Ishqiya

4.0

 マルチプレックス時代の到来により、ヒンディー語映画の境界は急速に拡大し、従来の枠組みに囚われない様々な映画が作られるようになった。この動きの中で重要な役割を果たしている監督は何人かいるのだが、ヴィシャール・バールドワージはその一人である。元々音楽監督として活躍していたのだが、映画監督にも進出し、ヒンディー語映画の発展に大きく寄与して来た。ヒンディー語映画界で子供向け映画というジャンルに最初に挑戦したのも彼であるし、シェークスピア劇のヒンディー語映画化というトリッキーな企画を成功させたのも彼である。そのヴィシャール・バールドワージの下で研鑽を積み、この度監督デビューを果たしたのがアビシェーク・チャウベーであり、彼の第1作が本日(2010年1月29日)より公開の「Ishqiya」である。ヴィシャール・バールドワージがプロデューサー、音楽監督、脚本、台詞など全面的にバックアップしている他、名優ナスィールッディーン・シャーが出演していることなどから、作品の高い完成度が予想された。

監督:アビシェーク・チャウベー(新人)
制作:ラマン・マールー、ヴィシャール・バールドワージ
音楽:ヴィシャール・バールドワージ
歌詞:グルザール
衣装:パーヤル・サルージャー
出演:ナスィールッディーン・シャー、ヴィディヤー・バーラン、アルシャド・ワールスィー、サルマーン・シャーヒド、アーディル・フサイン、ラージェーシュ・シャルマー、アヌパマー・クマール、ガウリー・マーラー、アーローク・クマール、アニーシャー・バーノー、ジャイ・スィン
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞、ほぼ満席。

 こそ泥仲間のカールージャーン(ナスィールッディーン・シャー)とバッバン(アルシャド・ワールスィー)は、ボスのムシュターク(サルマーン・シャーヒド)から金を猫ばばして逃亡中であった。逃亡生活の中でネパールに亡命することに決め、ネパール国境近くに位置するウッタル・プラデーシュ州のゴーラクプルに立ち寄る。ゴーラクプルにはヴァルマーという悪党仲間がおり、とりあえず彼を頼ることにした。

 しかし、ヴァルマーはガスシリンダーの爆発で焼死していた。家にはヴァルマーの未亡人クリシュナー(ヴィディヤー・バーラン)が一人で住んでいた。二人はクリシュナーの家に滞在することにする。

 クリシュナーは妖艶な魅力を持った女性だった。まずはカッルージャーンが彼女に惹かれ始め、後にバッバンも惚れ込んでしまう。だが、すぐにムシュタークに居所がばれ、二人は捕まってしまう。金を返さなければならなくなり、二人はクリシュナーの家に隠しておいた金を探すが、いつの間にかなくなっていた。しかしそのおかげで二人には猶予期間が与えられた。ムシュタークは1ヶ月以内に250万ルピーを用意するように告げ、去って行く。もし用意できない場合はクリシュナーもろとも殺されることになってしまった。

 このピンチを切り抜けるため、クリシュナーは身代金目当ての誘拐を提案する。ただのこそ泥だった二人はクリシュナーの大それた計画に腰を抜かすが、結局それを実行することになる。死んだヴァルマーは誘拐のエキスパートで、潜在的誘拐ターゲットを詳細に記録したメモが残っていた。クリシュナーの提案で、地元の鉄鋼王カッカルを狙うことになる。三人はカッカルの毎日の行動を偵察し、誘拐のタイミングを計る。その中でカッカルに愛人がいることが分かった。彼は頻繁にお忍びで愛人に会いに行っていた。そのタイミングを狙ってカッカルを誘拐することにする。

 しかしその前に誘拐用の自動車を調達しなければならなかった。カールージャーンはファイザーバードまで行ってワゴン車を盗み、帰って来る。ところがその間にバッバンはクリシュナーと情事を繰り広げていた。それに勘付いたカールージャーンはヘソを曲げる。険悪な状態のまま誘拐計画は実行に移される。しかし連携のまずさからカッカルに逃げられそうになる。とっさにカールージャーンは逃げるカッカルの車に発砲する。それによってタイヤがパンクし、道路脇の溝に突っ込んでカッカルは頭を打ち、意識を失ってしまう。カールージャーンとバッバンが責任のなすりつけ合いをしている間にクリシュナーはカッカルを乗せた車を運転して去って行ってしまう。

 カールージャーンとバッバンがクリシュナーの家に戻って来たときには、カッカルは家のどこかに隠されていた。クリシュナーはどこかから250万ルピーを出して来て、二人に立ち去るように言う。彼女の話によれば、カッカルはネパールから武器の密輸をしている非常に危険な人物であるらしい。しかし、カールージャーンとバッバンはクリシュナーを力尽くで抑え込み、縛り上げてカッカルを探す。カッカルを見つけ出した二人は、カッカルから5千万ルピーをせしめようとする。カッカルが武器の密輸をしているというのもどうやら嘘のようであった。ところが二人が金の受け取りに行くと、そこには武装した私兵が待ち構えていた。カッカルが武器密輸の関係者であるのは本当であった。

 カールージャーンとバッバンは森林に連行され、殺されそうになる。しかし、彼らの処刑を命じられたのが偶然にも以前バッバンと仲良くなっていた少年ナンドゥー(アーローク・クマール)であった。ナンドゥーは突然姿をくらましたが、噂通り私兵に入隊していたのだった。ナンドゥーはクリシュナーとヴァルマーの話を彼らに聞かせる。なんとガスシリンダー爆発で焼死したとされていたヴァルマーは今でも生きているとのことだった。警察から逃亡中だったヴァルマーは、妻のクリシュナーの愛が重荷になったこともあり、自らを焼死したように見せかけ、そのまま行方をくらましてカッカルと共に武器密輸を牛耳っていたのだった。しかし、クリシュナーもヴァルマーの死を信じておらず、カッカルを通じてヴァルマーを探し出そうとしていたのだった。

 ナンドゥーのおかげで命を助けられたカールージャーンとバッバンは、思い立ってクリシュナーの家に立ち寄る。ちょうどそこにはカッカルを探して彼の妻、愛人、そしてヴァルマーがやって来ていた。ヴァルマーは縛られていたクリシュナーを見つける。クリシュナーは夫との再会を喜ぶ。だが、同時に彼女はガスシリンダーを爆発させて心中しようとしていた。既にガスは放たれていた。それに気付いたヴァルマーは逃げ出そうとするが、ちょうどそこへカールージャーンとバッバンが警察に追われてやって来ていた。ヴァルマーのマフィアと警察の間で銃撃戦が始まり、その混乱の中でカールージャーンとバッバンはクリシュナーを連れて逃げ出す。まだヴァルマーが家の中にいる内に火が放たれ、ヴァルマーはガス爆発によって今度こそ焼死する。

 カールージャーン、バッバン、クリシュナーは三人で目的もなく歩き出す。その裏からムシュタークが彼らに狙撃銃の照準を合わせていた。

 インドのロマンス映画というと、ボーイ・ミーツ・ガールの歌って踊って結婚して・・・というイメージが定着してしまっている。同じような筋を数十年間何度も何度も繰り返して観客に見せており、観客もそれを喜々として受け容れて馬鹿騒ぎをしているような印象を持たれている。その先入観に敢えて反論はしない。だが、それについて結論を出す前に一度、この「Ishqiya」を観るべきだ。これは一応ロマンス映画の範疇に入る作品である。しかし、単なるロマンス映画ではない。舞台はゴーラクプル。ウッタル・プラデーシュ州東部にある実在の地方都市である。ネパール国境近いこの街では、各カースト・コミュニティーが自衛のために武器を持ち、私兵を編成して、抗争を繰り広げている。言わば無法地帯である。そういう荒廃した環境の中でくすぶる、愛のもっとも複雑な形が「Ishqiya」では力強く描かれている。それを一言で表現することは出来ない。映画を観るしか方法はないし、映画を観た後もそれを咀嚼することは困難である。

 映画の冒頭でオウムの小話が語られる。マウルヴィー(法学者)は、飼っていた雌オウムが下品な言葉を覚えてしまい困っていた。一方、カーズィー(裁判官)が飼っていた2匹の雄オウムはコーランを暗唱し、アッラー、アッラーと鳴く育ちの良いオウムであった。マウルヴィーは、自分の雌オウムの口の悪さを直すため、それをカーズィーの飼っている2匹の雄オウムと一緒の鳥かごにしばらく入れてもらうことにする。・・・この結末がどうなったのか、そのときは語られずに終わる。だが、この小話が「Ishqiya」全体の伏線になっていると捉えるべきである。妖艶な未亡人クリシュナーの家に滞在することになったこそ泥二人組のカールージャーンとバッバン。二人は当初クリシュナーのことを幼気な未亡人と考え、手玉に取ろうとするが、実際に手玉に取られたのは二人の方であった。二人はクリシュナーに惚れてしまい、そのせいで元々あったトラブルがさらに大きくなってしまう。

 しかし、「Ishqiya」の核心はカールージャーン、バッバン、クリシュナーの三角関係ではない。クリシュナーとヴァルマーの間の複雑な愛であり、それは冒頭、タージマハル型のネックレスを巡る会話の中に凝縮されていた。ヴァルマーはクリシュナーに金製のタージマハルのペアネックレスをプレゼントする。タージマハルはムガル朝の皇帝シャージャハーンが死んだ愛妻ムムターズ・マハルのために造った墓廟である。生きた人へタージマハルをプレゼントするということは、愛と死の両方を与えるということを意味する。この映画はひとつとして無駄な台詞がない。タージマハルのネックレスをプレゼントされたクリシュナーはヴァルマーに焼き殺されそうになるのだが、彼女は生き延びた。ヴァルマーに対するクリシュナーの愛は、以後単なる愛ではなく、狂おしいまでに愛するが故の復讐という形を取る。

 もう少し詳しく書くと、ヴァルマーは妻と警察から逃げるために、別人の死体を用意して自分の死を偽装し、ガス爆発で焼死したように見せかけて逃亡していた。その爆発にクリシュナーも巻き込まれたが、それもヴァルマーの計画の内で、彼は彼女を殺そうとしていた。しかし彼女は火傷を負うものの一命を取り留める。家の残骸の中から焼死体が見つかり、公式にはそれがヴァルマーだということになるが、クリシュナーは直感から(遺体にはタージマハルのネックレスがなかった)それがヴァルマーではないと気付き、以後どこかで生きているはずのヴァルマーを追い求めるようになる。クリシュナーは偶然飛び込んで来たカールージャーンとバッバンを利用してヴァルマーの右腕のカッカルを誘拐し、ヴァルマーの居所を突き止めようとする。そしていざヴァルマーが目の前に現れると、再びガス爆発を起こして心中しようとするのであった。つまり、クリシュナーの執念が「Ishqiya」全体のストーリーの原動力になっている。クリシュナーは劇中で「愛に理由はない」と語っているが、その一言が彼女の一連の行動を象徴している。また、はっきりと明かされてはいなかったが、結局カールージャーンとバッバンの金を隠していたのはクリシュナーだったのだろう。

 ラストで、ムシュタークに照準を合わされていたカールージャーン、バッバン、クリシュナーの三人がその後どうなったのかは描写されなかった。それは、オウムの話が未完で終わってしまったのと同様に、観客の想像に任せられたのであろう。そもそも三人のその後まで詳細に語り尽くす必要性も感じなかった。むしろ寸止めしたことでより広がりのある映画になっていたし、その気になれば続編も作れるだろう。

 映画の雰囲気は、ヴィシャール・バールドワージ監督の「Maqbool」(2003年)や「Omkara」(2006年)と酷似している。北インドの乾いた美しさ、むき出しで絡み合う欲望、砂埃にまみれた台詞回し、人生のどうしようもなさ、何から何までバールドワージ監督の犯罪映画の影響が大きい。しかし、上記の2作品がそれぞれシェークスピアの「マクベス」と「オセロ」を原作としているのに対し、「Ishqiya」は見たところオリジナルであり、その分堂々と胸を張れる部分がある。このような大人の恋愛映画が出て来るようになったことは、ヒンディー語映画の成熟と表現してもいいだろう。

 主人公の三人の演技は絶賛に値する。ナスィールッディーン・シャーは「Maqbool」などを思わせる見事な小悪党振りで人間味溢れる演技だった。やはり巧い俳優である。「Munna Bhai」シリーズのサーキット役が大受けしたことでコメディアンのイメージがこびりついてしまい、その払拭に苦労しているアルシャド・ワールスィーは、今回今まで培って来たイメージを踏襲しながらも、かなり違った方向性を打ち出せており、「Ishqiya」は彼に取って大きな前進だと言える。そしてヴィディヤー・バーラン。真の主人公は彼女だ。デビュー作「Parineeta」(2005年)での息を呑むような演技が今でも忘れられず、僕の中ではヴィディヤー・バーランと言ったら依然として「Parineeta」だったのだが、この「Ishqiya」を見て、遂に「Parineeta」に上書き保存できるような彼女を見られたような気がする。狂気すれすれの正気という微妙な精神状態を演じさせたらヴィディヤーは非常に巧い。この映画で何らかの賞を狙うことも可能であろう。アルシャド・ワールスィーとのベッドシーンなど、妖艶な演技も大胆にこなしていた。

 ヴィシャール・バールドワージが音楽監督を務めている上に、彼の盟友グルザールが歌詞を担当しているだけあり、楽曲にも気合いが入っていた。イタリア映画的な哀愁漂う「Dil To Bachcha Hai」は音楽・歌詞共に最高レベル。ラーハト・ファテー・アリー・カーンの自然な歌声もいいし、「心ほど卑劣な奴はない・・・」という歌詞は、クリシュナーへの愛に溺れて行くカールージャーンとバッバンの心情をよく表現していた。「Ibn-e-Batuta」は物語の導入部に流れる音楽で、冒頭のロードムービー的な雰囲気をよく表している。物憂げなバラード「Ab Mujhe Koi」、古典声楽的雰囲気の「Badi Dheere Jali」も印象的である。共にヴィシャール・バールドワージの妻レーカー・バールドワージが歌っている。

 この映画では一人として標準ヒンディー語を話す人物がいない。皆それぞれ癖のあるヒンディー語を話す。ゴーラクプルが舞台になっているだけあり、当地で話されているボージプリー方言がかなりの割合を占めるが、よそ者のカールージャーンとバッバンはおそらくブンデーリー方言か何かをしゃべっていた。はっきり言って普通にヒンディー語を習っただけではこの映画の台詞の大半は理解できないだろう。聴き取りの難易度はかなり高い。通常のヒンディー語映画に比べてデーヴナーグリー文字の登場頻度が高かったのも特殊であった。「インターバル」の文字ですらデーヴナーグリー文字であった(普通は英語)。

 以上、かなり詳しく解説をしてしまったが、「Ishqiya」はそれに値する作品だ。お子様お断りのグロテスクなロマンス映画。これをしてヒンディー語ロマンス映画の成熟としたいが、もしかしたら単なる突然変異の異端児なのかもしれない。しかし、昨年「Dev. D」(2009年)が心地よい驚きをもたらしてくれたのを思い出せば、着実にヒンディー語映画界で新たな才能が芽生え始めているのは錯覚ではないと感じる。通常のインド娯楽映画を求める観客層には全く向かないが、ヒンディー語映画のフロンティアを冒険したい人には必見の作品である。


https://www.youtube.com/watch?v=qAQyMVtxFAg