ウルドゥー語がなければ・・・

 インドを代表するアパレルブランドであるファブインディア(fabindia)が2021年10月に以下のような広告を出し、炎上した。

 インドの文化と言語に関する知識がなければ何が問題なのか分からないだろう。

経緯

 まず、この広告は、ヒンドゥー教三大祭のひとつに数えられるディーワーリー祭に合わせて発表されたコレクションを宣伝するためのものであった。ディーワーリーの時期は、インド人の消費活動が一年で最も盛んになる時期で、各セクターで熱い商戦が繰り広げられる。アパレルブランドがディーワーリーに新作コレクションを発表するのはごく普通の慣習である。

 ファブインディアは、そのコレクションの名前を「Jashn-e-Riwaaz」とした。これが炎上したのである。

 「Jashn-e-Riwaaz」とは「伝統の祭り」という意味であるが、これはウルドゥー語的な語彙を使っている。正確に表記すると実は「Jashn-e-Riwaaj」なのだが、その点はここでは突っ込まない。

 ウルドゥー語はインド生まれの言語で、ヒンディー語とほとんど同じ言語であるが、主にアラビア文字で表記され、アラビア語・ペルシア語の語彙が豊富に使われるため、一般に「イスラーム教徒の言語」と考えられている。ウルドゥー語は、インドにおいては第8附則言語のひとつ、つまり、州公用語のひとつとみなされている一方、パーキスターンにおいては国語の地位を与えられている。

 ヒンディー語やウルドゥー語を少しでも学べば、ウルドゥー語を「イスラーム教徒の言語」とするのは誤った偏見であることが分かる。インドに住むイスラーム教徒が全員ウルドゥー語を話しているわけでもないし、ヒンドゥー教徒にもウルドゥー語を使いこなす人がいる。言語と宗教は無関係である。

 それでも、学識のない人々はウルドゥー語を「イスラーム教徒の言語」と見なし、攻撃して来た。今回、ファブインディアがヒンドゥー教徒の祭りをウルドゥー語で表現したことで、偏屈なヒンドゥー教至上主義者たちが問題視し、ファブインディア排斥運動を起こしたのである。

ヒンディー語とウルドゥー語

 ヒンディー語とウルドゥー語の歴史は複雑だ。そもそも「ヒンディー」とは「インドの」という意味の形容詞であり、イスラーム教徒がインドにやって来たときに、インドで話されている言語を「ヒンディー」やそれに類似する言葉で呼んだ。彼らの多くは、トルコ語を母語とし、アラビア語を宗教語とし、そしてペルシア語を公用語とする人々であった。特にインド亜大陸においてイスラーム教の政権が樹立した13世紀以降、それらの言語の語彙とインド土着の言語が混ざり合うことで、アラビア語やペルシア語の語彙を取り込んだ言語が醸成されて行った。それも長らく「ヒンディー」などと呼ばれていた。当時インドの公用語であったペルシア語と対比する上で、「土着の言語」といったぐらいの意味であった。

 ムガル朝が求心力を失うにつれて、ペルシア語はインドにおいて公用語としての地位を失い、代わって庶民の言葉が宮廷でも使われるようになった。それは、庶民の言葉とは言っても、ベースが口語なだけである。そして、たまたまムガル朝衰退期の首都がデリーにあったため、デリーで話されている言語がそのベースとなった。デリーの言語は一般にカリー・ボーリーと呼ばれる。

 カリー・ボーリーは宮廷において洗練され、アラビア語やペルシア語の語彙が意図的に多用され、高度な文学への使用に耐え得る形に発展して行った。それをいつしかウルドゥー語と呼ぶようになった。「ウルドゥー」とは「軍営」という意味である。当時の王朝は軍事政権であるため、軍営とは宮廷と同義だ。宮廷の官僚には、イスラーム教徒もヒンドゥー教徒もいた。官僚の仕事をするためにはウルドゥー語の語学力が必須であった。

 19世紀半ば、インドが完全に英国の領土となったことで、インドの公用語は英語となった。言語を取り巻く環境が激変する中で、一部のヒンドゥー教徒知識人は、アラビア語・ペルシア語の語彙を、インドの古典語であるサンスクリット語の語彙で置きかえ、新しい言語を作り出そうとした。それが今日で言われる「ヒンディー語」である。インド独立後、このヒンディー語は連邦公用語の地位を獲得し、普及に努められたが、特に南インドでヒンディー語に対する反発が強く、今でもインド全土に満遍なくヒンディー語の教育は行き渡っていない。一方、パーキスターンが分離独立し、新国家の国語がウルドゥー語となったことで、インドにおいてウルドゥー語は敵性言語のような扱いを受けるようになり、今日に至る。

インドにおけるウルドゥー語

 では、21世紀のインドにおいてウルドゥー語はほぼ死に絶えたかと言うと、そういう訳でもない。公共の場で積極的に使用されている訳でもなく、文壇が盛り上がっている訳でもないが、ウルドゥー語に対する憧れのようなものは、ウルドゥー語を解しないインド人から時々感じることがある。特に「東洋のフランス語」の異名を持つペルシア語からの借用語に備わった美しい響きは文芸にピッタリで、19世紀に活躍したガーリブやミールと言ったウルドゥー語詩人たちの詩は今でもインド人に根強い人気がある。ただし、ウルドゥー語を解しない、と言っても、アラビア文字が読めないだけで、インド人の多くは耳で聞いて理解している。

 ウルドゥー語は、映画の歌詞や台詞にも多用されている。現在、「ヒンディー語映画」と呼ばれている映画の言語は、実はウルドゥー語の要素も多分に含んでいる。ヒンディー語至上主義者たちが「ウルドゥー語」と呼んで糾弾するペルシア語の語彙は、ヒンディー語映画にはなくてはならないものだ。あまりにそれらの語彙がヒンディー語の語彙と一体となってしまっているため、教養のない人々からしたら、どれがペルシア語の語彙なのか分からなくなってしまっているのが実情ではなかろうか。その中で、日常であまり使われないペルシア語の語彙を取り上げて、イスラーム教徒への嫌がらせをしているように感じざるを得ない。

ウルドゥー語なしのヒンディー語映画

 ファブインディアの広告炎上によってウルドゥー語が改めてクローズアップされたことで、ウルドゥー語擁護者たちの声も大きくなった。例えば、IshqUrdu(ウルドゥー愛)というInstagram/Twitter/Facebookのアカウントは、「#BollywoodWithoutUrdu(ウルドゥー語なしのボリウッド)」というハッシュタグを使って、ヒンディー語映画の過去の名台詞を、ペルシア語の語彙なしに言い換えて発表している。4つほど挙げてみよう。

 これはラージ・カプール監督・主演の名作「Sangam」(1964年)の中の有名な曲「Dost Dost Na Raha」の冒頭部分を言い換えたものだ。赤字がアラビア語・ペルシア語起源の語彙であり、これらがヒンドゥー教至上主義者の言う「ウルドゥー語」となる。

Dost Dost Na Raha
Pyar Pyar Na Raha
Zindagi Humein Tera
Aitbaar Na Raha

 実に4割の単語が「ウルドゥー語」となっている。「友は友でなくなり、愛は愛でなくなった。人生よ、私はお前を信じられなくなった」という意味である。これを「ヒンディー語」的な語彙で言い換えると、だいぶ雰囲気が変わってしまう。果たして、言い換え後のような歌詞だったら、名曲になり得ただろうか。

 これはレーカー主演の名作「Umrao Jaan」(1981年)で使われる有名な曲「Dil Cheez Kya Hai」の冒頭歌詞の言い換えだ。

Dil Cheez Kya Hai
Aap Meri Jaan Lijiye

 これもおよそ4割が「ウルドゥー語」となっている。「心がどんなものか、あなたは私の命を奪ってごらんなさい」という意味である。言い換え後の歌詞では、元にあるような滑らかさが全くなくなり、角張った雰囲気になってしまう。

 これはアムリーシュ・プリーが悪役モガンボを演じて人気を博した「Mr. India」(1987年)の中でモガンボが口癖のように言っていた台詞の言い換えである。実際には以下の台詞だった。

Mogambo Khush Hua

 「モガンボは嬉しい」という意味である。これはこれで言い換え後のものでも良かったかもしれない。

 これはアクシャイ・クマール主演「Mohra」(1994年)の曲「Tu Cheez Badi Hai Mast Mast」のサビである。

Tu Cheez Badi Hai Mast Mast

 「お前はとてもそそる女だ」という意味だ。「ヒンディー語」の語彙では何だか宗教歌のように聞こえてしまう。

ファブインディアの対応

 このようにヒンディー語映画は、ヒンドゥー教至上主義者の主張する狭義のヒンディー語では成り立たない。過去でも現在でも、そしておそらく未来でも、いわゆる「ウルドゥー語」とされる語彙がなければ、完全な形にはならない。それらを抱擁する、広義のヒンディー語の存在を認めるべきであり、それでもって「ヒンディー語映画」とするべきだ。ウルドゥー語をイスラーム教徒のものと考えて排斥するのはあらゆる意味で間違っている。ヒンドゥー教の祭りをそれらの語彙で表現したところで、ヒンドゥー教徒が何の不利益を被るのだろうか。

 だが、ファブインディアも利益を優先する企業であるため、炎上に敢然と立ち向かうことはできなかったようだ。新作コレクションの名前を「Jashn-e-Riwaaz」から無難な「Jhilmil Si Diwali(光輝くディーワーリー)」に変更し、沈静化を図ることになった。確かに「Jhilmil Si Diwali」には、アラビア語やペルシア語の語彙は含まれていない。YouTubeで配信されている広告からも「Jashn-e-Riwaaz」の文字が消えている。

Jhilmil Si Diwali by Fabindia✨

 今回の件は、ファブインディアにとってはとばっちりでお気の毒であったが、現代インドにおけるウルドゥー語の存在を考え直すいい機会にはなったのではないかと思う。