インド独立の父、マハートマー・ガーンディーは、「本当のインドは村にある」と述べた。インドの素晴らしい美徳や伝統は喧噪と虚飾の都市部にはなく、自然と共に生きる人々の住む農村に行かなければ見ることはできないという、村を理想郷として捉えた言葉だと解釈していいだろう。だが、家父長制、男尊女卑、その他あらゆる悪習が根強く残っているのも村落部である。
女性の視点から農村の因習をさらけ出した「Parched」は、2015年9月12日にトロント国際映画祭でプレミア上映され、2016年9月23日にインドでも劇場一般公開された作品だ。題名を英語の動詞「parch」の過去分詞だとすると、その意味は「渇いた」になる。ただ、もしヒンディー語の「परिच्छेद」のことなら、その意味は「分断」「分別」「決断」などになる。どちらの意味にも取ることができる。映画の内容からして英語の題名は似合わないと思うのだが、ヒンディー語と解釈するのは無理があるだろうか。
プロデューサーはアジャイ・デーヴガンなどである。監督は「Shabd」(2005年)や「Teen Patti」(2010年)のリーナー・ヤーダヴ。キャストは、タニシュター・チャタルジー、ラーディカー・アープテー、スルヴィーン・チャーウラー、アーディル・フサイン、スミート・ヴャース、レヘル・カーン、リッディ・セーン、サヤーニー・グプター、ファラク・ジャーファルなどである。
ちなみに映画のポスターにはサンスクリット語の法典「マヌスムリティ(マヌ法典)」に書かれた以下の一節が引用されている。
यत्र नार्यस्तु पूज्यन्ते रमन्ते तत्र देवताः
マヌスムリティ 第3章47節
女性が尊重される場所に神が住む
この一文からも、この映画が女性問題を扱っていることが分かる。
グジャラート州ウジャース村に住むラーニー(タニシュター・チャタルジー)は夫と死別しており、寝たきりの義母と息子グラーブ(リッディ・セーン)と共に暮らしていた。ラーニーはまだ大人になりきっていないグラーブを幼いジャーンキー(レヘル・カーン)と結婚させる。この結婚のためにラーニーは家を抵当に入れて借金をしていた。ところがジャーナキーは嫁入り前に髪をバッサリと切ってしまっていた。元々結婚に乗り気ではなかったグラーブはジャーンキーを暴力的に扱うようになる。グラーブは最近携帯電話を買ったが、そこには「シャールク・カーン」を名乗る見知らぬ男から度々電話が掛かってくるようになった。グラーブは彼との会話を楽しむようになっていた。 ラーニーと同じ村に住む親友のラッジョー(ラーディカー・アープテー)は夫のマノージと共に暮らしていたが、二人の間には子供がなかった。それが理由でラッジョーは夫から頻繁に暴行を受けており、その度にラーニーの家に駆け込んでいた。ラーニーとラッジョーは、青年社会活動家キシャン(スミト・ヴャース)が立ち上げた手工芸工房で働いていた。手工芸工房は村に現金収入をもたらすことが期待されていたが、グラーブとその仲間たちはヒーロー面するキシャンを面白く思っていなかった。 毎年ダシャハラー祭の時期になると村外れにメーラーができ、そこに見世物小屋が立っていた。そして村の男たちはそこで妖艶な踊り子ビジリー(スルヴィーン・チャーウラー)のダンスを鑑賞していた。ラーニーとラッジョーはビジリーと仲が良かった。ビジリーも二人のことを親友だと考えていた。ただ、ビジリーは売春を強要するボスに歯向かうようになっていた。同じ劇団で働くラージェーシュはビジリーに恋していたが、ビジリーは相手にしていなかった。 グラーブはジャーンキーをほとんど無視し、仲間たちと外出を繰り返しては、借金してまで売春婦とセックスをしていた。とうとう借金が返せなくなり、借金取りに捕まってしまう。ラーニーは金を払いグラーブを連れ戻すが、グラーブの悪行はますます手に負えなくなっていった。グラーブはビジリーのところにも金を持ってやって来ていた。ある日、グラーブは母親が必死に貯めた金を盗んで女遊びをする。ジャーンキーから責められたグラーブは彼女を暴行し、母親に止められると、家を去って行く。 ラッジョーは、夫から子供ができない責任を押しつけられていたが、男性にも不妊があるとビジリーから聞き、夫にも原因があるのではないかと考える。ビジリーは、自分を虜にしたヨーギー(アーディル・フサイン)をラッジョーに紹介する。ラッジョーはヨーギーとセックスをすることで、初めて愛に満ちたセックスを知る。しかも彼女は妊娠する。 ビジリーのボスは新たに若いレーカーを雇い、ビジリーと競わせるようになった。ラージェーシュはビジリーを連れて逃げようとするが、彼が自分に売春させて生活しようとしていることを知ったビジリーは絶望して拒絶する。レーカーに対抗心を燃やしたビジリーは、最近断っていた売春を受け入れるようになる。だが、彼女が取ったのは暴力的な客で、一晩中輪姦される。 ジャーンキーには実はヒーラーという恋人がいた。グラーブとの結婚前に突然髪を切ったのも結婚を止めたかったからだった。ヒーラーは時々ジャーンキーに会いに来ていた。ラーニーは当初ヒーラーを追い払うが、ジャーンキーからヒーラーとの関係を聞き、グラーブよりもヒーラーと一緒になった方がいいと考える。借金は返済できず、家を売り払うしかなくなる。ジャーンキーはヒーラーにジャーンキーを託し、自分も家を出て行く。 ラッジョーはマノージに妊娠したことを告げるが、マノージは別の男性の子供だと勘付き、ラッジョーを暴行する。ラーニーが止めに入るが、ラーニーも暴力を受ける。しかし、マノージの衣服に火が付き、そのまま焼死してしまう。ラーニーとラッジョーはビジリーと共にチャクラーに乗って逃げ出す。そして、三人とも髪を短く切って、「シャールク・カーン」のところへ向かう。
インドの辺境に住む人々、特に女性たちが、いかに時代遅れの因習に囚われて抑圧された人生を生きているか、あらゆる側面からそれが語られる。彼女たちは様々な理由によって、威張り散らす男性たちから暴力を受け、打ちのめされる。普通ならば見続けるのが辛いところだが、中には砂漠の中のオアシスのように、優しい男性から愛情が注ぎ込まれることもあり、救いになっている。映画に登場する女性は一律に抑圧されているが、男性は二極化している。これはもしかしたら女性が直面する現実と、女性がなかなか手にすることのできない理想を両極端に描写しているのかもしれない。そして最後には主人公の女性たちがその呪縛を振り切って自由を手にし、後味良くまとめている。
インド映画のレベルを越えた性描写にも注目だ。セリフもかなり際どい。そもそも性欲やセックスはこの映画の中心的なテーマだ。それぞれの女性が性愛に何らかの問題を抱えている。そして、インド映画としてはかなり攻めた性描写もある。特にラーディカー・アープテーは胸を露出して、タニシュター・チャタルジーとのレズ的シーンや、アーディル・フサインとの濃厚なセックスシーンにも挑戦している。もっとも、乳首周辺にはぼかしが入っていた。
「Parched」には多くの女性が登場する。それぞれの視点からこの映画を語るのも面白いだろう。
まず、主人公扱いなのが、タニシュター・チャタルジー演じるラーニーである。ただし、彼女は決して善なる存在ではない。そもそもこの映画は、グラーブとジャーンキーの幼児婚から幕を開けるのだが、それは母親のラーニーが決めたことだった。ラーニーは「女の子は勉強しても無意味」というのが口癖だったが、その価値観は、自分自身が勉強したい年頃に無理矢理結婚をさせられた経験から来ているようだった。つまり、ラーニーは女性でありながら、女性の教育レベルを率先して遅らせていたのである。
ただ、ラーニーがグラーブの結婚を急いだのは、グラーブが悪い仲間とつるんで女遊びをし始めたからでもあったと思われる。早く結婚させて落ち着かせようとしたのだが、強制的な結婚はうまく行かなかった。
また、ラーニーは夫と死別しており、それ以来男性に触れられていなかった。つまり、セックスを渇望していた。親友のラッジョーとレズ関係にあることも示唆されていたし、携帯電話をバイブさせて股間に当て快感を得てもいた。ただ、夫が生きているときも決して幸せな人生は送っていなかった。彼女の夫も暴力を振るうタイプの男性で、しかも浮気し放題だった。ラーニーがビジリーと出会ったのも、ラーニーの夫がビジリーを買ったことがきっかけだった。そんな出会いだったが、ラーニーとビジリーは親友になった。
ラーニーは最近、携帯電話を買ったが、そこに見知らぬ男性から卑猥な電話が掛かって来るようになった。その男性が「シャールク・カーン」を名乗ったため、単純な彼女は彼のことを本物のシャールク・カーンだと思い込んでいた。そうでなくとも、男日照りの彼女にとって、男性から声を掛けてもらえることに密かに喜びも感じていた。ラーニーは「シャールク・カーン」との会話を楽しむようになる。この辺りの心理描写が絶妙だった。
ラッジョーはいわゆる石女だった。ヒンディー語では「बाँझ」という。インドにおいて不妊の女性は無価値扱いされる。「Parched」に出て来るような、保守的な僻地の村では尚更のことだ。やはり彼女も夫から日常的に暴行を受けていたが、それは自分が石女だからだと考えていた。よって、もし子供を授かることができたら、夫から愛されるようになると信じて疑っていない節があった。世間のことをよく知っているビジリーは、不妊の原因は女性だけでなく男性にもあると教え、夫のマノージも検査をするべきだと言う。だが、完全に力で押さえつけられているラッジョーが夫にそんなことを言い出すことはできなかった。
次善の策としてビジリーが提案したのが、別の男性とセックスして子供ができるかどうか試すことだった。ビジリーは、セックスが最高にうまいヨーギー(行者)を知っており、彼をラッジョーに紹介する。アーディル・フサイン演じるそのヨーギーは洞窟に一人で住んでいた。ビジリーに誘われてヨーギーに会ったラッジョーは、マットの上で両足を開いて彼を受け入れようとする。その仕草から、彼女が夫とどんなセックスをして来たのかがよく分かる。だが、ヨーギーはまずラッジョーの足に恭しく頭を付け、次に彼女に対して手を合わす。冒頭で挙げた「女性が尊重される場所に神が住む」の通りの行為である。そして彼女を優しく抱き寄せ、セックスを始める。ラッジョーは初めて性の喜びを知り、しかも妊娠する。
妊娠3ヶ月になったとき、ラッジョーはマノージに妊娠を打ち明ける。ところがマノージは烈火の如く怒り出し、別の男の子供だと言って聞かない。マノージはもしかしたら自分が不妊であることを知っていたのかもしれない。妊娠さえすれば夫の愛を勝ち取れると信じていたラッジョーは愕然とする。マノージの怒りはそれだけではなく、ラッジョーが稼ぎを自慢していたことに対しても怒っていたと思われる。妻が働いて稼ぎ出すことは、伝統的なインド社会では、夫にとって不名誉なことなのだ。
村からほとんど出たことがなさそうなラーニーやラッジョーと異なり、スルヴィーン・チャーウラー演じるビジリーはあちこちを巡業してパフォーマンスをする踊り子であり、しかもボスに言われて売春もする女性でもある。彼女は世間のことをよく知っていた。二人に比べたら性を自分の武器にし、人生を奔放に楽しんでいる女性のようにも見られた。だが、彼女ももう30歳前後になっており、色気を駆使して踊り子や売春婦として稼ぐにはタイムリミットが近付いていた。ボスは新たに若くて野心的なレーカーを雇い、ビジリーの後釜に据えようとする。強気のビジリーもさすがに焦りを感じるようになっていた。
ビジリーの同僚であるラージェーシュは彼女に恋しており、ビジリーもそれに気付いていたが、彼を対等には見ていなかった。一度、ラージェーシュが彼女を連れて逃げようとするシーンがある。ラージェーシュは金持ちが彼女を連れにやって来ると言って、彼女をバス停で待たせるが、現れたのは彼自身だった。しかも、一緒にデリーへ行って同じことをして稼ごうと提案する。ビジリーは、男性たちの前で踊り、身体を売る現在の生活から救い出してくれる白馬の王子様の登場を待っていたのだが、ラージェーシュはあくまで彼女を使って稼ごうとしか考えていない浅はかな男性であり、そんな男性からしか言い寄られないことに絶望する。ビジリーはレーカーに対抗して売春目当ての客を取るが、酷い扱いを受け、さらにボロボロになる。
ラーニー、ラッジョー、ビジリーがメインキャラクターといえるが、ラーニーの嫁であるジャーンキーもそれに準じたキャラだ。ジャーンキーにはヒーラーという恋人がいた。ジャーンキーはヒーラーとの結婚を望んでいたが、両親が決めた相手であるグラーブと結婚することになってしまった。彼女は結婚を止めるため、結婚式直前に髪を切るが、それでも結婚式は行われてしまう。そして夫になったグラーブからは暴力的かつ冷酷な扱いを受ける。町に出て仕事をしていたヒーラーは、何度も彼女の婚家を訪れ、彼女を連れ出そうとしていた。全ての事情を知ったラーニーは、家や自分の名誉などそっちのけで、ジャーンキーをヒーラーに託す。そもそもグラーブが家出をし、借金の抵当に入っていた家を失ったラーニーには何も残っていなかったが、女性が女性の幸せを一番に考えればこのような決断もできるのだということが示されていた。また、出て来る男性ほぼ全てが、男性の女性に対する優越を疑わない暴力的な男性たちばかりであったが、ヒーラーは数少ない、女性が共感できる男性である。もう一人は絶倫のヨーギーだ。
あらすじでは触れなかったが、もう2人の女性キャラについて言及しておきたい。一人はサヤーニー・グプター演じるチャンパーである。チャンパーはウジャース村出身の女性で、結婚後は別の村に嫁いでいたが、実家に逃げ帰っていた。パンチャーヤト(村落議会)でチャンパーは婚家に戻るべしと判決が下され、無理矢理連れて行かれる。だが、取り乱したチャンパーは嫁ぎ先でどれだけ酷い仕打ちを受けているか必死で訴える。夫には外に女がおり、家では義理の父親や兄弟たちからレイプされる毎日を送っていたのである。チャンパーのその後については映画では語られなかったが、以前にも似たような状況にあった女性がおり、彼女は無理矢理婚家に引き戻された後、自殺をしたとのことだった。
もう一人はナオビである。この女性の人物設定は面白い。ナオビはマニプル州出身であり、キシャンの妻として村にやって来た。同じインド人ではあるが、村人たちは彼女を「外国人」として扱っていた。キシャンとナオビは村の振興のため、力を合わせて手工芸工房を立ち上げ、女性たちに仕事を与える。また、ナオビは近くの村で学校の先生もしており、村の中でもっとも学歴の高い女性だということが分かる。ナオビは外国人ではないが、外国人と似た視点からウジャース村に接していたと思われる。グラーブとその仲間たちはナオビをからかうが、そういう差別的な言動についてうまく受け流そうともしていた。だが、キシャンがグラーブたちに襲われ重傷を負ったことでウジャース村に愛想を尽かせ、村を出て行ってしまう。せっかくウジャース村に発展の明るい光が差し込んだところだったのに、それを村人たちが自らの手で消し去ってしまった。恵まれない人々を救いたい一心でインドでNGOなどを立ち上げる外国人もいるが、旧態依然とした村人たちから似たような仕打ちを受けることがあるのかもしれない。
インド農村部の様々な問題を複数の女性キャラにそれぞれ背負わせ、それをひとつのストーリーにまとめ上げる構成力が素晴らしい映画だった。キャスティングにも抜かりはなく、タニシュター・チャタルジーやラーディカー・アープテーといった一流の演技派女優を起用している。スルヴィーン・チャーウラーは知名度という点でその二人に比べると落ちるが、全く遜色なかった。ただ、結末にだけは不満があった。せっかく男性が支配する家父長制社会の束縛から抜け出し、髪を切って自由を手にした三人の女性たちだったが、彼女たちがとりあえず頼ろうとしたのは、ラーニーに電話を掛けて来る「シャールク・カーン」を名乗る男性であった。もちろん、ラーニーがこれから何の気兼ねもなく恋愛を楽しむという宣言でもあるのだが、結局男性を頼ることになると少しでも受け止められてしまう結末は、映画全体のフェミニズム的なテーマにそぐわないものだったと感じた。
「Parched」では、幼児婚、男尊女卑、不妊女性差別など、あらゆる社会悪に触れられていたが、持参金だけは特殊だった。通常、インドでは結婚時、花嫁側が花婿側に多額の持参金を支払わなければならない。だが、グラーブとジャーンキーの結婚では、花婿側が花嫁側に40万ルピーの持参金を支払わされていた。グジャラート州では、持参金を支払う方向が逆のコミュニティーがあるのかもしれない。ちなみに「Devdas」(2002年)でも花婿側が花嫁側に持参金を支払うコミュニティーが出て来ていた。
ちなみに、ビジリーが運転する、トライク状の派手な三輪車はグジャラート州農村部名物「チャクラー」だ。村の工房で部品を寄せ集めて作られている。乗り合いタクシーとして運行されることが普通で、村と村を結ぶ大切な公共交通手段である。
キシャンの努力によりウジャース村の女性たちには現金収入が舞い込み、村に初めてTVがやって来るというシーンがあった。そのTVがこれから村にどんな影響を与えるのかということにも興味が沸いたが、さすがに「Parched」はそこまでは見せてはくれなかった。
物語はナヴラートリ祭やダシャハラー祭の時期に進行していく。この時期、メーラーと呼ばれる移動遊園地が設置され、村人たちに娯楽を提供する。ビジリーがダンスを踊るテントもメーラーの一部として立てられたものであろう。リンク先を参照するとこの辺りの文化や、ストーリーとの関連性を理解することができる。
「Parched」は、しばしば理想郷として描かれるインドの農村の実態を、優れた脚本、過激だが有意義な性描写、そして実力ある俳優たちによる演技によって美しくまとめ描き出した傑作である。レビューが長くなってしまったが、まだ語り足りない部分があるくらい、様々な要素が詰まっている。それでいて整ったストーリーであり、リーナー・ヤーダヴ監督の高い手腕を感じさせられる。必見の映画である。