ヒンディー語映画界の中で異彩を放つ映画監督・脚本家のアヌラーグ・カシヤプ。2月に「Dev. D」(2009年)をヒットさせたと思ったら、その1ヶ月後の2009年3月13日にもう次回作が公開された。「Gulaal」である。2001年から構想を始めたと言われており、それが真実だとすると、公開までに8年の歳月を要したことになる。題名になっている「グラール」とは、ホーリー祭のときに使われる色粉のことである。だが、ホーリー祭とは全く関係ない、暗いトーンの映画であった。
監督:アヌラーグ・カシヤプ
制作:Zeeライムライト
音楽:ピーユーシュ・ミシュラー
歌詞:ピーユーシュ・ミシュラー
出演:ケー・ケー・メーナン、ディーパク・ドーブリヤール、アーディティヤ・シュリーワースタヴ、ピーユーシュ・ミシュラー、アーイシャー・モーハン、ラージ・スィン・チャウダリー、マーヒー・ギル、パンカジ・ジャー、ジェシー・ランダーワー、ムケーシュ・バット、アビマンニュ・シェーカル・スィン
備考:PVRプリヤーで鑑賞。
ラージャスターン州の古都ラージプラーの大学に入学したディリープ・スィン(ラージ・スィン・チャウダリー)は、同じ大学に通う刹那主義の学生ラナンジャイ・スィン(アビマンニュ・シェーカル・スィン)と同じ家に下宿することになる。だが、ディリープは不良学生ジャドワール(パンカジ・ジャー)にいじめられる。ディリープは、そのとき同様にいじめにあっていた新任の女性教師アヌジャー(ジェシー・ランダーワー)と出会い、心を通わすようになる。 ディリープがジャドワールにいじめられたことを知ったラナンジャイは仕返しをしに行くが、返り討ちに遭ってしまう。そこでラナンジャイは、ラージプーターナー党を結成し、ラージプート復権を目指す地元の有力者ドゥキー・バナー(ケー・ケー・メーナン)に会いに行く。ドゥキーとその忠実な部下バッティー(ディーパク・ドーブリヤール)は学生間の争いを調停する。 時はダシャハラー祭の頃で、大学では学生自治会選挙が行われようとしていた。ドゥキーはラージプーターナー党からラナンジャイを会長に立候補させることにする。対立候補として出馬したのは、女子学生キラン(アーイシャー・モーハン)であった。実はラナンジャイはマハーラージャーの息子であったが、キランとその兄カラン(アーディティヤ・シュリーワースタヴ)は、マハーラージャーの妾の子供であった。カランは妹を勝たせるため、ラナンジャイを誘拐し、殺害する。ラナンジャイの訃報を聞いたマハーラージャーも心臓発作を起こして死んでしまう。 ドゥキーはラナンジャイの代わりにディリープを立候補させた。ドゥキーは不正を行ってディリープを勝たせる。敗北したキランは、今度はディリープに色気を使って近付く。すっかりキランに恋してしまったディリープは、彼女を自治会の中に入れる。だが、その勝手な行動にドゥキーは怒り、ディリープとの間に亀裂が生じる。文化祭のために集めた金の使い道でもドゥキーとディリープは対立する。また、このときディリープは、ドゥキーが革命を起こそうとしていることを知ってしまう。やがてディリープは会長を辞任させられる。また、キランは妊娠をきっかけにディリープを避けるようになる。そして、キランは今度はドゥキーに近付く。キランの恋に狂ったディリープは、姿をくらましたキランを探し続けるが、気付いたらキランはディリープの代わりに自治会の会長になっていた。キランは、権力を手に入れるためにディリープの心を利用したのだった。 それでも納得のいかないディリープは、拳銃を持ってドゥキーの家へ行き、彼を撃つ。だが、そこにはキランはいなかった。キランを探して自治室へ行ったディリープは、バッティーらを殺した末にようやくキランと再会する。だが、キランは彼のことを少しも愛していなかった。ディリープはカランとキランの手下たちに殺されてしまう。また、ドゥキーはとうとう息絶えてしまう。 ドゥキーが死んだ後、ラージプーターナー党のリーダーにはカランが就任することになった。ラージプーターナーの独立を求める運動はまだ始まったばかりであった・・・。
この映画の下地になっているのは、1971年にインディラー・ガーンディー首相(当時)が断行した、マハーラージャーら封建領主の特権と財産の剥奪である。印パ分離独立後にインド連邦共和国に参加し、新国家形成に協力した封建領主たちは、1971年を境に一般市民となった。民主主義の名の下にインド政府によって行われたこの改革を、封建階級であったラージプートたちは裏切りだと考えており、失われた栄光を取り戻すためにラージプート王族の末裔たちがラージプーターナー党を結成し、ラージプーターナー独立のための決起を準備するというのが、「Gulaal」のストーリーの出発点であった。ラージプーターナーとは、ラージャスターン州の古い呼び名である。ラージプーターナー党の党員たちは、自己のアイデンティティーを隠すために顔に色粉を塗っていたが、それが題名に関連している。ただ、そうして結成されたラージプーターナー党の決起がストーリーの本質ではなく、劇中で主に語られていたのは、ラージャスターン州の架空の古都ラージプラー(ジャイプルがモデルになっているのは明らか)の大学の学生自治会選挙での仁義なき政治抗争であり、さらに言うなら、人間の渦巻く欲望ドラマであった。
「Dev. D」と同じく、「Gulaal」に登場するのは一癖も二癖もあるぶっ飛んだキャラクターばかりである。酒、タバコ、麻薬などの小道具が当たり前のように登場し、セックスも赤裸々に描かれる。暴力描写も激しく、学生間の権力争いなのにも関わらず銃が火を噴き、人がどんどん死ぬ。しかも人間模様は複雑で、多くが詳細に語られないため、ストーリーを追うのが非常に困難だった。何かシェークスピア劇的な、または「マハーバーラタ」のような大叙事詩的な大作を作ろうとするカシヤプ監督の意気込みは分からないでもないのだが、説明足らずで独りよがりになっている部分が多く、エンディングも納得の行くものではなかった。カシヤプ監督の映画は、複雑なプロットをスッキリと分かりやすくまとめてあることが多く、それが彼の異才たる所以だと思うのだが、「Gulaal」に関しては足りない部分があったと思う。
「Gulaal」でもっとも重要なのは、真面目な学生だったディリープ・スィンが次第に荒れて行く過程であり、そのための重要なファクターとなっていたのはキランの存在である。だが、ディリープとキランの関係が丁寧に描かれておらず、突然2人はくっつき、突然キランがディリープから離れて行くような感じであった。他の部分は丁寧さがなくてもある程度想像力で補えるが、ここだけは映画の核となる部分なので、しっかりと押さえておくべきだったのではないかと思う。
それでも、「Dev. D」でも見られた粋なブラックジョークは「Gulaal」でも健在であった。全体のトーンは非常に重苦しいのだが、その中に思わず笑ってしまうようなシーンがいくつも織り交ぜてあった。特にドゥキーの家に住む音楽家と舞踊家の存在は異様であった。
ケー・ケー・メーナンを除き、ほとんど無名の俳優で占められていたが、皆しっかりとした演技のできる俳優たちばかりであった。ラージ・スィン・チャウダリー、アーイシャー・モーハン、ジェシー・ランダーワー、アビマンニュ・シェーカル・スィン、ディーパク・ドーブリヤールなど、皆それぞれ個性のある魅力を持っており、今後それぞれ羽ばたいて行きそうである。もちろん、もっとも異彩を放っていたのはケー・ケー・メーナンである。他に、アーディティヤ・シュリーワースタヴやパンカジ・ジャーなども良かった。マーヒー・ギルは「Dev. D」のヒロインである。今回は踊りを披露する機会が多く、彼女がかなりダンスを得意とすることが分かったが、彼女の演じた役はあまり本筋に絡んでこず、重要性が低かった。だが、概して「Gulaal」の俳優陣は実力派揃いである。
音楽も作詞もピーユーシュ・ミシュラーが担当している。「Dev. D」ほどではないが、田舎くさい新しさのある音楽が揃っていた。ピーユーシュ・ミシュラーはプリトヴィー・スィン役で出演もしている。
ちなみに、アヌラーグ・カシヤプ監督自身もカメオ出演している。
もしかしたら僕は「Gulaal」を自分勝手に評価する権利を持っていないかもしれない。台詞が難しく、人物設定も複雑で、全体や深層を完全に理解することができなかった。どこまでがジョークで、どこまでが本気なのか、それすらもよく分からないシーンがあった。単に作りが雑なために理解できなかったのかもしれないが、もしかしたらとても深い映画で、僕の鑑識眼が足らなかったのかもしれない。しかし、一般向けの映画でないことは確かだ。アヌラーグ・カシヤプ監督の作風が好きな人が観ればいいだろう。