Bol (Pakistan)

4.0

 2007年に「Khuda Kay Liye」というパーキスターン映画が公開された。この映画は2008年にインドでも公開され、さらに日本でも「神に誓って」と言う邦題と共に映画祭や上映会などで何度か上映されている。パーキスターンはインドと違って映画産業よりもTVドラマ産業が発達しており、近年ロクな映画が作られていなかったのだが、この「Khuda Kay Liye」だけは例外で、世界的に高い評価を受けた。僕も、43年振りにインドで商業公開されたこのパーキスターン映画を舐めてかかっており、ゲテモノ見たさで映画館に見に行ったのだが、最初の数分でその考えを改め、その後はグイグイとスクリーンに引き込まれ、圧倒的な感動と共に映画館を後にすることになった。その「Khuda Kay Liye」の監督ショエーブ・マンスールが第2作を制作中との報を聞き、とても楽しみにしていた。

 ショエーブ・マンスール監督の第2作「Bol」はパーキスターンにおいて2011年6月24日に公開され、同国での興行記録を次々と塗り替える大ヒットとなった。「Bol」は早々にインド公開も決定し、イードゥル・フィトルに合わせて2011年8月31日に公開された。

監督:ショエーブ・マンスール
制作:ショーマン・プロダクション
音楽:アーティフ・アスラム、ショエーブ・マンスール、サッジャード・アリー、アハマド・ジャハーンゼーブ
歌詞:ショエーブ・マンスール、イムラーン・ラザー、アユーブ・カワル、アリー・モイーン、サッジャード・アリー
出演:フマイマー・マリク、アーティフ・アスラム、イーマーン・アリー、マーヒラー・カーン、シャフカト・チーマー、マンザル・セヘバーイー、ザイブ・レヘマーン、アムル・カシュミーリー、サーガル
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサントクンジで鑑賞。

 ザイナブ(フマイマー・マリク)は父親を殺害した罪で死刑を宣告され、大統領から恩赦も得られず、絞首台へ連れられて行こうとしていた。しかし、死ぬ前の最期の望みとして、絞首台にて記者会見を行うことを要求しており、大統領もそれを認めていた。ザイナブは集まった記者に対し、自分の身の上を静かに語り出す。

 ザイナブの家は印パ分離独立時にデリーからラホールへ逃れて来た移民の家系で、父親(マンザル・セヘバーイー)はハキーム(伝統医療の医者)だった。ハキームと妻スライヤー(ザイブ・レヘマーン)の間には7人も女の子が連続して生まれ、やっと生まれたと思った男の子サイフィー(アムル・カシュミーリー)も半陰陽で完全な男の子ではなかった。ハキームはサイフィーの存在を憎み、家の中に閉じ込めて表に出さずにいたが、彼は母親や姉妹たちから愛されて育った。だが、成長するにつれてサイフィーは女装に興味を持ったりして、自身を女性と考えるようになって来ていた。

 西洋医学が人々に普及して来るにつれてハキームの収入はみるみる減って行った。ただでさえ家では10人が暮らしていた。その上、ハキームは娘たちに基本的な教育しか施さず、家に閉じ込めていたため、稼ぎ頭はハキームのみだった。ハキームの家庭は次第に貧困に窮するようになる。

 長女のザイナブは嫁に出されるが、家に負担を掛けたくなかったために子供を作ることを拒否し、それが原因で出戻ってしまっていた。彼女たちの家の隣には、西洋医学の医者の一家が住んでおり、ハキームの次女アーイシャ(マーヒラー・ハーン)は医者の息子ムスタファー(アーティフ・アスラム)と恋仲にあった。ムスタファーは医学を学ぶと同時にロック歌手を目指しており、アーイシャと共にデビューすることを夢見ていた。

 サイフィーの女装趣味が度を過ぎるようになったため、ザイナブは彼を父親に内緒で働きに出すことを考える。サイフィーには絵の才能があった。ザイナブはムスタファーに頼んで、ラホール郊外でトラック塗装をする男の下でサイフィーを働かせることにする。ムスタファーは朝、通学途中にバイクでサイフィーを仕事場まで連れて行き、夕方家まで連れて来る。ところがそのトラック塗装場では男色が横行しており、サイフィーは男色者たちにレイプされてしまう。サイフィーのことを元々憎んでいたハキームは、今回の事件で激昂し、サイフィーを窒息死させてしまう。

 サイフィーの死はすぐに殺人だと疑われ、ハキームは警察に呼び出される。ハキームは自分がサイフィーを殺したことを白状する。警官は20万ルピーの賄賂を払えば事件をもみ消すことを約束する。しかし貧しいハキームの手元にそんな大金はなかった。

 ところで、ハキームは近所のモスクの運営委員会のメンバーで、寄付金を保管する役割を無理矢理担わされていた。ハキームはその役割を他のメンバーに譲りたいと何度も主張していたが、会長がロンドンへ行っていて不在だったためにずっと聞き入れてもらえなかった。信心深いハキームはいくら貧しくともそのお金に手を付けようとはしなかったが、今回は緊急事態だった。ハキームは仕方なく寄付金を賄賂に充ててやり過ごすことにした。そしてハキームは急いでその分だけ稼ぐために薬の辻売りを始める。しかし老齢のハキームには大変な仕事であった。そのときハキームには妙案が浮かぶ。

 ハキームが赴いたのはラホールの赤線地帯ヒーラー・マンディーで売春婦斡旋業を営むサカー・カンジャル(シャフカト・チーマー)の家だった。かつてハキームはサカーの母親に薬を処方していたが、彼がヒーラー・マンディー在住であることを知って絶縁していた。だが、サカーはかねてからハキームに対し、子供たちにコーランを教えて欲しいと依頼していた。ハキームはそれを思い出して彼を訪ねたのだった。サカーはハキームを歓迎し、ヒーラー・マンディーの子供たちにコーランを教える役割を任す。こうしてハキームはある程度の収入の見込みが出来た。

 しかし、運営委員会の会長が戻って来て、寄付金管理係の交代が決定する。ハキームはすぐに不足分の17万5千ルピーを用意しなければならなくなり、途方に暮れてしまう。そこでハキームはサカーに相談する。サカーはそれを支払うことを承諾するが、ひとつだけ条件があった。サカーは、ハキームに7人も娘が出来たことを知って驚き、女児を孕ます彼の能力を高く買っていた。サカーのような商売をする者にとって、男の子よりも女の子の方が圧倒的に価値がある。だが、彼には1人しか娘が生まれず、残りはどれだけ頑張っても男の子だった。そこでサカーは、自分の愛人のミーナー(イーマーン・アリー)と交わって女児を孕ますようにハキームに頼む。悩んだ末にハキームはそれを受け容れるが、その前に形式を重んじる彼は家族に内緒でミーナーと結婚する。

 その日からハキームは、サカーの子供たちにコーランを教え、ミーナーと交わる奇妙な日々を送るようになる。ハキームはすっかりミーナーの虜になってしまう。

 一方、ハキームがミーナーと結婚式を挙げている間、ザイナブは父親に内緒でアーイシャをムスタファーと結婚させていた。それを知ってハキームは激怒し、ザイナブの顔を鏡にぶつける。だが、それ以上のことはしなかった。

 そうこうしている内にミーナーは妊娠し、女の子が生まれる。喜んだサカーは、このままミーナーと交わり、2人、3人と女の子を孕ますようにハキームに言う。その度に報奨金も10万ルピーずつ値上げすることを約束した。しかし既にミーナーの虜となっていたハキームは、ミーナーと生まれた女の子を連れて逃げだそうとする。それを知ったサカーはハキームをつまみ出す。

 その晩、ハキームの家にミーナーが訪ねて来て、女の子を託して去って行く。ハキームは妻に、ミーナーを2人目の妻としたこと、その女の子は自分の子であることを明かす。それを知って怒り悲しんだ母親は取り乱し、娘たちも父親の行為に怒る。しかしハキームの専制下に置かれていた彼女たちは何も出来なかった。と、そのとき外で物音がして、サカーが手下を連れてやって来たことが分かる。それを見てハキームは身の危険を感じ、咄嗟に赤ちゃんを殺そうとする。それを見たザイナブは父親の後頭部を棒きれで叩いて殺してしまう。

 これが死刑囚ザイナブの語った全てだった。ザイナブは最後に、「なぜ人を殺すことは罪で、人を生むことは罪ではないのか?」と記者たちに問い掛け、絞首刑を受ける。記者はそれを報道し、彼女のそのメッセージは大統領の耳にも届く。

 最初から最後までヘビーでダークな映画だった。明るい部分は、家に恐怖政治を敷く父親がいなくなったときの子供たちの開放感を示すシーンと、アーイシャとムスタファーの恋愛のシーンのみだ。それ以外は次から次へと不幸のオンパレードで心は悲痛に沈む。しかし、非常に緻密に、かつ重厚に練り上げられており、映像もとても美しかった。明るいシーンも多い「Khuda Kay Liye」よりも見るのに覚悟のいる作品であるが、パーキスターン映画の名誉を損なわない出来である。

 印パ分離独立から導入部が始まっていたし、ハキームの家族があまりに前時代的な生活を送っていることから、てっきり今から数十年前の話なのかと思ったが、その後の展開やその他の細かい小道具(携帯電話など)を見る限り、舞台は現代である。しかしながら、映画の主張するメッセージは、一般の日本人が驚いてしまうほど前時代的なものだ。それは「生む罪」という問題の提起、裏を返せば「生まない権利」という問題である。少子化の進む日本では、むしろ生まないことが罪となって行き、生むことがもてはやされ、必要とされつつあるが、パーキスターンの大部分の女性は、正に「生む機械」としての役割しか認められておらず、男の子が生まれるまでひたすら子供を生まされ続ける。それが貧困に拍車を掛け、このハキームの一家のように不幸を呼び込むことになる。

 劇中では他にも様々な問題が描写されていた。伝統医学をはじめとした伝統的な職業の衰退、過度の家父長主義の弊害、女性の教育問題、スンナ派とシーア派の対立の問題、警察の汚職問題、大統領に必要な情報が渡らない問題などなど。変わったところでは半陰陽や性同一性障害の問題にも触れられていた。しかしそれらはストーリー上で簡単に触れられるだけで、深入りはされていなかった。クライマックスにおいて死刑囚ザイナブの口から映画の中核的メッセージとして発せられるものは、それらよりももっと基本的な、そしてもっとも根本的な、女性の人権の問題であった。このような映画を21世紀になっても作らなければならなかったことに、パーキスターンは大いに恥じなければならないと感じる。

 登場人物の中でもっとも際立っていたのはハキーム・サーハブである。コーランの前で嘘が付けないほど誰よりも信心深く、モスク運営委員会のメンバーたちから寄付金の管理係を任されるほど信頼厚く、社会的に非常に認められていた人物であるが、彼は家庭においては監獄の看守のような恐ろしい存在であった。彼が直面していた悩みは2つ。ひとつは伝統医学が次第に時代遅れとなっており、収入が減少しつつあること、もうひとつはなかなか男の子が生まれず、女の子ばかりが増えてしまっていることである。どちらもどうしようもないことであったが、この2つが彼と彼の家族をぐいぐいと締め付けて行った。経済的に困窮したハキームは、その行き場のない鬱憤を妻や娘たちに対して暴言と暴力という形で発散させていた。それがさらに家庭の雰囲気を悪くした。

 皮肉なことに、彼が信じて止まない宗教やアッラーは、彼の家庭に何の救いの手も差し伸べなかった。むしろ、彼の盲信が問題をさらに複雑化させて行った。半陰陽の息子サイフィーを殺したことで、彼は宗教上のタブーさえも犯すことになる。もちろん殺人はタブーだが、元々ハキームは生まれた直後にサイフィーを殺しておけばよかったと考えており、彼を殺したこと自体には罪の意識はそれほど感じていなかったはずである。だが、そのことをきっかけに彼はイスラーム教によって禁止されている贈賄をすることになり、下賎な生まれと毛嫌いしていた売春業者の子供たちにコーランを教えることになり、しかも娼婦と結婚して金のために子供を作るという最悪の行為に関わることになる。そして最後は実の娘に殺されてしまう。彼の信仰心は結局彼の人生を上向きにさせるのに全く役に立たなかった。つまりは、「Khuda Kay Liye」と同様に、イスラーム教原理主義への批判的な視点があったと言える。

 また、盲信的な父親を見て育って来たために、長女ザイナブは宗教に懐疑的な考えを持っており、事あるごとに父親と対立していた。彼女には、「何でもアッラーにお任せ」という宗教依存の気持ちがなく、自分の努力で人生を切り開いて行こうとするガッツがあった。残念ながらザイナブは死刑になってしまうが、残された母親や妹たちは彼女のそのガッツを受け継いだ。エンディングで簡単に描写されるが、ハキームとザイナブを失った彼女たちは遺された邸宅の前で簡易食堂を始め、それがやがて「ザイナブズ・カフェ」となり、さらには邸宅を利用した高級レストランにまで発展した。あまりに理想主義的かつ予定調和的な「エピローグ」ではあるが、全体的に暗い雰囲気のこの映画の中で、途中の息抜きの数シーンを除き、ほとんど唯一ホッとできるシーンである。女性たちの自立を描いたこのエピローグは、「Khuda Kay Liye」のエンディングで、女の子たちに教育を施すためにパーキスターンの村に戻るメリーの姿と重なるものがある。

 よって、ザイナブの口から直接発せられる映画のメッセージは「生む罪」の是非であるが、ハキームとザイナブの対立やザイナブ亡き後の家族の自立を見ると、監督が本当に込めたかったものは前作「Khuda Kay Liye」とそんなに変わらないことが分かる。特にパーキスターンの女性問題に対する監督の懸念が強くうかがわれる。

 ちなみに、ハーキムがサイフィーを殺す前に、目をつむってディーワーネ・ガーリブ(ウルドゥー語詩人ミルザー・ガーリブの詩集)を開き、指先に止まった詩句から行動を決断をするシーンがある。その詩は以下の有名なものである:

نہ تھا کچھ تو خدا تھا کچھ نہ ہوتا تو خدا ہوتا
ڈبویا مجھ کو ہونے نے نہ ہوتا میں تو کیا ہوتا

Na Tha Kuchh Toh Khuda Tha Kuchh Na Hota Toh Khuda Hota
Duboya Mujh Ko Hone Ne Na Hota Main Toh Kya Hota

 この詩はシンプルな語彙で構成されていながら――またはそれ故に――様々な意味を読み取ることができるのだが、この映画の文脈で言えば、ハーキムはこの詩を以下のように解釈したと考えることができるだろう――「サイフィーがいないときには神がいた、サイフィーさえいなければ神がいたことだろう、サイフィーの存在が私をどん底に突き落とした、サイフィーさえいなければ私は今どんなだっただろう」。この詩から啓示を受け、ハーキムはサイフィーを殺したのである。また、その後にもハーキムがコーランを使って同様に啓示を得ようとしたシーンもあった。

 その役柄に加えて、演技力や雰囲気そのものから、ハキームを演じたマンザル・セヘバーイーは素晴らしかった。演技を感じさせない、まるで本当のハキームがそこにいるかのような、最高の演技であった。長女ザイナブを演じたフマイマー・マリクはTVドラマで活躍して来た女優で、今回が映画初出演となる。彼女も迫真の演技であった。ただ、どちらかというと次女アーイシャを演じたマーヒラー・カーンの方が長女っぽい雰囲気を持っていたかもしれない。娼婦ミーナーを演じたイーマーン・アリーは、「Khuda Kay Liye」でメリーを演じていた女優である。前作とは一転して妖艶な雰囲気を醸し出していた。また、ムスタファーを演じたアーティフ・アスラムの本業はミュージシャンである。パーキスターンの人気バンドJalの元ボーカリストで、現在はソロで活動している。さらに、パーキスターンの現首相ユースフ・ラザー・ギーラーニーに似た人物が大統領役で出て来ていた。

 「Khuda Kay Liye」は楽曲の素晴らしさでも絶賛された映画であった。当然「Bol」にも同様の期待を抱いていたのだが、残念ながら「Khuda Kay Liye」ほど音楽に気合いの入った作品ではなかった。全体的に雰囲気が暗く、ストーリーに音楽を合わせにくかったのかもしれない。音楽的に見所となるのは、アーティフ・アスラム演じるムスタファーがギターを弾いたりコンサートで歌ったりするシーンである。

 パーキスターン映画ではあるが、いくつか過去のヒンディー語映画やヒンディー語映画女優への言及がある。例えば「Pakeezah」(1972年)とその主演女優ミーナー・クマーリーや、「Umrao Jaan」(1981年)などである。娼婦ミーナーは、ミーナー・クマーリーへの憧れから自分の源氏名を「ミーナー」とした。

 言語はウルドゥー語であったが、ラホールという土地柄、パンジャービー語の台詞も少しだけ入る。トラック塗装屋の親父やサカーなどはコテコテのパンジャービー語を話す。

 「Bol」は、パーキスターン映画の傑作「Khuda Kay Liye」に続くショエーブ・マンスール監督の新作。前作よりもヘビーでダークな物語であるが、緻密な人物描写、完成度の高い脚本、美しい映像などのおかげで引き込まれるものがある作品である。残念ながら音楽はそこまで優れていない。パーキスターンの女性問題がテーマであるが、もちろんインドも全く無関係ではない問題だ。インドでは同時公開となったサルマーン・カーン主演「Bodyguard」(2011年)よりはよっぽど鑑賞する価値のある映画である。