーを買いたいと思っていた。

 ピチュクーは、新たにスラム街に住み始めたゴーピー(アーリヤン・プリート)と仲良くなる。ゴーピーも野外の排泄を嫌がっており、お化けが出るという廃墟で密かに用を足していた。だが、その廃墟はスラム街の近くで怪しげな薬を売るバーバー(クムド・ミシュラー)が長年トイレにしていた。バーバー、ピチュクー、ゴーピーは話し合い、縄張りを決めて用を足すことにする。ところがこの廃墟も取り壊されてしまった。

 ある日、スラム街に役人がやって来て、トイレ建設補助金の申請用紙を配布する。ラメーシュはこの補助金を使ってオートリクシャーを買おうと思い立つ。トイレが欲しくて欲しくてたまらなかったピチュクーは家にトイレができると思って大喜びするが、ぬか喜びに終わる。まんまと補助金6,000ルピーを手に入れたラメーシュはオートリクシャー購入資金の足しにしようとするが、後日検査官がやって来てちゃんとトイレを作ったかどうか確認しに来る。それでもラメーシュは呑気に構えていた。

 ピチュクーとゴーピーは裕福な家庭の子供が通う私立学校の子供ローハンと仲良くなっていた。あるとき学校に忍び込み、ローハンが仲間たちと演じた舞台劇に混ぜてもらう。お礼にピチュクーとゴーピーは舞台劇で使ったセットをもらう。彼らはそのセットを使ってバーバーのために即席のトイレを作る。また、ピチュクーとゴーピーは小遣い稼ぎの仕事で立ち寄ったショッピングモールで、開店したばかりのショールームに迷い込む。そこで西洋式の美しい便器が並ぶのを目の当たりにし、憧れを抱く。店員のカピルは彼らが最初の客だったため歓待する。ピチュクーは1万ルピーの便器を気に入る。カピルは店員割引を使って7,500ルピーに値引きしてくれる。ピチュクーとゴーピーは頑張ってお金を貯め始める。秘密を知ったショーバーもピチュクーに財政的な支援をくれる。途中でカピルが突然いなくなったりとトラブルはあったが、カピルはちゃんと便器を届けてくれた。

 スラム街に検査官と警察がやって来て、補助金を詐取した疑いでラメーシュを逮捕しようとする。ピチュクーは検査官をトイレの場所に連れて行く。そこにはローハンからもらった舞台劇セットのベニヤ板やカピルから買った便器でできた美しいトイレができていた。検査官もその美しさに感嘆し、ラメーシュを解放する。ピチュクーはローハンにお礼の手紙を出す。

 家にトイレを作りたい!スラム街で生まれ育った少年のその純粋な一心を2時間弱の映画にまとめ上げた。決して冗長ではなく、いろいろな要素がコンパクトに詰め込まれていて全く飽きさせない。ニーラ・マーダブ・パンダーは子役を使うのがうまい監督だが、今回もピッタリの子役を見つけ出し、子供の視点から老若男女全ての人が楽しめる映画を送り出すことに成功している。

 スラム街にトイレがないわけではなかった。公衆トイレがあり、利用しようと思えば利用することができた。しかし、清掃が行き届いておらず、臭いに敏感なピチュクーはそんな極度に不衛生なトイレで用を足すことができなかった。かといって野外で排泄することも嫌がっていた。そこで彼は両親の留守中に家の居間で用を足していた。床に新聞紙を敷き、その上にビニールを載せ、お香を焚いて排泄をするのである。

 これはインドを旅行した外国人も多かれ少なかれ経験があるのではなかろうか。ホテルやショッピングモールなどのトイレはきれいだが、田舎のドライブインなどのトイレは床に糞が散乱しており、とてもじゃないがそこに入る気にはなれない。外でした方がよほど爽快である。

 また、「Halkaa」では特に問題になっていなかったが、屋外排泄問題は本当は女性にとってより深刻である。ピチュクーの母親ショーバーはまだ辺りが暗い朝4時に起きて外で用を足していると言っていた。それでも用を足しているときは無防備な状態にならざるをえず、安全が脅かされることになる。

 また、スラム街の近くには鉄道が通っており、人々はその線路付近で用を足していたが、これもインドのリアルである。たとえば早朝にデリーに到着する列車に乗ってみるといい。朝、車窓から外を見ると、人々が列車の方を向いて用を足している。それが延々と横スクロールで目に入ってくるのである。

 スワッチ・バーラト運動の問題点も鋭く指摘されていた。家庭にトイレを普及させるために補助金がばらまかれたが、役人が中抜きをしており、人々の手に全額が渡っていなかった「Halkaa」では、本来ならば1万2,000ルピーが支給されるところを、ピチュクーの父親ラメーシュはその半額の6,000ルピーしか受け取ってしなかった。しかも、ラメーシュを含め、スラム街の人々は補助金だけもらっておいて実際にはトイレを作らなかった。いわゆるネコババである。しかし、政府も政府でしっかり対策をしており、補助金の不正利用を防ぐために検査官を派遣し、トイレを作っていない受給者には補助金の返金を求めた。当然、その返金額は1万2,000ルピーになる。ラメーシュはそれを支払えず、警察に逮捕されそうになっていた。この辺りもインドでよくありそうな顛末だ。

 スラム街の子供たちと対比する形で、私立学校に通う裕福な子供たちも登場した。私立学校の子供たちは、舞台劇を作り上げるため、環境問題や貧困問題などを調査するためにピチュクーが住むスラム街を訪れたのである。スラム街の子供たちは夜間にボランティアと思われる女性教師から学んでおり、意外にも英語を書くこともできた。それでも教育の格差は天と地ほどある。普通ならば全く違う世界に住んでいて出会うこともない子供たちである。パンダー監督は敢えてスラム街の子供たちと私立学校の子供たちの間に溝を作っていなかった。むしろ、彼らは子供同士、あらゆる壁を越えて友情を育んだ。シンプルすぎるところもあったが、子供向け映画として観た場合、このくらいの理想主義がなければやっていけないだろう。

 とかく外国人がインドで映画を作ろうとするとスラム街を舞台にしようとするし、スラム街を舞台にするならばそこに住む人々をネガティブな視点で描き出そうとするだろう。「Halkaa」でもおそらく本物のスラム街で撮影が行われたはずである。だが、パンダー監督のこの映画からはピチュクーなどスラム街に住む人々に同情や憐憫の感情は全く注ぎ込まれていなかった。楽な生活ではないが、彼らの人生にもある日常の小さな幸せを最大限に映し出そうと努力していた。全体としてとても明るい雰囲気の映画である上に、変な嫌味や説教臭さのない映画でもある。こういう映画はもしかしたらインド人しか撮れないのかもしれない。その点がもっとも感銘を受けた部分だった。

 「Halkaa」は、家にトイレを渇望するスラム街の少年が夢を追い掛け続け実現する感動の物語だ。モーディー首相が提唱したスワッチ・バーラト運動に影響を受けて作られたのは確実だが、その問題点もしっかり指摘している。子役の演技も素晴らしい。何よりスラム街を嫌味なく明るく描き、貧富の差を子供たちが純粋な心でもって乗り切る姿をサラリと演出している点に新鮮な感動を覚える。子役を起用した子供映画を作り続けてきたパンダー監督の最高傑作と評していいだろう。